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16.ルシアの奮闘と動揺
しおりを挟むルシアはディランの用意してくれた服を着て再び伯爵家の門をくぐった。
着ている服が少し特別なだけでも背筋が伸びて、胸を張って堂々と歩くことができた。不思議と気持ちも落ち着いていて、昔の嫌な記憶が何度も頭をよぎることもなかった。
出迎えには父と母、そしてナタリアもいて、帝国でのディランの地位が高いせいか、とても丁寧なもてなしだった。まるで別人のように。
ルシアとディランはすぐに応接室に通されて、お茶を出されて数分談笑したのち、話し合いはすぐに始まった。
婚約の取り決めは思ったよりスムーズに進んだ。伯爵家が持参金を出すのが難しく、むしろ融資が必要であると金銭的援助を求めてくることは想定内で、ディランはその条件を飲んで契約書にサインした。
そしてサインした直後に伯爵はにやりと微笑んで部屋の外に声をかけた。
「ナタリア、来なさい」
ガチャリとドアが開いて豪華なドレスにいくつもの宝石をつけて着飾ったナタリアが微笑みながら応接室に入ってきた。わざとらしくルシアの顔を見てにこりと笑う。まるで自分の方が価値があると誇るように。
考えすぎかもしれないが、そんな気がしてルシアは視線を逸らした。
いつもは視線を逸らして自信なさげに俯いていただろう。だが、今日はディランからもらったドレスと宝石を着ていたおかげで顔を上げて穏やかな表情を浮かべていられた。
例え100人が見て、美しいと感じるのがナタリアだったとしても、ディランが美しいと褒めるのがルシアならそれでいい。
他の人になんと言われようと、ディランに良いと思ってもらえるならそれでルシアは満足だったし、価値があると感じるようになっていた。
何の反応も示さないルシアにナタリアは一瞬、眉を顰めたが、すぐにまた愛嬌のある笑みを浮かべてディランの前に立ってお辞儀をした。
「お初にお目にかかります。ナタリアと申します」
あれだけ竜人族を嫌がってお見合いパーティーにも行かなかったのに。ディランの足の先から頭のてっぺんまでじろりと見るなり満足げな笑みを浮かべる様子がとても不快だった。
ディランはナタリアの方をチラリと見て素気なく会釈をしただけだったが、ナタリアは馴れ馴れしくディランの座るソファの隣に腰を下ろした。
「ほうやはり、よく似合うな」
父は並んで座るディランとナタリアの方を見てわざとらしくそう告げた。
「あの…一体どう言った意味でしょうか」
流石のルシアも困惑して尋ねる。父親は先ほど取り交わしたばかりの契約書をとんと叩いて答えた。
「何を言う。婚約が成立したばかりだろう」
どこか小馬鹿にするような理解していないルシアを嘲笑う言い方に胸がギュッと締め付けられる。またルシアが悪いのだろうかと一瞬思い、俯きかけた時、薄紫色のドレスが目に入って顔を上げた。
誰が何と言おうと、ディランのことを信じようとルシアは誓ったのだ。こんなどうしようもない人の言葉に惑わされてどうする。自分に言い聞かせて持ち直すルシアの様子をディランは優しい瞳で見ていた。
「私はルシアを貰い受けるつもりですが」
ディランがはっきりと宣言すると父は口角をいやらしく上げながら答えた。
「そうです。もちろんそのつもりですよ。嫁ぐには世話係も必要でしょうから」
「世話係…」
ルシアが怪訝そうに小さく呟くと父はすらすらと喋り始めた。
「書面には我が伯爵家と血続きになる旨が記されています。娘と公爵様が婚約すると」
そこまで言われるとルシアもようやく父が何を言わんとしているのかを悟り、目を見開いた。
誓約書には伯爵家と公爵家が縁を結ぶと言うことしか印されていない。この書面を取り決めた伯爵家当主の娘と公爵家の当主が縁を結ぶことになり、公爵家の当主はディランしかいないが、伯爵家当主の娘にあたるのはルシアだけではない。
つまりはナタリアにもディランの妻になる権利があると言うことだ。
そして、父はそのつもりで書面にサインをしたのだろう。
「我が伯爵家には娘は2人おりますが、ルシアよりもこのナタリアの方が容姿も優れており、教養もあり気立もいい。ルシアを少しでも良いと感じて下さったのならば、ナタリアのことはその何倍も良いと感じることでしょう。公爵様には礼を尽くしたいと私も思っておりますから、ぜひナタリアをと申しているのです。ですが、ナタリアも1人で知らない土地に嫁ぐのは心細いでしょう。公爵様がルシアも気になるとおっしゃるのでしたら使用人としておまけにつけるのもやぶさかでは有りません」
おまけ…?
「公爵様にどのように取り入ったのかはわかりませんが、これは年層な上に手入れも行き届いておらず大変見苦しい。その上まともな教養もない。もしそれでもよければ」
ルシアは今度ばかりは真っ直ぐ前を見ることができなくなって視線がしょぼしょぼと下がっていく。
全てが全て、父の言うことが正しいとは思わないが、年層であることも、身嗜みに無頓着なことも、社会性が今一つなことも嘘だとは言えない。
急激な不快感が腹の底から上がってきて呼吸が少しずつ浅くなる。
でも、ここで引き下がっては何も変わらない。
「お父様、私は私が番として帝国の公爵家に嫁ぎたいというお話をしにきただけです。…は、話が違います」
常に受身のルシアが口を挟むと思っていなかったのか父親はいささか驚いた顔をしつつもまた小馬鹿にしたような口調で告げた。
「何も違ってないだろう。お前が帝国に行くことは誰も止めていない。行きたいなら好きにすればいい。ただお前のような奴が妻になるなど公爵家に失礼だろう。ナタリアが代わりに妻の役目を果たしてくれると言ってるんだ。迷惑をかかる前にお前は側仕えとして公爵様をお慰めする仕事に専念すればいい。まあそのうちそれもナタリアの仕事になるかもしれんがな」
「…もう、お父様ったら」
恥ずかしいわ、とナタリアは微笑みながら満更でもなさそうな顔で告げる。どことなく自信ありげな様子で。
別邸で堅苦しい本とディランと穏やかな街の人々からしか知識を得たことがないルシアはその言葉の意味がわからず初めはキョトンとしていたが、父とナタリアの反応、自身の置かれた立場を鑑みて賢い頭はすぐに意図を察して頬を赤く染めた。
なんて下品な話をしているのだろう。恥ずかしくて、なんだか居た堪れなくて反応に困りどうしたらいいかわからなくなる。
否定したいが何をどうしていいかわからなくてとうとう俯いてしまった。
ディランはそんな不誠実な人じゃない。そもそも番の拘束力はそんな弱いはずがない。
そう言いたかったが、男性と仲がいいことを女性側から主張するのは貴族の社会では滅多にないことで、とてもはしたないことのように感じてルシアは黙り込んでしまう。
どうしよう。ここまではちゃんと自分の意見を言えたのに。ペースを乱されると途端に不安になって自信がなくなる。
「ああ、念のためにお伝えしますが、伯爵家から公爵家に仕えることになる全ての使用人は伯爵家で得た個人の権限は全て剥奪され、伯爵家のものとなるためご安心を。公爵家で怪しい動きをしないように書面に加えておきましたので」
その父の言葉がルシアにさらなる追い討ちをかけた。
もし、ルシアがこのままナタリアの世話係として公爵家に渡る場合、魔草薬の製造権などの諸々の特許は全て伯爵家のものになるということだ。
全てを奪われることになる。
ディランも、魔草薬を通してディランと一緒に築いてきた時間も。
ルシアの宝物が全部消えて、なくなる。
今すぐ書面を破り捨てなければ。
そう思ったのに、気持ちと反比例するように体は急に動かなくなった。
どうやって破棄させる?
ルシアなんかに何ができる?
不安が頭の中に渦巻いて、焦るほど呼吸がどんどん浅くなって、息をするのがしんどくなって頭がくらくらする。
椅子に座ってるのが難しくなって、慌てて肘掛けをつかんだ。こんなところで倒れ込むなんてはしたないし、それこそ惨めな姿を晒すことになる。
彼らの前でだけはそんなところを見られたくない。なんて言われるかわからない。
そう思うのに、そう思うほど体は重くなって体が震えて呼吸ができなくなった。
もう耐えられない、でも逃げたくない。
どうにかつっかえていた息をはぁっ、と吐き出して踏ん張っているとルシアは暖かい腕にゆっくりと抱き寄せられた。
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