あるこばれーの

鶴上修樹

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#6 次男とヤンキー君

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 木製の内装が落ち着いた雰囲気を漂わせる隣町の喫茶店、『ほほえみ』。穏やかな店内の窓側の席には、読書を楽しむ女性のお客さんが一人いて。その席に、いちごのショートケーキと紅茶を乗せたトレイを運ぶ、白いワイシャツと黒いズボンに緑のエプロンを身につけた、四角い黒縁眼鏡の男子が近づいた。
「お待たせしました。いちごのショートケーキと、紅茶です」
「ありがとうございま……あっ、陸也りくや君!」
 虹崎にじさき家の次男、虹崎陸也。陸也は、この『ほほえみ』で店員のバイトをしている。陸也は窓側の女性の席のテーブルにケーキと紅茶をそっと置いて、お辞儀した。
「陸也君の笑顔、本当に癒し~。バイトの後、私と遊ばない?」
「えっ、あの……」
「陸也君。こちらをお願いします」
 陸也を守るように声をかけたのは、白いシャツに黒いベスト、紺色のズボンを身につけた、口ひげの中年男性。陸也がトレイを持ってカウンターの前に戻ると、男性はチョコケーキとココアをカウンターに置いた。
「こちらをお願いします」
「……マスター。このセットは……」
「ご存知のものです。では、お願いします」
 チョコケーキとココアのセット。それを見て、陸也は少し固まった。しかし、働いている中、立ち止まってはいられず。陸也はトレイにチョコケーキとココアを乗せて、注文した人の元へ。ツンツンした毛先の金髪ベリーショートに、両耳のピアスと、つり目。そして、胸元を開かせた白いワイシャツと黒いズボンの、ヤンキーっぽい見た目をした男性である。マスターいわく、陸也と同じ高校生らしい。男性は隅っこの席に座っており、ムスッとした表情で携帯をいじっている。
「お、お待たせしました……チョコケーキと、ココア、です……」
「……あぁ?」
 陸也が声をかけると、男性は低い声で返事して、陸也を一つ睨む。ガン飛ばしのようで、陸也の心が恐怖で一気に冷えた。初回の来店の時も男性はチョコケーキとココアを頼んでいて、仏頂面で食べていた。会計後、陸也は勇気を出して「チョコケーキ、美味しかったですか?」と話しかけたのだが、男性は何も言わずに目をキッとさせて去ったため、陸也はひどく落ち込んだ。以来、陸也は苦手意識を持ってしまったのだが、一方の男性は何故か陸也がいる日に来店し(マスターいわく、陸也がいない日は来ないらしい)、毎回チョコケーキとココアを頼んでいる。そして、変わらぬ仏頂面で嗜むのだ。陸也はすぐにでも逃げたかったが、相手はお客さんなのでもう一つ気合いを入れて、店員としての自分を保ちながらチョコケーキとココアをテーブルに置き、お辞儀をした。
「……おい」
 男性のドスのきいた声が聞こえて、陸也は一瞬、店員としての自分が抜けそうになった。何か不手際があったのかと思いながら陸也が恐る恐る頭を上げると、男性は陸也と目を合わせ、口を開いた。
「俺は、赤尾正輝あかおまさき。突然だが、あんたに一つ、頼みがある」

「……眠れない」
 兄弟達が寝静まった寝室の中。そう呟いた陸也は一人だけ、目がぱっちりとしていた。その原因は正輝の頼み事なのだが、頼みがあると言われてすぐに新しいお客さんが来てしまったため、話を聞く事ができなかった。その後、正輝から「いつでも待ってるから連絡してくれ」と電話番号を書いた白い紙を渡されて、そのまま現在に至る。正輝に苦手意識を持っているせいで、電話をかけるのが怖い陸也である。
「……喉、渇いた」
 モヤモヤで喉が渇き、陸也はこっそり寝室を出て、キッチンに移動した。キッチンの豆電球をつけてからガラスのコップを一つ手に取り、蛇口をひねって水を出す。そして、溢れない程度にコップにくんで、一気に飲み干した。陸也の渇いた喉に冷たい水が通り、するりと潤していく。しかし、喉が心地良くても、心は晴れない。陸也はガラスのコップを流し台にトンと置いて、ため息をついた。
「……陸也?」
 小さい声で話しかけられて、陸也は慌てて振り向いた。リビングとキッチンの間に、オレンジのナイトウェアを着た兄の夕太郎ゆうたろうが立っていた。
「お兄ちゃん。ごめん、起こしちゃった?」
「いや、たまたま。どうした、喉が渇いたか」
「んっ、まぁね」
 正輝との事は、誰にも話していない。怖い人に頼み事をされるなんて、心配するに決まっているからだ。
「……陸也、ちょっとだけいいか? リビングは電気で起こしちゃうから、立ったままで悪いけど、待っててくれ」
 夕太郎はそう言うと、調理器具用の棚から小鍋を静かに出し、コンロの上に置いた。そして、冷蔵庫からは大きいパックの牛乳を、食器棚からは自分と陸也のマグカップを出して、調理を始めた。まずはマグカップ二つに牛乳を注ぎ、小鍋にうつす。さらに小鍋に砂糖を入れて弱火をつけ、小鍋の中の牛乳を温めながら混ぜ始めた。
「わっ、ホットミルクだ。眠れない時に良いよね」
「飲めば心も身体もぽっかぽかだ。飲んだら、歯みがきしろよ?」
「ふふっ。お兄ちゃんもね」
 丁寧に温めて、マグカップに注いだら、ホットミルクの完成。夕太郎はオレンジ、陸也は緑の熱いマグカップを手に取り、ふーふーと息をふいてから一口。しかし、できたてホヤホヤのホットミルクがそれで簡単に冷めるわけがなく、二人とも「あつっ」とリアクションが漏れた。
「……美味いけど、熱いな」
「そうだね。お兄ちゃん、やけどしてない?」
「大丈夫。陸也は?」
「俺も大丈夫」
 お互いに笑い合い、キッチンは和みの空間になる。キッチンの窓から見える夜空を見ながら、二人は湯気がたつホットミルクを、少しずつ口に入れていく。温かいホットミルクのおかげで、陸也のモヤモヤした気持ちが少しずつ晴れていった。
「……夜のホットミルクって良いな。飲むとほっこりする」
「うん。そうだね」
「眠れない時。温まりたい時。あと……心が苦しい時。ホットミルクは、全てを包み込んでくれる。優しい甘さで癒された次の日は、良い日になれるんだ」
 夕太郎の台詞から、陸也のモヤモヤが一気に晴れた。そして、陸也は思った。――お兄ちゃんには敵わないな、と。
「……お兄ちゃん。少しだけ、話していいかな?」
 夕太郎の優しさとあたたかさで、勇気が陸也に姿を見せてくれた。陸也はその勇気を抱きしめて、そのまま夕太郎に一直線。
「んっ? 少しだけじゃなくて、いっぱい話していいぞ?」
 兄の顔で微笑む夕太郎。その表情を見た陸也は、お言葉に甘えてと言わんばかりに、正輝の事を全て話した。お店によく来てる事、苦手な事、電話をかける勇気がない事。どれも、ありのまま。そんな陸也の声に、夕太郎は耳を傾け、ずっと受容し続けた。
「……はぁ。お兄ちゃんに、話し過ぎちゃったかも。ごめんね、明日も仕事なのに」
 夜中に付き合わせてしまった事を申し訳なく思い、謝る陸也。現在、時刻は午後十一時。明日も平日なので、寝不足はまずいのだ。しかし、夕太郎は気にしてなさそうな顔で首を横に振った。
「仕事は関係ない。お兄ちゃんは、陸也の話が聞きたいの。寝なくて平気!」
「お兄ちゃん……それはさすがに心配になるよ」
「んっ、そうか? でも、本当の事だからなぁ。お前らの為なら、お兄ちゃんは何でもするし」
「もう。お兄ちゃんったら……」
 夕太郎という男は、ナチュラルに兄発言する長男である。弟達にだけでなく、他人にも。『兄』が生誕したのかと思う程だ。
「んで、さぁ。陸也は、どうしたいんだ? その、正輝君……に、電話をかけるのか?」
「うーん。まだ、迷ってるかな……」
「どうするかは陸也次第だけど、次のバイトの時に来るだろうし、それが嫌なら、最悪、辞める選択肢が出てくる」
「や、辞めるのは嫌! 『ほほえみ』のマスターは、俺の事情を理解してくれた優しい人なんだよ。そんなマスターの店で、俺はまだ働いていたいんだ」
「……その気持ちがあるなら、答えはすぐに出る」
 夕太郎はそう言って、湯気がないホットミルクを口にした。遅れて陸也も、同じホットミルクを含ませる。
「大小の関係がない悩みは、人生に必ず付きまとう。その付きまといを離せるのは、後にも先にも自分だけだ」
「……自分だけ、か」
「……はなせるといいな」
 夕太郎は穏やかな瞳で願ってから残りのホットミルクを一気に飲み干し、流し台に置いた。
「……さてと。答えが出た頃だし、ホットミルクタイムはおしまいだな。またお兄ちゃんにだけ話したい事があったら、気軽にいつでも言ってくれよ? 牛乳はちょこちょこ買っておくから」
「うん……ありがとう」
 陸也もホットミルクを全部飲み、流し台に置く。夕太郎に洗うから先に歯みがきしててと言われた陸也は、お言葉に甘えて洗面所へ。お兄ちゃんに相談してよかったかも――陸也は、深く感謝した。

 次の日の昼休み。陸也は学校の人の気がない場所にいた。昨日、夕太郎に相談したおかげで、正輝に電話をする勇気を持てたのである。携帯に紙に書かれた電話番号を入力して、着信。プルルルル、プルルルル、プルルルル――ドキドキしながら待っていると、繋がりが訪れた。
「……あぁ? 誰だ?」
 いきなり、低音のガン飛ばし。陸也は少しビビったが、気持ちを留まらせた。
「あっ、あの。昨日の喫茶店の店員です。虹崎陸也、です」
「……あぁ、あんたか。電話してくれたって事は、聞いてくれるんだな」
 正輝の声が、少しだけ穏やかになった。
「で、その……頼みたい事って、何でしょうか」
「おう。実は、あんたに算数の参考書選びを手伝ってほしいんだ」
「算数の参考書? 数学、じゃなくて?」
 思っていなかった頼み事に、陸也の頭上のイマジナリーひよこがぴよぴよと鳴いて歩いている。
「俺には小学生の妹がいるんだが、算数が苦手でな。妹の為に、算数の参考書をプレゼントしたいんだ。だが、どういうのがいいのかよく分からなくて。それで、あんたに参考書探しを手伝ってほしいんだ」
「えっ? あの……喫茶店のバイトの僕に、どうして参考書探しの頼み事を?」
「どうしてって、あんた、本屋でも働いてるだろ。本屋の人間なら、いい参考書とか分かるだろって思ってな」
「へっ……? 僕、喫茶店でしか働いてないですよ?」
「はぁ? いや、あれはあんただろ。髪がなんかふわっとしてたけど」
 髪がふわっとしている。それを聞いて、陸也は一つの可能性に気づいた。陸也は、参考書を買うならいいところがあるから少しだけ会わないかと、正輝と放課後に待ち合わせをした。

「……ま、マジで?」
 放課後、待ち合わせ先に来た正輝は、目を丸くした。待ち合わせ場所は、隣町の本屋、『知恵の里』。陸也がここを選んだ理由は、店員にあった。
「……ったく。言葉で説明すればいいだけの話だろ」
「百聞は一見にしかず、の方がいいかなって思って。ごめん、海里かいり
 学校の制服姿の陸也の左隣には、白いシャツと紺色のズボンに青いエプロンを身につけた、虹崎家の三男の海里。海里は、この『知恵の里』でアルバイトをしている。
「あんた、双子だったのか……」
 いまだに、正輝の丸い目が戻らない。正輝が見た『本屋で見た陸也らしき人』は、海里だったのだ。
「つーか……並んで見てみたら、全然似てねぇじゃん……」
「陸也と僕は、二卵生の双子です。言ってしまえば、たまたま同い年で生まれた普通の兄弟。顔も性格も似てません」
「……確かに」
 陸也の方を見てから、正輝はそう言った。陸也と海里を比較しての返事である。陸也は何となく気づいたが、ツッコミを入れずにスルーする。
「あのさ、海里。『知恵の里』って、算数の参考書はあるかな」
「市内の小中高の学校に対応可能のものなら揃ってる。それ以外をお求めなら、ここよりも大きいとこで買う方がいい。あと、勉強の身につき方は人によって違うから、その人に合うものを買わないと、金をドブに捨てる事になる」
「もちろん、妹に合うものを買うつもりだ。普段の勉強を見てるし、教科書の出版社もメモしてる。だが、俺は今まで参考書を買った事も読んだ事すらもないんだ。だから、どういう参考書がいいのかよく分からなくてな」
 見た目に反して妹思いの正輝。陸也は、正輝を見た目で判断した事を恥じた。
「なるほど。それなら、僕よりも陸也の方が分かりますよ。こいつ、数学の学年トップなんで」
「ちょっ、海里!」
「マジかよ。……てか、その制服、翡翠ひすい高校だよな。という事は、あんたらめっちゃ頭が良いじゃねぇか」
「いえいえ。陸也と僕の学力は天と地の差がありますから。一緒にすると、陸也に指先でぷちーっとされますよ」
「海里、怖い嘘はやめて! あと、海里だって国語の学年トップでしょ!」
 虹崎家は双子も頭が良く、陸也は理系科目、海里は文系科目が得意である。二人の優秀さは、虹崎家の面々はもちろん、『市立翡翠高等学校』に通う生徒達も、よく知っている。
「……あんたら。学年トップを取れてるの、マジですげぇな」
「そ、そんな事、ないですよ……」
「とりあえず、僕は店に戻るから」
「あ、うん。赤尾さん、僕達も入りましょうか」
「……おう」
 海里の後に、陸也と正輝も『知恵の里』の店内に入る。辺り一面が本棚でいっぱいで、海里がバイトをする場所に選ぶのも納得である。
「そうだ。菫人すみとの為に、算数のドリルとか買っておこうかな」
「スミト……? あんた、まだ弟がいるのか」
「はい。海里と菫人の他に三人います。あと、僕の上に兄が一人います」
「……あんたのとこ、大家族なのか?」
「言っちゃえば、そうかもです」
 陸也は数冊のドリルを手に取り、パラパラとめくって、菫人が使いやすそうなものを品定めする。一方の正輝は、妹の学校で使っている教科書に対応している算数の参考書を数冊抜いて、悩みながら見ていた。
「……対応するものを出してみたはいいが、どれも同じ奴ばっかりで、違いがよく分からん」
「あの。妹さんって、苦手の度合いはどのくらいですか?」
「基本的なところは出来たりつまずいたりだな。あと、応用はほとんど間違えてる。本人の意欲はあるんだがなぁ……」
「それなら、基本を細かく教えてる参考書がいいですね。で、応用は、答えの解き方が分かりやすく載っているドリルを数冊買うのがいいと思います。あくまで、僕のやり方ですが……」
「なるほど。あいつ、教科書に書いてる事がたまに分からないって言ってたし、その方が分かるかもしれない。応用も、解き方を理解すればいけるはず。……さすが、数学の学年トップ。的確なアドバイスだ」
「ええっ、そんな……」
 陸也のやり方を褒める正輝に、陸也は照れた。的確だなんて言い過ぎではないだろうかと、ちょっと素直になれない陸也である。
「いっその事、あんたが妹の家庭教師になってくれたらいいのにな」
「かっ、家庭教師! えっと、その」
「……冗談だよ。あんた、勉強とバイトで忙しいだろ? それに、俺、金とか全然出せねぇしさ。忘れてくれ」
「えっ……あ、はい……」
 忘れろと言われてしまったが、陸也自身はお金とか関係なく、自分が力になれるなら家庭教師の仕事を引き受けたいと思っている。しかし、忙しくて時間がない事実から抜け出せなくて。何も出来ない自分に、陸也はモヤモヤしてしまう。
「なぁ。あんたの弟達の中に、小学校低学年はいるか?」
 陸也にモヤモヤが発生してる中、正輝は参考書をパラパラと簡単にめくりながら尋ねてきた。
「います。菫人が小学校低学年なんです」
「そうなのか。実は俺の妹も小学校低学年なんだが、世話焼き過ぎて、男の友達がいなくてな。あんたの弟がよければ、うちの妹と仲良くしてやってくんねぇかな」
「妹さんと、ですか……。菫人、かなり人見知りなんですが、大丈夫ですか?」
 兄弟一の人見知りで、仲良くなるのに時間がかかる。そんな菫人を正輝の妹に会わせるのは、陸也にとっては不安だった。
「人見知りなのか。なら、ステップってもんがあるよな。……よし、分かった。おい、あんた。えっと……」
「虹崎陸也です」
「おう、そうだった。すまんな、俺は人の名前を覚えるのが少し苦手なんだ」
 申し訳なさそうに正輝が言う。そして、台詞を続けた。
「虹崎陸也。早速だが、俺と友達になれ」
 ――バサ、バサッ。
 突然の正輝からの発言に、陸也は持っていたドリルを落とした。陸也にとっては、爆弾級の『早速』だった。

 一方の虹崎家。先に帰っていた中学生の陽貴はるたかと小学生のそらと菫人が、リビングで宿題をやっていた。
「そらおにぃちゃん。このさんすうのもんだい、わかんない……」
「ん、どれどれ。……あぁ、応用問題か。これ、俺もつまずいた事がある」
「さいしょはわかるけど、つぎにどうしたらいいかわかんないの」
「それなら、ヒントを教えてもいい?」
 菫人の勉強の面倒を見る宙。その様子を見ていた陽貴は、頬杖をついて口を尖らせた。
「すーみーとー。そのレベルなら、俺でも教えられるよー?」
「……はるおにぃちゃん、さんすうダメじゃん」
 嫌そうに菫人が言う。陽貴は数学の成績が悪いのだが、算数の頃もひどかったのである。
「いやいや、いやっ! 算数全部がダメってわけじゃないよ! 一般常識レベルは出来るから!」
「……九点以下ばかりだろ」
「ちょっ、宙! それは算数時代! 今は! 数学時代は、違う! 数学になってからは赤点にならないようにちゃんと勉強してるの! 補習になるし!」
「補習が嫌なら、赤点ギリギリにならないようにしたら? 陽貴兄さんの数学のテスト、赤点ギリギリの点数しか見た事がない」
 弟達にバカにされるくらい数学の成績が悪い陽貴だが、社会科は百点、国語と英語は九十点以上、理科は半分以上――と、他の教科は点数を取れているので、決して頭が悪いわけではない。では、なぜ、勉強しているのに、いつも赤点ギリギリなのか。答えは単純、本人の意欲の低さである。
「いやっ! 俺はやってるの! 数学って意味不明だな~暗号だな~気が遠くなるな~眠たくなるな~って思いながらも、ちゃんと勉強してんの!」
「眠たくなってる時点で、数学に対するやる気がなさ過ぎるだろ。そのうち赤点になるよ」
「怖い事を言うなよ、宙! それ、りく兄にも言われて、マジでビビったんだから! てか、りく兄って恋の計算が出来ないくせに、なんで数学が得意なの? 意味が分からん!」
「……俺がどうしたの?」
 いつの間にか帰ってきた、次男の陸也。買い物袋と鞄を持って、黒い笑顔で陽貴の後ろに立っている。
「ひゃっ! ちょっ、りく兄! 人の背後に立つのは卑怯でしょ!」
「いやぁ、ごめんね? なんか、恋の計算がどうとか聞こえたから~」
「……ごめんなちゃい」
「んっ? 陸也兄さんの隣にいるのは、お客さん?」
 宙の視線の先には、金髪のヤンキーっぽい男性。遅れて男性に気づいた菫人は、怯えた姿で宙の後ろに隠れた。
「あっ、こちらは赤尾正輝さん。最近知り合ったばかりのお友達なんだ」
「……りくおにぃちゃんの、おともだち?」
 宙の後ろに隠れながら、恐る恐る正輝を見る菫人。人見知り、発動中である。
「こんにちは、四男の陽貴です。今、飲み物を……」
「陽貴。それは俺がやるから、宿題をやっていいよ。まだ途中でしょ?」
「……はーい」
 陽貴の企みを阻止するかのように、陸也が言葉をかぶせてきた。ちなみに、陽貴が途中にしている宿題は数学で、半分くらい残っている。
「……あのさ。失礼かもしれねぇが、一つ言ってもいいか?」
「んっ? どうしたんですか、赤尾さん」
「……書いてる答え、全部間違ってる」
 陽貴の宿題に指をさして、正輝が言う。宿題の内容は基礎中の基礎ばかりで、応用問題は何一つない。つまりは、解けて当然の問題なのだ。
「数字とか、使う式とか、色々間違ってる。ごちゃごちゃだ」
「うっそ! 俺、結構いけてると思ったんだけど!」
「ちょっと、陽貴! 簡単なとこでつまずいてたら、次の内容が解けないでしょ!」
「陽貴兄さん……本当に赤点になるって……」
「うぅ、はるおにぃちゃん……」
 陽貴、撃沈。ちなみに、虹崎家で赤点ギリギリの点数を取ってしまうのは、陽貴だけである。
「うわ……この解き方の感じ、内容を全然理解してない……。陽貴、先生の話をちゃんと聞いてたの?」
「聞いてた、けど……だんだん眠くなっちゃって……」
「なるほど。……えっと、陽貴だっけな。その問題、俺に任せてくれねぇか?」
 正輝はそう言って、陽貴に向けて手のひらを差し出した。
「赤尾さん、でしたっけ。陽貴兄さんに数学を教えるの、やめた方がいいですよ。数学のやる気がなさ過ぎるんで」
「やる気がねぇのか。だったら、俺が引き出させてやるよ」
 宙の忠告に、正輝はそう答えた。そんな中、陸也の携帯から、通知音が鳴る。夕太郎からのメッセージだ。
「りくおにぃちゃん、どうしたの?」
「お兄ちゃんから。仕事で遅くなるから星央せおのお迎えをお願い、だって。俺、行ってくるね」
「よし。星央が寂しがるだろうし、俺もい」
「赤尾さん。すみませんが、陽貴をお願いします」
 逃げようとした陽貴の台詞を無視して、陸也はせっせとお迎えへ。陽貴の肩をぽんぽんと叩き、ニカッと笑顔の正輝。
「心配すんな。俺が叩き込んでやる」
 陽貴は、簡単に青くなった。

「ただいまぁ~!」
「はい、ただいま。星央、お着替えしてね~」
「はぁーい!」
 しばらくして、陸也は星央を連れて帰宅。星央が着替え部屋に行ったのを確認してから、先にリビングへ。陽貴の事が気になったのだ。
「……よし、これで完璧だな」
「うへぇ~もう、無理ぃ~」
 正輝の数学の授業からようやく解放された陽貴は、頭の疲労でテーブルに突っ伏した。
「おっ、陸也。お迎えから帰ってきたか」
「はい。ありがとうございます、陽貴の数学の宿題を見てくれて……」
「いいって事よ。あとは復習をちゃんとすれば、身につくはずだ。陽貴、しっかりやれよ」
「ううぅ……復習とかやだ……」
 嫌そうに、陽貴が小声を漏らす。正輝はそう言うなよと、陽貴の肩をぽんぽんと叩いた。
「……さてと。そろそろ俺は、ここら辺で失礼するぜ。またな、皆」
 正輝は三人に挨拶をしてから腰を上げて、リビングを出ていく。陸也はすぐに、玄関まで正輝を追いかけた。正輝は既に、せっせと靴を履いていた。
「赤尾さん。あの……また今度、お店にも、家にも来てください。機会があれば、妹さんも……」
「……なぁ。言ってもいいか?」
 靴を履いてから振り向き、正輝が口を開く。陸也は正輝の低音に少しビクッとしながらも、静かに頷いた。
「あんた、なんでずっと敬語なんだ? 心の距離ってもんが気になってしょうがねぇよ」
「それは……まだ知り合ったばかりですし、あと、お店に来てくれるお客様でもあるので……」
「なるほど。まぁそれは、間違っちゃいねぇな。お客さんの赤尾正輝は、そうすりゃいい。だが、友達の赤尾正輝には、敬語はやめてくれ。きっかけはあれだが、あんたと仲良くなりたいのは本音だ」
 正輝が陸也と友達になってほしいと言った理由。それは、菫人と正輝の妹が友達になる為の近道だからである。人見知りにいきなり他人の妹と仲良くしろと言うのはあまりにもハードなので、まずはステップを踏んでいこうという正輝の提案である。陸也は、菫人に友達ができるならという理由で、提案に乗った。
「また、店に来る。あの店のチョコケーキとココア、美味いからさ」
「ありがとうございま……いや。ありがとう、赤尾君」
「……おう」
 正輝の言葉に心を動かされ、陸也がちょっと素を出した。正輝の台詞は無愛想だったが、声色に照れが混ざっていた。
「じゃあな、陸也。幼なじみとの青春、頑張れよ」
 口元で笑って、正輝は虹崎家を出た。陸也は扉が閉まるまで手を振り――パタンの音の後、黒い笑みになった。リビングからは、口を滑らせた犯人の笑い声が聞こえてくる。
「……は~る~た~か~?」
 追いかけっこが、始まった。
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