イカアバター

安岐ルオウ

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転々々

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 管制員の説明によると、自分がまったく呼びかけに応えなくなって、ネモからの情報も完全に途絶したため、遠隔操作に介入しようとしたものの、うまくいかず、システムを強制的にシャットダウンした。それでも意識が戻らないので、グローブ、アイグラス、針、マウスピース、鼻のチューブを順番に外して、いちかばちかで冷水をかけてビンタをくらわしたとのことだった。


 映像ログも、音響ログも、位置情報記録も、途中からまったく残っていなかった。
 自分が体験した内容を書き起こしてプロジェクトリーダーにレポートしたが、数日も経たないうちに検証不能として突き返され、そればかりか、幻覚または虚言の可能性が高いという判断で、プロジェクトの公式記録から抹消されてしまった。


 で、その後を引き継いだのが、君たちだ。
 当初の構想通り、カメラ、マイク、送信装置を、今度は、マダラトビエイに取り付けてデータを収集することにしたのは、君の提案だろう。
 つい先日、「エイジェント」という名前で本格的に運用を開始したと聞いた。
 なかなかのネーミングセンスだな。
 当然、放流されたエイの帰還率は低いし、取り付けた装置はデブリとなってしまい、海の環境を汚染することになるだろう。
 まあ、今は議論を交わすつもりはないよ。

 おかげで、こちらは毎日、退屈なカウンセリングを受けるだけで何もすることがない。
 悲しそうな顔はそのせいかって?
 いや、まだ続きがある。
 このところ、あの体験について調べるうちに、いくつかわかってきた。
 研究所上層部は、こんな環境破壊が起きている事実を隠蔽していたんだ。
 巨額の研究資金援助に絡んで、欲まみれの関係者による口封じの証拠も見つけた。


 ……海洋生物にとっては、人間こそが、常に一番の脅威だ。


 さて、ここまでが、どうして自分が今悲しそうな顔をしているのかを答えるための、長い長い前置きだ。
 さっき手をつけようとしていた、目の前のイカの姿造りを見てくれ。
 色白でつぶらな眼の下に、黒くて星の形をした泣きボクロがあるだろう。
 彼女……ホワイティが産んだ数千の子供たちのうちの一匹に間違いない。


 何を笑っている? 昨日か一昨日に、人間に捕獲されてしまったんだ。
 見た目はヤリイカとほとんど変わりないから、たぶん、そのまま送られて来て、すぐに調理されたんだろう。
 なんだ、急に目の色を変えて。
 イカに取り憑かれているって?
 カウンセリングだけじゃなく、病院に行こうって?


 たしかに、こうやって話しているのが、果たして自分なのか、それともネモなのか、区別がつかないかもしれない。


 でも、こうは考えられないだろうか。
 ある種の生物には、現在の人間の技術では計測できない高密度の思考伝達チャネルがそなわっているという説がある。これまでの経験で得た情報に比べて、遥かに厖大な情報を短時間で一気に共有した自分とネモが、何らかのプロトコルによるリンクを確立して、意識レベルで融合を果たした、と。


 そんなに不審げに眉をしかめないでほしい。
 実は、今も、自分の眼を通じて、ネモが君のことを見ているのを感じる。
 いや、ネモだけじゃない。ホワイティと、彼女が産んだ他の何千もの子供たちも、この光景をじっと見ている。
 天敵からの襲撃を何とか逃れて生き延びている、とても賢い子らだ。
 皆の哀しみと怒りが自分の身体に流れ込む。
 他のイカたちにも、次々に共感が広がっている。同じ種類のイカだけじゃない。種を超えて拡散しているようだ。


 イカの個体は単純な知能しか持たない。でも、こうしてネットワークを生成して、高度な思考や複雑な感情を持つことができる。
 イカたちは一斉に叫んでいる。これ以上人間の被造物が深海を汚染しないように、これから、巡航中のこの研究所の海洋観測船を破壊する、と。
 ほら、いま、船が大きく揺れた。
 長老の巨大イカが来たんだ。
 船の外に出れば、ぐるりと船を囲んで海面の上をイカの大群が飛び交っているのが見えるだろう。


 自分が狂ってるだって?
 狂っているのは、海洋資源の探索と称して、さらなる簒奪のための橋頭保を築こうとしている矛盾だらけの人間の方だ。
 と、彼ら……イカが言っている。
 今度は、自分が、ネモとその子供たち、それから他のイカたち、いや、すべての海の生物の「デバイス」になる番だ。


(おわり……マッドエンド?)
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