奇蹟が起こった話

太もやし

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君ともう一度

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 あれは4月のこと、僕と梓あずさが付き合って初めてのデートだった。桜が有名な公園を、2人並んで歩いていたときのことだ。君は桜を熱心に見ていて、僕がそばにいることなんて忘れたようだった。
 僕が話しかけても、君は美しく咲いた花を見るばかりで、返事も上の空だった。僕は恥ずかしくも桜に嫉妬した。だから君の腕を引いて、僕を見るように促した。なんて子供っぽい動作だっただろうか、それでも君はそんな僕の瞳をジッと見て、柔らかく笑ってくれた。

 その笑顔はあんまりにも美しくて、僕は言おうと思っていた言葉を失った。ごめんなさい、とっても綺麗だったから、君はそう言うと、僕の腕に腕を絡めた。
 僕は君の意識が自分に向いた満足と喜びで、一瞬に機嫌を直した。簡単なやつだと思われるかも知れないが、彼女の前では僕は簡単な男になってしまう。これも惚れた弱みというやつなのだろう。


 ああ、なんで君は目を覚まして、僕に笑いかけてくれないのだろう。ただ眠ったように見える君の体から段々と命の温もりが消えていくなんて、僕にはとても信じられないし、信じたくなかった。


 秋の日はつるべ落とし、先程まで僕らを照らしていた太陽は沈み、空には少し欠けた月が昇っていた。デートからの帰り道を、灯り始めた街灯を頼りに2人寄り添って歩いていた。
 いつも通る店、いつも通る公園、少しずつ君の家に近づいていく。もう少し君と一緒にいたい、と思いながらも言えないまま、今日行った場所のことを話しながら一歩を踏み出したとき、君は突然、車道に飛び出した。驚いた僕は君に手を伸ばす。でも君は一瞬で車にぶつかられ、僕の視界から姿を消した。

 彼女がなぜ、道路に飛び出したのか。それは公園からの帰り道だったのだろう、ボールを持っていた少年が、手からこぼれ落ち車道に出たボールを取りに車道に飛び出したからだ。正義感が強く、一歩間違えばお節介になるほど親切な君は、少年をかばって車に轢かれてしまった。

 君はすぐに病院に搬送されたが、当たり所が悪かった。君はもう、一生目覚めることはない。
僕はそんな君の横で、君との思い出を繰り返し、繰り返し思い出していた。
 口を開けて大笑いする君、柔らかに笑う君、少し怒った君、泣いている君、全部鮮明に思い出せる。だって全部、好きだったから。


 君がいなくなってから、僕は死んだように日々を過ごした。朝起きて、働いて、疲れて眠る。君がそばにいたときは、そんな日々だって幸せに思えていた。でも今、僕が生きている世界は冷たく寒いものに感じる。
 そんな日々が続いた1週間目の朝、僕は目覚ましがわりの携帯のアラームの音で目が覚めた。今まではスムーズ機能を何度も使って起きていたが、眠りが浅いのか、一度で目覚めるようになってしまった。

「おはよう、大志たいしくん。なんだか調子が悪そうだね」

「……梓? 梓!」

 僕の部屋にいる梓に、一瞬、夢を見ているのかと思った。しかし目をこすっても、消えない君に、ああ、これは夢ではないのだとわかった。

「……僕はついに頭がおかしくなったのかな」

 情けないことを言う僕に、梓は眉を下げ、悲しそうに笑った。

「キミがあんまりに悲しそうにしているから、神様に頼んで会いに来ちゃった。ねえ、朝ご飯は何を食べるの?」

 僕が理解できずに瞬きを何度もしたが、梓の姿は変わらなかった。

「この部屋、この間来たときより汚くなっているし、食べ物が何もないじゃない。キミは生きているんだから、体は大事にしないと」

 少し怒った顔の梓に、僕の瞳から思わず涙がこぼれた。コロコロ表情の変わる梓が、今、僕のそばにいてくれることが嬉しかった。

「……梓……梓……」

 僕は梓の名前を何度も呼ぶ。存在を確かめるように。

「……うん、私はここにいるよ」

 優しくて柔らかで、もう一度聞きたいと思っていた梓の声が、僕の言葉に返ってくる。あまりの嬉しさに、僕は梓を抱きしめた。腕の中にある温もりに、凍えていた心を温める太陽が戻ってきたと確信する。
 何分、何時間、そうしていたのだろう。時間感覚は消え去り、ただ梓に神経を尖らせていた。彼女の温もり、息遣い、僕を安心させるように背中に回った腕、全てが愛おしかった。

「ねえ、大志くん。そろそろ苦しいよ。それにそろそろ、準備した方がいいんじゃない? 朝ご飯がないんなら、どこかで何か買って食べた方がいいよ」

 梓の声で我に帰った僕は、時計を見た。あの永遠にも感じた抱擁はたった20分の出来事だった。そして時計は準備をすべき時間だと、僕に教える。

「仕事に行ってくるけど、どこにも行かずに家で待っていてくれ!」

 僕は大急ぎで支度をし、仕事に向かう。いつもの景色は明るく見え、ただ冷たかった風は頬を優しく撫でるものに感じる。

 ああ、梓が僕のもとに帰ってきてくれた! ただそれだけで、ああ、それだけでいいんだ!

 駅まで走る僕の目からこぼれ落ちそうになる涙を、乱暴に拭う。梓と出会うまで、自分がこんなに涙腺が弱いとは知らなかった。梓は僕に人生の喜びを教えてくれる……悲しみも。いいや、ネガティブな考えはやめよう。今はただ、梓が帰ってきた喜びだけ考えよう。


「ただいま、梓」

 僕が家の扉を開けると、梓が笑顔で玄関に来てくれた。

「おかえりなさい、大志くん」

 ああ、梓はちゃんといてくれた。それだけで僕の心は温かくなる。

「梓が好きな店のケーキを買ってきたんだ。一緒に食べよう」

 僕はケーキの箱を戦利品のように掲げる。しかし梓は眉を下げ、困ったような、悲しそうな、何とも言えない顔で首を横に振った。

「どうしたんだよ? この店のケーキ、好きだろ?」

「……大志くんが美味しそうに食べているのを見るだけで、満足かな。晩ご飯は何にする?」

 梓はそう言うと、キッチンの方へ歩いていく。僕はその後ろをすごすごとついていく。
 ケーキを冷蔵庫に入れ、買ってきた2人分の弁当を机に置く。

「チキン南蛮弁当とハンバーグ弁当、どっちがいい?」

 梓はまた辛そうな表情で首を横に振る。何度か言葉を選ぶように口を開いては閉じ、そして悩んだあと、梓は言葉を発した。

「……私はもう、食べられないの。大志くんもわかっているでしょう?」

 僕はその言葉に、強く拒絶されたように感じた。理解? そんなのしたくはない。

「……そんなのわかるわけ、ないだろ」

 悲しみと怒りで、僕の心はグチャグチャだった。僕の低い声に、梓は悲しそうに笑った。

「私はね、大志くんが先に進むためにいるの。だから、わかって、ね? お願い」

 僕は何も言えなかった。足から力が抜けそうになることが気づかれないように、ゆっくりと座る。

「大志くんが好きなのは、ハンバーグだよね。チキン南蛮の方は、明日のお昼にして、今日はハンバーグを食べなよ」

 僕は勧められたまま、ハンバーグ弁当を手にとった。
 僕が晩ご飯を食べ終わるまで、会話がなかった。気まずい雰囲気を、僕の前に座っている梓も感じていただろう。彼女に気を使わせて悪いとは思っていたけれど、なんて話しかければいいか、わからなかった。しかし食べ終わったあと、梓から話しかけてきてくれた。

「部屋の掃除を一緒にしようよ。綺麗な部屋の方が、気持ちも晴れるから」

 え、今から? 僕の不満をすぐに悟った梓は、少し怒った顔をした。

「朝も言ったけど、この部屋、とっても汚いよ。こんな部屋にいたら、考えも暗くなるのは当然だよね。ほら、掃除しよ」

 僕は唖然としながらも、操り人形のように動き出した。そして集まっていくホコリや、そこらへんに投げていた服に、確かに汚いなと思った。梓に言われないと気づけなかったことに、僕は精神が弱っていたのだと確信する。
 そうして部屋を綺麗にしたあと、僕はお風呂に入った。久しぶりに湯船につかり、体のコリをほぐす。固まっていた肩の筋肉が、ほぐされていくことを感じる。


 梓との幸せな日々が僕の元に戻ってから一週間が経った頃、僕はすっかり元気になっていた。同棲に近い暮らしは僕の心を癒し、僕をもう一度立ち上がらせてくれていた。

「最近、調子いいな、大志。お前が元気になってくれて嬉しいよ」

 会社の先輩にそう言われ、僕は嬉しくて笑顔になった。

「最近、彼女と暮らすのが楽しくて自然と元気になるんですよ。やっぱり僕は彼女がいないと駄目なんだなって思い知らされます」

 僕の言葉に、先輩の顔が一瞬で曇った。そして先輩は悲しそうな顔で、僕の肩に手をかけた。

「辛いのはわかるが、お前の彼女は……いいや、休暇をとって少し休んでこい。お前の分はおれがなんとかするから」

 そしてあれよあれよという間に、僕は会社から休暇を言い渡され、家に帰ることになった。

 家に帰ると、梓が驚いた顔で玄関に駆け寄ってきてくれた。この光景は何度見ても、心温まるものだった。

「どうしたの、大志くん? お昼に帰ってくるなんて、珍しいね」

 僕は靴を脱ぎながら、質問に答えた。

「先輩に梓の話をしたら、少し休めって休暇をくれたんだよ。どこか遊びに行こう?」

 梓も先輩のように顔を曇らせ、言いにくいことを紡ぐように口をゆっくり動かした。

「私のこと、何も言われなかった? 大志くんが見たいものを見ているだけで、私が大志くんの妄想かも知れないって」

 その言葉は、僕にとって思いも寄らないものだった。

「妄想なんかじゃないよな? 梓は僕のことが心配で、ただ一緒にいてくれてるんだよな?」

 僕は梓にすがりついて、許しを請う咎人のように頭を垂れた。

「見たいものを見ているだけなんだよ、大志くん。ずっと言おうと思ってた……大志くん、私たち、そろそろ先に進もうよ」

「なんでそんなこと、言うんだよ! 一緒に……僕のそばにいてくれよ!」

 思わず怒鳴ってしまうと、梓はとても悲しい顔をして、僕の腕の中からするりと逃げてしまった。

「ひどいことでも、言わなきゃいけないことだったんだよ。ごめんね」

 そして梓は霧の奥に消えるように、姿を消した。嫌だ、嫌だ、嫌だ!

「梓! 怒ってごめん、だから姿を見せてくれ! 梓!」

 声の限り叫んだが、梓はもう僕の前に姿を見せることはなかった。僕は何時間も玄関に佇み、梓がまた現れることを待った。

 涙があふれ、声を押し殺して泣く。僕はただ、梓と幸せな未来を生きたかっただけなんだ。例えそれが大きな望みだとしても、諦めることはできなかった。


「ねえ、大志くん。ちゃんと話、聞いてる?」

 僕は気づくと、梓と並んで歩いていた。梓が下から僕を見上げ、不満そうに唇を尖らせていた。
 梓の服装は、彼女が事故にあった日のものだった。何度も見た悪夢、彼女を助けられずにいる僕を絶望の淵に叩き込む夢だ。

「……強く願えば奇跡が起こるって言うけど、本当になるなんて……大志くんはやっぱりすごいね」

 道路の向こう側に、もう一人の梓がいた。大声を出しているわけではないのに、なぜか彼女の声が耳に響いた。

 ―――奇跡。これが奇跡なら、僕は梓を救うため、ここにいる。

 僕は神から天啓を授かったような気持ちになった。梓のためなら、なんでもできると思った。

「ねえ、大志くんってば!」

 僕は隣にいる梓にちょっと困った顔で答えた。

「ごめん、ちょっと考え事をしていた。もう一度、話を聞かせて?」

「もう、仕方ないなぁ」

 そうして梓はもう一度、話を始めた。この会話を僕は何度もリフレインしたから、本当は覚えていたけど、梓の、僕の隣に生きている梓から聞きたかった。
 梓の話が終わったあと、僕はことさら真剣な顔で梓にお願いした。

「梓、もし目の前で人が事故に遭いそうになっていても、そのときに一瞬でもいいから僕を思ってほしい」

 梓はキョトンという顔をしたが、すぐに困ったように笑った。

「急にどうしたの? うーん、その状況になってみないと分からないけど……大志くんのお願いだから、約束するね」

 梓の約束に、僕は心の底から嬉しくなった。つないでいる手をギュッと強く握り、梓の存在を確認する。

「もう、どうしたの、大志くん? 怖い夢でも見たの?」

「ああ、とっても怖い夢を見たんだ。だから約束を絶対に忘れないで」

 そうして僕たちはデートを満喫した。帰り道のことを意識すべきなのだが、ここにいる梓を楽しませたくて、僕は明るく振舞うのだった。


 先程まで僕らを照らしていた太陽は沈み、空には少し欠けた月が昇っていく。デートからの帰り道を、灯り始めた街灯を頼りに2人寄り添って歩く。いつも通る店、いつも通る公園、少しずつ君の家に近づいていく。
 他の道を通ろうとお願いしたが、これが一番の遠回りの道だからと梓にお願いされ、僕らはあのときと同じ道を通っていた。

 僕らの前には、あのとき事故にあった少年が歩いている。もう少しで、事故現場に近づく。僕は梓の手を離さないように、手を強く握っていた。
 今回の少年はボールで遊んでいなかったから、僕は少し警戒を解いていた。しかし道の反対側に友達を見つけた少年は、また同じように道路に飛び出した。

「危ない!」

 梓が大声を出し、少年の元へ走ろうとする。

 でも僕は、梓の手を離さなかった。

 梓は離れない手を見た。そして僕の顔を見て、困ったように眉を下げて笑った。

「……ごめんね」

 手が振り払われ、梓は少年の元へ走り出す。

 そしてまた、あの事故が起きた。

 またあの病室で、梓が目覚めるのを待つ。離された手を握り、どうか助かりますようにと願う。

「大志くんはよく頑張ったよ」

 梓の声が後ろから聞こえた。柔らかな優しい声に、僕は息が詰まる。

「でも奇跡は一度、一瞬だけ。どれだけ頑張っても運命は変えられない」

「僕は運命を変えられると思っていたよ。梓は僕を優先してくれると思った……梓を守れなかったから、奇跡の意味もなかったけど」

 僕の声はあまりにも情けない声だった。

 後ろにいる梓の雰囲気が少し柔らかくなるのを感じる。

「……もう、泣かないでいいよ。辛いなら私のこと、忘れていいよ。君が前に進めるなら、私のこと忘れてよ」

 泣きそうな梓の声で、僕が泣いていたことを知る。でも、僕より梓の方が心配だった。

「……イヤだ。君とのことを何一つ忘れたくない。笑った顔も、怒った顔も、泣いてる顔も、全部、全部好きなんだ! 愛してるんだ! 頼まれたって忘れない、絶対に忘れない!」

 立ち上がり振り向いて、梓を抱きしめる。梓は泣いていた。子供みたいに、泣きじゃくっていた。

「大志くん! ……私、もっと生きていたいな。大志くんのそばに、ずっと一緒にいたいな」

 僕の胸に顔をうずめていた梓は、顔を上げて、ふんわりと、あまりにも美しい笑みを僕に見せてくれた。

 その笑顔があんまりにも美しくて、僕は涙がこぼれた。それを拭うために、腕で目をこする。

 そして目を開けると、もうどこにも梓はいなかった。

 眠っている梓の手を握り、僕は何度も名前を呼ぶ。もう一度でもいい、ただ梓の笑っている顔を見たかった。

 梓の瞼がピクリと動く。そしてゆっくりと瞼が開いた。

「大志くんの夢をずっと見てた……私が死んで泣いてる夢……」

 僕は梓を傷つけないように気をつけながら、梓を抱きしめた。

「梓、梓! ありがとう!」

 僕の涙が、梓の顔に落ちる。梓は困ったように笑いながら、僕を抱きしめ返す。

「……約束、破ってごめんね。私、大志くんが大好きなの……嫌いにならないで」

「嫌いになんか、なるもんか! 僕も梓のことが大好きだよ!」

 この騒ぎを聞きつけた看護師に僕らは離されたけど、心が離れることはなかった。


 梓が退院してから一年後の今日、僕たちは結婚式を上げた。

「あのとき、大志くんが私の手を離さなかったから、打ちどころが良かったんだって。大志くんは私の命の恩人だよ」

「梓だって、僕の命の恩人だよ。僕は君がいないと生きていけないんだ」

 そして二人で、顔を見合わせて笑った。僕はとても幸せで、梓もとても幸せそうで、僕はただ嬉しかった。

 ウエディングドレスの梓は美しく、これから最良の日々が続くのだと、続けるのだと僕は心の中にいる、もう一人の梓に誓ったのだった。
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