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蓼科で

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 そこは温泉街からも少し離れた山の麓と言ってもいいような場所にあった。周りに他の建物はなくひっそりと建っている。母屋を中心として十数棟の離れが点在する造りになっていて、ひとつの離れに客室はひとつ、宿泊客が互いに顔を合わせることがないように配慮されている。
 豪奢な和風の客室は、二十畳ほどの広さの主室に、個室もついていて、トイレやシャワーブースはもちろん、趣向が凝らされた専用露天風呂もついている。大きな掃き出し窓からも見える四季折々の景色は庭園にもなっていて、下りて眺めることもできる。他の離れとは行き来ができないようにフェンスが囲んであるため防犯面でも安心だ。その分値段も高めだが、お忍びで楽しむカップルには絶大な人気があり、予約も数ヶ月先まで埋まっているほどだ。

 久世と瑞希が到着したのは22時にもなろう時間だった。そのため二人は軽い夜食を取ったあと、すぐに休むことになった。
 瑞希は最初こそ以前のようにはしゃいで喋り続けていたが、さすがに妊婦だからか途中からぐったりとした様子で、長距離のドライブも身体に堪えたのか、着いた頃には喋る気力もないようだった。それでも久世と露天風呂を楽しもうとしつこく誘いをかけていたが、久世の断固とした拒否の姿勢に抗い続けるだけの元気はなかった。
 つわりが出始めた時期だったようで、夜食にほとんど手をつけず、個室に敷いてあった布団に横になった途端に眠ってしまったようだった。

 久世は瑞希に怒りを感じていたばかりか、次に会ったら殴りつけてやろうとすら思っていたが、これまでに暴力など振るったことはないし、ましてや妊婦だ。以前のように無視をすることすら躊躇われ、嘔吐した際にはあれこれと気遣って、請われるままに飲み物を出してやったりと、世話焼きの性分が発揮される始末だった。

 瑞希が眠ると部屋を消灯し、久世はガラス戸で仕切られた広縁へ向かった。椅子に座って景色でも眺めようかと思ったが、庭園を見たら歩いてみたくなった。
 庭へ下りてぷらぷらと散歩をしながら、どこからか抜け出せる場所はないものかと探してみた。
 この部屋の入口の外には、瑞希の運転手が護衛のように立っている。旅館の前にタクシーは待機しておらず、乗る場合は呼ばなければならない。最寄りのタクシー乗り場は温泉街まで行かねばならないし、車で通過していく際に見た限りではそこまで徒歩なら15分ほどはかかりそうだった。
 運転手にバレた状態でタクシーに乗ることは難しいかもしれないが、見つからなければ簡単だろう。そう考えて庭園を囲うフェンスなどをチェックしてみたが、さすがに要人がお忍びで泊まるところだけあって、簡単には通り抜けられそうにない造りだった。

 久世は疲れもあり今は諦めて、庭園にある竹づくりのベンチに腰を下ろした。
 連絡をしないまま帰宅をしていない自分を案じて、生田から着信なりLINEなりが来ているだろうと、スマホを取り出した。瑞希にスマホの入ったバッグを取り上げられていて、それまでは思うように見ることができなかった。

 生田どころか西園寺からも連絡はなかった。成人した男性が連絡もなしに夜中までうろついていようが大したことではないが、久世は少し気落ちした。
 それでも声を聞きたかったし事情を説明したかったので、LINEはせずにいきなり電話をかけた。
 留守番電話につながるまでコールを鳴らしたが、生田は出ない。
 久世はもう一度かけようとして耳から離したスマホの画面を見ると、そのタイミングで生田からの着信がきた。

『透、ごめん。あまり長くは話せないんだ。どうした?』
 生田の声はひそひと声というのか、聞こえるギリギリくらいに潜めている。
「……雅紀は、今どこにいるんだ?」
『うん、LINEするつもりだったんだけど、する暇がなくてごめん。ちょっと今日は帰れないんだ』

 久世はそのとき確かに聞いた。
 生田の声と重なるようにして、どこからか同じ声がする。
 他に建物もなく、あたりはささやかとも言える虫の音色と、風が葉を揺らすさわさわという音しか聞こえない。夜中なのでひっそりと静まり返っている。そんな中での人の声は遠くからでも響いて聞こえる。
 生田が喋るのと同じタイミングで、スマホのスピーカーからではないところから、0コンマ数秒遅れといった感じで同じ声が聞こえるのだ。愛する男の声を聞き間違うことはない。
 まさかとは思ったが、帰れないという生田の言葉と照らし合わせて、久世は浮かんだ疑問をぶつけた。

「雅紀、もしかして蓼科にいるのか?」
 生田はすぐに反応しなかった。
『……透、どうした?』生田は緊張した声で返した。
「雅紀、山村旅館にいるだろう?」
 息を呑む音が聞こえた。
『……どうして……』
「雅紀、俺もそこにいる。山村旅館にいるんだ」
『えっ?』
「今部屋の外に出ている。雅紀の声が外からも聞こえるんだ」
 生田は考えている様子で答えない。
「雅紀も泊まっているのか?」
『……華風の間だ。……ちょっと待って』
 その後、スマホのスピーカーからゴソゴソと物音が聞こえて、マイク部分を手で覆っているのかくぐもってはいるが、生田が誰かと話している声が聞こえた。
『……ごめん、透はどこの部屋なんだ? てかなんでいるんだ?』
 久世は瑞稀に捕まって無理やり連れてこられた事情を説明した。部屋の前に運転手が立っていることも。
 生田は困惑した声で言う。
『マジか……。なんてことだ……。ちょっと待って』
 それから再び生田は誰かと話をしているようで、ガサガサ音とくぐもった声が聞こえた。
『透、10分したら……え? 15分? わかった。……15分したら部屋の外に出て、母屋の待合スペースに来れる? 来たときに通らなかったかもしれないけど、母屋に来ればすぐにわかると思う。ソファが何脚もあるところ』
「わかった。雅紀は誰かといるのか?」
『え? うん、来たらわかる。僕もそこに行くから、15分したら部屋を出てそこに来て欲しい。……大丈夫?』
「ああ」
『じゃあ母屋で』
 そこで間ができたので久世は通話を切ろうとした。しかし再び生田の声が聞こえてきた。
『あ、荷物は全部置いてきて。後で話すけど、櫻田が騒ぐと面倒だからまた戻ってもらいたいんだ』
「……わかった」
 そこで通話は切れた。

 久世は戸惑った。生田は誰かと一緒にいる。久世との会話をその誰かに説明している様子だった。
 誰だろう。こんな逢引専用のような高級旅館で誰といるというのだ。西園寺だろうか。
 久世はその考えを振り払うことができず、生田の顔を見るまで嫉妬と不安に駆られて落ち着かなかった。

 久世は待機の15分間、部屋の出入り口の近くで声を潜めて耳を澄ませていた。
 運転手が寝ずに立っているはずはないと思うが、いるともいないともわからない。いれば問答にならざるを得ないため、瑞稀が目を覚ますと厄介だとして今まで確認していなかった。
 微かにカタッと音がしただけで、真夜中のこの静かな空間にもそれ以外の音は聞こえない。
 15分経ったので引き戸を開けてみる。
 そこには誰もいなかった。母屋へ続く長い廊下に点々と灯籠の灯りが足元を照らしているだけだ。
 久世は不思議がりながらも、静かに母屋へと向かった。
 行ってみると確かに待合スペースがあり、ソファに生田が座っていた。

 生田は久世に気がつくと、スマホを見ていた顔を上げて笑顔を浮かべた。
「まさか透とここで会うとは思わなかった」
「雅紀、なぜここにいる」
 生田は笑顔を浮かべたまま、それには答えず立ち上がる。
「とりあえず部屋へ行こう」
 そう言って、久世が来た廊下とは違う方へ歩き出した。
 声の響くその母屋でさらに質問を浴びせるには気が引けて、久世も黙って生田の後を追う。

 華風の間に着いた。
 部屋の作りはほとんど同じだが、消灯していた久世の部屋とは違って灯りが煌々とついていた。
 部屋には誰もいない。
 生田は座卓にある座布団に腰を下ろして、久世を仰ぎ見た。
 その視線を受けて、久世も対面の座布団に座る。

「……雅紀はどうしてここにいる」
 久世は同じ質問を繰り返した。しかし生田もまた笑顔でそれを受け流す。
「透、大変だったな。まさか櫻田がこんなことをするとは思わなかった。相変わらず強引な女だ」
「雅紀!」久世は思わず声をあげる。
 不安に駆られて必死な顔をしている久世を見た生田は、仕方がないという様子で口を開いた。
「……もうすぐ来るだろう。先に話しても同じことだ。……実は」
 生田がそこまで言いかけた時、前室と主室を繋ぐ襖から西園寺が現れた。

「俺のかわいい親指姫にツバメが戻ったぞ」
 西園寺はいつものニヤニヤとした愉快げな笑みで部屋へ入ってきて、久世の隣に腰を下ろした。
 久世は西園寺と目を合わせずに、窓の外に視線を向けた。

 元彼と恋人がこんなところで久世に黙って二人きりで旅行をしているとは、嫉妬するどころではない。裏切りだ。
 久世は怒りを通り越して悲しい気持ちになった。なぜこんなことになったのだろうと。信じられないが事実なのだ。瑞希の妊娠で堪えているところに追い打ちをかける衝撃だった。
 久世は脱力し、もうどうでもいい、何も考えたくないと虚ろな目で景色を見ていた。

「ごめん悠輔、二分欲しい」
「は? なんだ?」
 突然の生田の言葉に西園寺が反応するが早いか生田は立ち上がり、久世の隣に膝をつき、いきなり久世を抱きしめた。
 西園寺は驚きの目でそれを見て、舌打ちをしながら立ち上がった。
「俺の前では惚気けるなと言っただろ」
 そう言いながら、煙草をくわえて広縁へ消えた。

 生田は耳元に近づいて、久世にだけ聞こえる声で囁いた。
「透、僕には透だけだ。大好きだよ」

 久世は黙ったまま反応を返さないでいたが、その言葉で身体が震えた。
 生田は囁いてから、久世の耳に頬にとキスをして、額にもしたあと、久世の頭を抱えるように抱き寄せた。

「嫉妬なんてするな。僕と悠輔を疑うなんてバカげてる。冷静に考えたらわかるだろ?」

 久世はおずおずと生田の背中に腕を回す。生田は両手で久世の耳元を挟んで顔を合わせる。生田は久世にキスをした。今度は唇に。

 ガラス戸を隔てているとは言え西園寺がいるにも関わらずしたそのキスで、久世は十分過ぎるほど理解した。
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