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婚姻届

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「まだ8時か……夜中かと思ったぞ」
 西園寺がスマホを眺めながら言う。目の前のテーブルには日本酒の徳利が四本空になっている。
「……田舎ですから、時間の経過が遅く感じます」
「まだ間に合う。生田くん、明日の仕事は休めるか?」
 生田は理由がわからないためすぐには答えられない。
「おい、行くぞ」
 西園寺は生田の返答を待たずに立ち上がった。
「カードは使えるのか? この店」
 伝票を表に裏にとひっくり返しながらレジへと歩いていく。
 生田も慌てて立ち上がる。追いつくと、西園寺は当然のようにレジで会計していた。

 店の外へ出た二人は、立ったまま向かい合っている。
「払います」
「は? もう払った。小銭など要らん」
 それでも生田が万札を押し付けようとしていると、西園寺は笑いながら言った。
「店ごと買えるような店での飲み代など、道端にバラまいてもいいくらいだ。それよりも身体で払ってもらった方が俺は嬉しい」西園寺はニヤリとした笑みで生田の顔を覗き込んだ。
 生田は一瞬面食らったが、すぐさま言い返す。
「……僕がタチでいいなら身体で払いますよ」
 西園寺は声を出して笑った。
「それはごめんだ。ならば移動費を任せよう」
 生田がその言葉の意味を考えて黙っていると、西園寺はタクシーを呼び止めた。
 それに乗り込んで言う。
「行くぞ」
 生田は理由がわからず躊躇ったが、西園寺の勢いに負けて言われるがまま乗り込んだ。

「空港」
 西園寺がシートに背を預けたまま声を張り上げてそれだけ言うと、スマホを操作し始めた。
「……帰るんですか」
 生田が話しかけると、西園寺はスマホから目を上げて生田を見る。
「ああ。生田くんも一緒にな」
「は? いや、仕事が……それに妻が……」
「だから休めるかと聞いた。休め。というか辞めろ。生田くんは東京へ戻るんだ。別に構わんだろ」
 生田は驚いて反応できない。
「それになんだ? 妻じゃないだろ。まだ正式に夫婦ではないはずだ。あのなんちゃらという男とよろしくやってるよ」
 生田はそれを聞いて怒りが顔を覗かせた。西園寺を睨みつけて言う。
「自宅へ帰ります」
 西園寺は生田の目をじっと数秒ほど見たあと、大きなため息をついた。
 そして運転手に生田のマンションの住所を伝えた。記憶力のいい男である。
 憮然とした顔の生田を見て、西園寺は言う。
「荷物が必要だしな」



 生田とみどりの住むマンションに着いた。西園寺は運転手に待機しているように伝える。
 生田がずんずん進んでいくと、のろのろとしているが大股の西園寺はすぐに追いついてくる。
 ついてきた西園寺を生田は睨みつけるが、西園寺は意に返さない様子でニヤニヤと微笑を浮かべていた。
「時間がないから急げよ。あと30分だ」
 生田は走ってまで振り切ろうとはしない。勝手にしろといった態度だ。

 西園寺を部屋へ連れて行ったら、みどりと須藤はどんな顔をするだろう。
 生田は思わず吹き出した。そんな場合ではないのに、三人が顔を合わせたときのことを想像して可笑しくなったのだ。

 部屋のドアの前で立ち止まる。鍵は空いていた。
 生田が音を立てないように静かにノブを回す。生田の意図に気がついた西園寺は大きな笑みを浮かべると、同じように息を殺した。
 リビングにあるスピーカーから音楽が流れている。物音を立てないように慎重にドアを開けたので、帰宅には気がついていないはずだ。
 ゆっくりとドアを閉めて靴を脱ぐ。西園寺も忍び足をして配慮をしている。その姿が可笑しくて、生田は再び小さく吹き出した。
 玄関をあがると短い廊下がある。その行き止まりにリビングへと通じるドアがある。磨りガラスだが、部屋は薄暗い。間接照明だけが付いているといった光量だった。
 音楽が流れる中廊下を進んでいると、男女の声が聞こえてきた。会話でもない、喧嘩でもない、互いに求め合って思わず漏らす類のあの声だ。
 生田は西園寺の表情を見る。西園寺はニヤニヤとしていたが、生田の視線を受けてオーバーに目を回す仕草をした。

 西園寺がいて良かったと思った。一人だったらどうなっていただろう。
 みどりのことを本気で愛しているわけでもなく、ただ軽い好意と義務で側にいるだけだ。自分の物を他人に取られることが面白くない、それだけの理由でみどりと須藤の仲を裂こうとしていた。須藤の態度が気に入らないことと、久世を諦めたのだからみどりも、という理由もあったにせよ、一番の理由はそれだった。
 一人なら怒鳴り込んでいたかもしれない。ただおもちゃを取られたという癇癪のような怒りだけで。
 第三者の存在で冷静になれている。この物怖じしない男の側では余計にそうだ。西園寺といると、女を須藤のような男に取られることなど大してことではないと感じられた。他人事のようで、この状況を愉快だとも思えてきた。

 生田はリビングへ通じるドアをゆっくりと開けた。
 ソファで抱き合っているみどりと須藤の姿があった。
 そうしていることは間違いないとは思っていたが、実際に目にすると面食らう。他人の行為を目の当たりにするというのは気恥ずかしさを感じるものなんだなと、生田はそんなことをまず先に考えた。

「……ただいま」

 その生田の声で、みどりと須藤は飛び上がるほど驚いた様子を見せた。そりゃそうだ。抱き合ったまま固まっている。
 服は着ているがかなり乱れている。臨月の妊婦とよくできるな。

 固まったままの二人に近づいて、生田は言う。
「みどり、僕は東京へ戻るよ。須藤さんと結婚するんだろ? これ、一応須藤さんの誤解を解くための写真と資料だ」
 そう言って西園寺から受け取っていた角A4の茶封筒を差し出した。
 みどりは驚いた顔のまま呆然としているが、差し出された封筒は素直に受け取った。

「須藤さん、僕が言うことじゃありませんけど、みどりと息子をよろしくお願いします」
 生田は深々と頭を下げた。
 須藤は未だ固まったまま、パクパクと口を動かしてなんとか言葉を絞り出す。
「あ、……うん……」

「それじゃあ、お幸せに。あ、生まれたら教えてくれ。会わせてはくれるんだろ?」
 生田がみどりに笑顔を向けてそう言うと、みどりは微笑にもならない強張らせた表情で答えた。
「うん……もちろん……」
 二人は解凍されていたが、どうすることもできないといった様子で、まだ抱き合ったままだった。

「僕との婚姻届は紛らわしいから破いておくよ。また数日後に来ると思う。荷物を取りに」
 そう言ってリビングから出ていこうとした。
 西園寺は残っている右手を腰に当てて、ドアの前で仁王立ちしている。みどりと須藤は驚いただろうけど、それ以上の驚きがあったからか西園寺には反応をするどころではない様子だった。

 生田はドアの手前で振り返る。
「みどり、僕も元彼のところへ戻るんだ。透だよ。久世透。愛しているんだ。内緒にしていてごめんな。でもお互い様だ。それじゃあ母子の無事を祈っているよ」

 生田は満面の笑みで片手をあげ、今度は本当に出ていった。
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