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「選択=捨てる」は安直。

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 茜色に染められる空を見上げ、ヒルダはふうと息をついた。背後にはつい今さっきくぐった公爵家の門がある。ルフマンが、駄々を捏ねまくったかと思えば不意に思いきり拗ねてみせ、そのまま門まで送ってくれた。ドルフも温室を出るまで微笑んで見送ってくれたので、二人ともヒルダの発言に嘘はないと信じてくれたのだろう。

『また来てくれなきゃ呪っちゃいますからね!!』とルフマンに言われたが、公爵家の従僕に必要なのだろうかその素養。言動が子どもらしいわりに内容が妙に物騒だ。あと重い。
 主人が招いた客人をなんだと思っているのか、とも疑問に思った。客人に対してやけに図々しいルフマンの態度は、ヒルダじゃなければ怒ってもおかしくない。

(ある程度、素性に予想はついてるけど)

 環境に圧されて自由を失う者はヒルダだけではないと、そういうことだろう。
 そんなことを考えながら公爵家の門から遠ざかっていき、曲がり角を曲がったと同時に、ヒルダは我慢を止めた。
 不意に全力疾走を始めた少女に往来の人々がぎょっと振り向いていくが、ヒルダはその驚愕を切り裂くように駆け抜けた。
 そうでもしないと、胸のうちにわだかまる気持ち悪いモヤモヤに狂わされそうだった。

 不甲斐なさ、恥ずかしさ、悔しさ、悲しさ。

 己の不安の正体に気づいたあの時から、ヒルダは笑顔の下で吐き気すら催しながら懸命にそれらと闘っていたのだ。それが全てなかったことにはならないが、走ったらすっきりするだろう。所詮その程度のものでもあった。遠駆けしてすっきりしたように。

「――ヒルディアさま!!」

 そしてすれ違ったシドは、一瞬見逃しかけたところを慌てて馬首を返し、ヒルダを追いかけるためにまた馬を走らせた。声をかけたものの、馬蹄の響きにかその他の理由でか気づかなかったらしい、恋した人の止まらない背中は振り返る様子も見せない。
 貴族の邸宅が密集するとはいえ人通りが多い往来で、誰にも被害を与えず自在に馬を操るシドの腕は明らかに一級品だ。それが今、惜しげもなく披露されている。止まらない背中を追いかけるために。実際は数十歩、というところなのであっさり追いついたが、シドは馬脚を駈け足から常歩へ変えペースダウンさせていくことももどかしかった。

「あ、シド」

 そして、ヒルダは視界の隅を行き過ぎてゆったりと進む馬に乗った人物に、やっと我に返った。ぴったりと自分の足を止めると、どっと疲労が押し寄せてきた。膝に腕を立て、荒く息をする。シドはその様子を見ながらも、ついさっきまで疾駆していた馬を放置するわけにもいかないので、興奮する馬から降りてそわそわと宥めた。
 ある程度の呼吸を整えたヒルダは、火照った顔のまま、シドにゆっくりと歩み寄った。

「もしかして、あたしのこと探してた?」
「はい。そのご様子ですと、バルメルク公爵家に向かったわけではなかったのですか?」
「ううん。行った、その帰りよ」

 朗らかな口調のわりに相当な内容の発言に、シドはぴしりと固まった。

「無断で飛び出してごめんなさい。兄上たちはもう帰ってきたわよね。あたしが出るときはまだだったけれど、どうして予定より遅れていたのかしら」
「……ヒルディアさま」
「ファリーナさまやアレンに申し訳のないことをしてしまったわ。まだお茶会が続いてる時間でしょう?大丈夫だった?」
「……ヒルダさま」
「晩餐のお誘いを断ってきちゃったの。状況が状況だったから、あんまりお菓子も食べれなかったし。ちょっとお腹空いちゃった」
「…………ヒ、ヒル、ダ」
「なぁに?」

 ヒルダはにっこりと笑って、やっと呼びかけに応えた。内心で語尾に小さくさんをつけたものの、ここまで進歩したシドの努力は誉められるべきだ。正直これだけでも心臓に悪い。想い人の鮮やかな微笑みに恐怖とは違う理由で動悸までし始めているし。

「ねえ、シド。あたし、もう少しゆっくり帰りたいの。それと、相談したいこともあるから、一緒に歩いてくれない?約束したその日で悪いけど」
「……はい」

 ヒルダの申し出に従ったものの、足並みを揃えて家路を辿る二人の間は当分沈黙しか存在しなかった。シドは何度か口火を切ろうとしては躊躇し、結局空気を飲み込むだけに終わっている。アレンをこの場に召喚したかった。今すぐ。
 しかし彼は今、スートライト家にいる。地面の下までめり込みそうなほど落ち込む主人たちを宥めるためにと、シドを差し向けておいてアレンが屋敷に残ったのは、彼自身の提案によるものだった。

『おれの方が口が上手い。お前じゃこいつらの相手できないだろ』

 アレンのその言葉には頷くしかなかった。片思い同士、ヒルダが心配じゃない訳ではないのに、適材適所にシドに迎えの役を譲ってくれた。しかしここにもアレンの技能は必要だったのではないかとぐるぐる悩んでいるのが現在である。
 また、商会関連の情報しかないアレンとセシルの従者として侯爵家周辺の情報を持っているシドでは、今日の異常事態への理解度が大きく異なっていた。例えばアレンは、ヒルダがなぜバルメルク公爵家に突撃したのか具体的な事情を知らないが、シドは特に主人の「ヒルダだけが狙いだったのか」という発言からおおよその当たりを付けられている。主人のあの取り乱しようでは、城で王妃にも似たようなことを、とも。
 職務に忠実なシドが打ちひしがれる主人を放り出してまでヒルダを探しに来たのは、頭の回転が早いシドの方が的確にヒルダについて対応できるという都合もあったのだ。
 アレンもシドも、お互いに、「シド(アレンさま)がいれば大丈夫」と思っていたゆえだった。恋敵ゆえか最近お互いをよく観察していたからこそその能力を把握し、信頼できるとわかっていた、それが発揮された形だ。

「……バルメルク公爵家の、どなたとお会いになったのですか?」
「当主のドルフさまよ。あたしの小さな頃の恩人がね、あの方と所縁があったらしくて」

 悩み悩んでこれでいいのかと思いつつ問いかけたそれにあっさり返事をされたが、曖昧な答えではあった。
 しかし、シドは少し考えるだけで納得できた。

「ですから、ヒルディア、さ、んをご存じだったんですね」

 惜しい、と思いつつヒルダは肯じた。

「あたしのこれまでの努力を――その結果を評価してくださったの。養子になってくれ、だって。そうじゃなくてもあたしの後見人になってくださるらしいわ」

 そこで言葉を途切らせたのはわざとだった。ちらりとシドの反応を窺うと、やはりまた固まってしまっている。しかし、驚愕だけが理由ではなさそうだった。
 予想はできていたが目の当たりにしてしまったゆえ、といったところか。しばらく待っていると、からからに渇いた声が問いかけてきて、ヒルダは確信を得た。

「……お断り、されましたか?」
「保留しちゃった」

 アレンも同じ事を言っただろうなと、ヒルダは口元を緩めた。ヒルダの立ち位置を、身近な人々の中で一番客観的に捉えられているからこその発言。
 保留、というヒルダの返答には固まらないのも証拠の一つだ。

「でも前向きに検討はしているわ。今すぐ決められないのは、兄上とアデルにちゃんとお話ししなきゃいけないから、なんだけど……」

 だから、頼っていいだろうか。言葉に甘えて相談してもいいだろうか。
 シドの馬の手綱を引くのとは逆の腕の袖を申し訳程度につまんで、ちょっとだけ引く。振り返ったシドの目を見ようと思ったが、さすがにそこまでは無理だった。

「……あたしね、兄上とアデルに、置いていかれたくなかったの」

 俯いて溢すのは、最近だけの話ではなく、昔からのヒルダの努力の目標。

「兄上の頭のよさはシドもよくわかってるでしょ?アデルもね、勉学となると途端に不安になるけど、空気の読み方とかそういう、本能とか肌で感じることについてはすごく賢いのよ。あたしは二人の半分の才能も持っていればいい方でね」
「……」
「独りにさせたくなかったから、邪魔になると分かってても二人の傍にくっつきに行ったの。でもせめて何か理由がほしくて、頑張って勉強して、同じだけのことができるように経験を積んでいって」

 ヒルダはなによりも兄妹を愛していた。人並み外れるからこそ孤独になる二人のために、我が身が傷つくことすら厭わないほど、真剣に。
 凡愚だと謗られようと努力を諦めなかった。周囲から忘れられても、兄妹とすら見られなくても。
 だから自分が影に潜んでいた自覚は皆無。他人に自分を評価してくれと期待したことはない。強いて言うなら、あえて兄妹とみなすくせに勝手に期待して勝手に失望していくことが勘に障りまくったくらいのものだ。大事な兄妹を化け物のように言うのもムカついた。 

 それでも、最後は全てがどうでもよくなった。努力は実らず、兄妹のために傷を負うことこそ許容できても、自らを道具として扱われることまでは許していないのに、最後の尊厳すら踏みにじられて。
 キレて絶縁状を作らせてまで王都に来たのに。――晴れて自由を手に入れたはずなのに、ヒルダはまだ、なにも変わろうとも思っていなかった。
 勘当が周囲に知られた場合のリスクも承知の上で、懲りもせず自分が泥を被れば済むからと兄を頼った。

「今でも、傍にいるのに理由が必要だと思ってるのよ、あたし。……これっておかしいでしょ?」

 なにも言わず、少しも動こうとしないシドの態度が、肯定を示していた。
 兄妹なのに。誰よりも近くで、一緒に育ってきたのに。理由なんて常識的に考えれば全く必要ない。でもそれを許されなかったのは、ヒルダではなく両親のせい。区別という名の差別によって一番に歪まされたヒルダの常識観は。

「頼られたかったの」

 兄妹の絆を、心の奥底でとても浅ましいものと捉えていたのだ。

「だから、ファリーナさまが二人に気に入られてるのを見て、もうあたしの居場所はなくなったんだって、そう思ったの」
「それは違います」

 すかさず反論したシドは、ヒルダの泣き笑いの顔に目が離せなくなった。

「うん。わかってる。今はもう、ちゃんとわかってるわ」

 でも不安の正体に気づくまでは無意識下で思い込んでいた。だからシドやニーナと、強引にでも親しくなろうとした。二人の友だちになれば、二人の主人である兄やアデルと接点ができるから。兄とアデルの理解者という地位を、ヒルダによく似た性格のファリーナに取られたと思って、それでもすがりたくて。
 ……なんとも滑稽で、下らない。

「――は、私がセシルさまの従者ではなかったら、親しくなさろうとも思わなかったんですか?」

 その問いに、ヒルダはまた俯いて、うっそりと笑った。落胆させただろう、失望させただろう。傷つけただろう。無意識でもシドそのものの存在を軽んじたのだから。謝っても済むとは思えない。だから、黙ってその言葉を受け入れた、のに。
 次の瞬間、袖を握っていた手が、逆に握り込まれた。

「……シド?」
「あなたの言う『相談』とはなんですか」
「……えっと、話聞いてた?」
「ええ。過去は過去、ということですよね?」
「過去って、数時間前まで……」
「私だってこれまでの振る舞いで、あなたのことを、それこそ長年に渡って落胆させてきたでしょう。傷つけてきたでしょう。――でも、今は頼っていただけているようで……」

 それなら思いっきり調子に乗ります、とシドは真顔で言い切った。
 過去の過ちも失態も全て帳消しにはならないけれど。ヒルダが「今」を見てくれるから、引け目があるはずのシドは堂々と真っ正面からヒルダを見ることができる。

「今とても嬉しすぎて困ってます」
「え、そ、そうなの?見えないけど……」
「よく言われます」

 なにがだ、と突っ込もうとしたヒルダは、握られた掌の温かさを今さら感じて、ついにへにゃりと笑った。

「相談とは?」
「……あたし、間違ってないかなって。また知らないうちに視野が狭くなってないかな?」
「広いですよ。ご自分を第三者の目から判断するようになったんですから」
「うーん、バルメルク公爵家っていうとんでもないおうちの人から言われてようやく、なんだけど。自惚れてないよね、あたし」
「むしろ私が自惚れてますね」
「……なんの話?」
「今のお話です」

 真面目に聞いているのかと見上げると、シドはふいと視線を逸らして歩みを再開した。まだ手を握られたままなので、引っ張られる形でヒルダも歩き始めた。そういえばこんな風に手を繋ぐのも、兄妹以外ではなかったな、と思う。ヒルダの人生経験は浅くはないが、非常に狭い。何度か握り返して遊んでいたヒルダは周囲の町並みをぼんやりと見ていたので、シドが首まで真っ赤になっていることにも気づかなかった。

「……いいのよね、どっちとも選んでも」

 国の繁栄の証である賑やかな王都。夢の都、衰えを知らぬ華やかさは、叶わぬ望みはないと新参者に訴えかけてくるようで。
 もちろん影はその分暗く深いが、ドルフと対談した手応えで、ある程度強大な権力者に対しても自分の能力が十分通用することはしっかり把握した。

「ね、シド。兄上たちを慰めるの、頑張ってね」
「……丸投げですか?」
「だってどうしても悲しませちゃうもの」

 もちろんご機嫌をとるつもりはあるが、これまでヒルダを真綿でくるむように守ってきてくれた二人はどうしても悲しむだろう。ヒルダには落ち込ませないだけで精一杯だ。そして、その未来がわかっていても、ヒルダは立ち止まるという選択はしない。

「たとえあたしが兄上たちの庇護を離れたからって、兄妹なのは変わらないし、あたしは二人とも、ちゃんと愛してる」

 例えばいつかアデルがどこかへ嫁いだり、兄上が密約の完遂によってスートライト侯爵でなくなったり、あたしが二人の庇護から外れようと。
 どれほど誰かが変わろうと。

 この愛だけは揺るぎなく、あたしの生きる糧であり続けるのだ。








☆☆☆











 ……ということを後々、きちんと説明したら、ヒルダの愛しい兄妹は揃って大号泣した。

 前から泣いていたのが、だばっとまた堰が切れたように涙を流し、脱水症状にならないように、シドとアレンとニーナとファリーナと、五人がかりで世話を続け、宥めすかし、仕方がないなぁと思いながらも今度だけは絆されてはいけないから、説得に五日間くらいかけて……。

「その間に見事に仕事が溜まっちゃったわね」

 六日後、ヒルダは商会の仕事部屋で腰に手を当てて、思わず遠い目になってしまった。侯爵家の兄の部屋も今頃、大変なことになっていそうだ。アデルも課題が試験がとひいこら言っていたが、今日明日は侯爵家別邸から出られないので、ファリーナに学園帰りに通ってもらって面倒を見てもらう予定だ。なぜアデルが外に出られないのかというと、五日間ぶっ通しで泣きすぎて、さすがの美貌が見る影もなくむくれてしまったから。目がまともに開かないし声はガラガラ。アレンなんか大爆笑していた。途端に鳩尾を殴られて悶絶していたが。
 兄も似たようなもので、外に赴く用事は全て体調不良でごまかしつつ、今頃滞る裁可の書類をさばいていることだろう。
 泣きべそをかきながら。

(アデルはともかく、兄上があそこまで泣いてるのを見たのは初めてだったわ……)

 五日間は渦中にいたため、そんな驚きも放り投げて慰めに走っていた。それも最初から覚悟していたので堪えられたが、そうでなければ今頃また絆されていたはずだ。天下の「絶氷」の身も世もない嘆きっぷりに、アデルには笑っていたアレンもドン引きしたくらいだ。シドも言わずもがな。

「絶氷」の通り名は、常にどんな時だろうと慌てず怜悧な態度を評したものだが、同時に、彼の人間関係も指していた。友好的に接する者は社交界においても有数なのだ。それが妹の自立発言でがったがたになってしまったのだから、 アレンたちの驚愕は仕方がない。
 しかし、セシルは今回ばかりは泣き落としの自覚はない。王妃に与えられた衝撃がことのほか重かった直後の追い討ちに、絶氷と謳われた思考力がパーンと弾けとんだのだ。

 あとに残るのは、いい年して子どものように頑是ない兄と妹。途中バルメルク公爵家や王妃からヒルダ宛に手紙が届いたので返信はしたものの、当分は無理です、としか返せなかった。ドルフはともかく王妃は思いの外あっさりと引き下がったので、ヒルダとドルフのやり取りをどこからか聞き付けたのだろう。
 まさか王妃にまで目をかけられていたとは思っていなかったが、嬉しいのは嬉しい。昔、とても優しくしてくれた公爵家の「リサお姉さま」のことはきちんと覚えていたので。
 先日の夜会では一瞬目立ったにも関わらずスルーされたので覚えられてないかと思っていたが、単純に空気を読んでいただけだったようだ。

(よーし、とりあえず、一ヶ月よ)

 こんなに現実逃避しても積まれた仕事の量は変わらなかったので、いい加減ヒルダは腹を括ってペンを執った。
 目標は、一ヶ月後までに商会の仕事をきっちり覚えること。この仕事を続けつつ、一ヶ月後からはドルフの元で別の研鑽も積むつもりだ。
 スートライト家の庇護を外れろとは言われたが、商会の仕事を辞めろとも言われてないし。両方果たすなら文句は言わないだろう。というかヒルダは言わせるつもりがない。
 同時に、兄と妹の機嫌もたくさん取る。
 王妃にも呼び出されるかもしれないが、一日だけという約束らしいし、そう困ることにはならないだろう。

 忙しいなぁ、と苦笑いしつつペンを走らせていく。
 それでも、ただのヒルダにとっては輝かしい毎日だ。欲しいものも諦めていたものも全てを掴んで、絶対にもう二度と離さないと、毎日実感する日々だから。

 忙しいが生きているとも思わせられるので、華やかな都が見せる夢とは厄介だなと、一瞬だけ微睡むように目を閉じた。
 



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