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恋愛結婚を

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 突然、スマホの着信音が鳴り、無音の室内を切り裂いた。

「はい」
 西園寺が電話に出た。
 相槌を打ちながら久世と晶を見ている。
「……わかった」
 そう言って通話を切ると立ち上がり、シャツを直しながら言う。
「親父が来る」

 久世は驚いた。
「西園寺先生が……なぜ」
 晶は聞いた瞬間に、それまで置物のように微動だにしていなかった身体を瞬時に動かして、パウダールームへと消えた。

「なぜってことはないだろ。顔見知りばかりだ。……ここのラウンジにいたらしい」

蓼科たてしなでは……?」

「お前は本当に何も知らないな。それで有能だとは、親父も耄碌もうろくしたのか?」

 呆然としたままの久世を見て、西園寺は笑い声をあげた。

「鏡を見ろ。いくらなんでもそんな姿で親父の前には出るな」

 久世はハッとして、部屋にある姿見に近づいた。
 生田のことで頭がいっぱいで、ここ数日身だしなみに気を配っていなかった。ちぐはぐなシャツとパンツを着ているうえに、髪は起きたままでボサボサだ。涙で腫らした目がそれに追い打ちをかけて酷い。
 今さらどうすることもできないが、とりあえず皺を伸ばして服を着直して、髪を精一杯整えた。シャンパンクーラーの中から氷を取り出して、ナフキンに包んで瞼に当てる。

 ちょうど整い終えたところで、ノックもなしに西園寺英輔えいすけが部屋に入ってきた。一人である。
 英輔は無言のまま部屋の中央へとやってきた。西園寺を一瞥し、久世を見る。

「おはようございます。先生」
 久世は頭を下げた。
 英輔はかすかに頷いた。

 そのとき、パウダールームから晶が現れた。
「おじさま、お久しぶりでございます」

 久世は目を見張った。
 晶は真っ白い絹のワンピースに着替えていた。真っ赤に塗られていた口紅は、薄いピンクに変わっている。そして、サングラスの下に隠されていたのは、美人を見慣れている御曹司の久世でも見たことのないほどの美貌だった。その西洋の彫刻のような顔は、マイナスの個性がないほど均整が取れていて、ぞっとするほど美しい。
 先ほどとはまるで別人のような洗練された仕草で英輔に近づいて、膝を軽く曲げてお辞儀をする姿には気品があり、貴族の令嬢のようだった。
 西園寺と二人で並ぶと、外国の王侯貴族の夫婦を描いた絵画のように見える。

「晶さん、またお美しくなられましたね」
 仏頂面だった英輔も晶を見て相好を崩した。そして晶を促して、二人でそれぞれ一人掛けのソファに座った。
 そこへ、西園寺がウィスキーの入ったグラスを手渡す。
 受け取った英輔は、西園寺と久世の方をチラリと見て、目で座るように言った。

 西園寺は自分の分のグラスを手に持って、久世の隣に腰を下ろす。

「……そういうことだ。わかったかな、久世くん」

 久世はいきなり話を振られて驚いた。

「はい! あ、いや、申し訳ございません。どういったことでしょうか」
「おいおい、聞いていないのか? 悠輔!」
「えっ、いや、話しただろ」

「ご紹介いただきました」
 晶が割って入った。

「おお、晶さん。それでどうかな? 久世くんはうちの息子よりもしっかりしているだろう? 悠輔はあんな顔になってしまったからもう政界には出られない。しかし久世くんはどうだ? 優秀だし、器量も悪くない」
「はい。ありがとうございます。お父様もいいお話だと申しておりました」
「ほう。そうか。……それはよかった」
「ですが、久世首相には内密に、というのは難しいのではないかとも申しておりましたが」
「……その話だが、私が二人を引き合わせたのではなく、純粋に若者の自由恋愛で、ということにできないだろうか」
「……承知しました」
「いいのか?」
「異存はありません」
「さすがは晶さんだ。話が早い! ありがとう。……ということだ、久世くん」
「はい!」
 目の前の会話を理解しようとするのに必死で、全く処理が追いつかないでいた久世は、ただ癖で返事をした。
「久世くんも話が早くて助かるよ。それでは」
 そう言って英輔は立ち上がった。
「晶さん、またお会いしましょう」
 英輔は晶に微笑みかけると、ドアに向かって歩き始めた。

 久世は、慌てて追いかけた。
「お待ち下さい!」
 呼び止められて、英輔は足を止めた。
「……これから蓼科なのだよ」
「先生、これは婚約というお話なのですか?」
「何を言っている君。さっき了承したではないか」
「え、いや、あれは……」
「詳しいことは休暇が終わってからすることにしょう。君はその間晶くんといたまえ。恋愛結婚する相手なんだから」
「え、あの、先生……」
 秘書官程度が議員に物申せず、どう言って断ればいいのかわからない。
「悠輔、ここでは出入りが目立つ。自宅にお招きしろ」
 そう息子に言って、英輔は足早に出ていった。


 部屋は再び静寂に包まれた。誰もが無言である。

 2分ほど経ったころ、久世がおずおずと口を開いた。
「悠輔、よくわからないのだが……」
「お前、そんなにバカだったか? しっかりしろ! 生田くんのことはもう終わった。次は晶だ。それだけだろ?」
「たかが秘書官の俺がなぜ財閥の一人娘の婚約者になるのかわからん」
「……お前は秘書官である前に、首相の孫なんだよ」
「……なんでこんなことに」

 頭を抱えた久世を見て、西園寺は大声で笑った。
「お前も怪我してみるか? そうすれば興味を削がれるぞ」

 冗談でもそういうことを言うな、と久世は思ったが、言い返す気力はなかった。
 生田のことで頭がいっぱいだと言うのに、いきなり婚約者だなんだと言われてもどうしたらいいのかわからない。

「もう帰っていい?」
 晶が立ち上がって西園寺の方を向いた。

「だめだ。親父が帰ってくるまで家で過ごしてもらう」
「……いやだ」

 西園寺はここで少し間を開けた。考えているようだった。

「仕方がない。俺も付き合おう。めんどうだがたまにはいいだろう。夜はBに行けば文句ないだろ?」
「それならいい」
「よし」

 そう言うと、西園寺も立ち上がった。晶と共にドアに向かう。ついてこない久世に気がついて振り返る。
「おい、帰るぞ」

 久世は頭を抱えたまま動かない。

「透!」
 西園寺が怒鳴り声をあげた。
 久世は肩を震わせ、ようやく立ち上がった。
 三人でホテルを出る。来たときのように晶が運転して、赤のジャガーで西園寺家へと向かう。


 婚約者だなんてどうでもいい。
 雅紀が結婚したということが事実なのか確かめたい。
 それ以上に、雅紀に会いたい。
 元気なのか、落ち込んでいないか、あの笑顔が歪んでいないか、それだけが気がかりだ。

 久世は今にも車を下りて、空港へと向かうタクシーに乗りたかった。一刻も早く青森へ飛んでいきたい。

 しかしそれは叶わず、ジャガーは西園寺家の敷地へとゆっくり入っていった。
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