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1杯目.コーヒーの苦みは大人の味
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ドアを開けると、ほのかにコーヒー香る店内。
都会の喧騒から離れ、静かにゆっくりと過ごせる。
私は、この時間を楽しむのが好きだ。
お店の雰囲気と一緒にコーヒーを嗜む、この時間が。
今年32歳になる私は、それなりに仕事も順風満帆で大きな問題もなく、過ごせている。
休みの日にはこうして、レトロな喫茶店を巡ったりするのが趣味だ。
流行りのおしゃれな喫茶店は、どうにも合わない。
仕事の合間に飲む缶コーヒーも悪くはないが、喫茶店の中で飲むコーヒーが、一番だと感じる。
コーヒーを注文する度に、苦手だった事を思い出す。
甘くも苦い、あの日の想い出が色褪せないようにと。
私自身が未練がましく、浸りたいだけだと思うが。
この、忘れられない思い出の中に。
そう考えると、自分が少しだけ嫌になる。
あれから8年も経つのに、いまだに忘れられないでいるのだから。
大人になりたいと話していた花のような少女と、学生のまま大人になってしまい、行き場を無くしていた僕の想い出を。
24歳の僕は、大学を卒業して早くも2年が経つ。
大学の卒業と同時に入社した広告代理店の仕事は、なんとか辞めないで続けていた。
この時の僕はというと…周りから「目標は?」とか、「夢は?」とか、「将来どうなりたい?」…とか。
色々言われていたが、心底どうでもいいと思って、今の仕事をしていた。
自分が生きる為に、衣食住が必要で、その為のお金が必要で、やりたくもない仕事をしているだけだと。
Jtuberになって一攫千金を!株を当てて億万長者に!会社を立ち上げて一大資産を築き上げる!、と考える事もなく。
それなら、今の仕事を精一杯やって土台を固めていけば、それなりに安定した、必要最低限の生活を送る事が出来るんじゃないかって?冗談じゃない、こんな僕が出世なんて、できるはずがない。
万が一に出世したとして、今以上に大変な思いを抱える事は、目に見えている。
毎月の契約件数も未達、未だに0、上司ともそりがあわない、同僚からも距離を置かれている。
…関係はないが、彼女もいない。
うちの会社がリストラを始めたら、真っ先に切られるのは僕だろう。
だからといって、やる気がでるわけでもなく…。
昔からそうだった、ずっと無気力に生きてきたのだ。
何かにのめり込む事もなければ、何かをやり遂げた事も、誰かに自慢するような体験談も、何も無い。
今更生き方は変えれない、学生時代はそれでなんとなくやり過ごしたし、そのなんとなくで、そこそこの大学も卒業し、ここまで過ごしてきた。
けど最近は、
(真田!お前は案件取れるまで帰ってくるなよ!)
(ふふっ…また刈谷部長に怒られてやんの)
(あいつ、いつに辞めるかな?いる意味あんの?)
(あるよ!刈谷部長の矛先が真田に集中する!)
(確かに、そりゃ言えてるな、真田様々だな)
(こんな提案で話が聞けるか!他で話を聞く!)
(ごめんねぇ~他にいい話が出ちゃって…真田くんには悪いけどさ、断らせてもらうわ)
頭の中を、色々な言葉で埋め尽くしていく。
でも、常にこう考えていた、“なんとかなる”今までそうやって生きてきたと、周りが悪いのだと。
怒られるのは嫌だけど、別に死ぬ訳でもないし、クビになったらクビになったで、また”なんとかなる”そう思いながら。
今日も営業で、いくつかの会社を回っていたが、いつもの様に何の成果も上がらなかった。
何をやっても上手くいかない、駅から駅へと向かうこの電車のように、決められたレールの上で、決められた仕事だけをこなせたら、どれだけ楽だろうか。
いや、決められた仕事すら出来ないのが僕だ。
そうしていると、自宅から最寄りの駅に電車が着く。
電車から押し出されるような人波に、身を預けるように電車を降りていく。
また家に帰って、ご飯食べて、風呂に入って寝る。
そうしていつも通りの一日が終わっていく。
そんな嫌な気持ちを抱えながら、家に向かう。
歩き慣れた、いつもの道を。
ふと、とある喫茶店の看板の前で歩みを止める。
よく耳にする、レトロ喫茶というものだろうか。
看板に店名は書いてない、案内だけのようだ。
どうやら通路を奥に通った先に、あるようだ。
いつもなら気にしない看板に目が止まっていた。
普段はコーヒー自体が苦手なので、喫茶店に興味を持つことすらなかったのだが。
「なぜ苦いコーヒーが好きなのか、理解できない」
そう呟くと、ふと思い出す。
苦いコーヒーを飲めると、大人になった証。
そう学生時代に、友人達と話していたのを。
僕は自然と、通路を奥へと進んでいた。
道なりに進むと、看板にあった喫茶店を見つける。
「本当にあった」
名前すらなかったので、疑わしかったのだ。
僕は、興味本位で木製の扉を開ける。
扉にはステンドガラスが散りばめられており、大人の世界に誘われるような雰囲気だと感じた。
開けた拍子に、ベルの音が静かな店内へと鳴り響く。
「いらっしゃい、お好きな席へどうぞ」
紳士的という言葉が似合う御老人に、声をかけられる。
おそらく、この喫茶店の店主だろうか?
僕は、言われるがままに店内へと入る。
ここは、隠れ家的な喫茶店だろう。
店内には赤いソファーや、優しく照らす照明。
窓ガラスから差し込む光が店内を優しく包む。
とても年季の入った雰囲気を感じる。
長くこの場所で、変わらずに営んでいるような。
店内では、夏の暑さが優しい暖かさに変わっている。
この雰囲気のおかげか、過ごしやすそうだ。
人生で初めての喫茶店に入る事を、少しばかり躊躇していたが、足取りは意外にも軽かった。
店内には、僕以外に1人もいない。
初めて入るには、静かで良いと思った。
店主の前にあるカウンター席へと腰掛ける。
ふと。奥に目をやると誰かが座っていた。
奥のテーブル席に女子高校生が一人。
ノートや本をを出しながら物静かに佇んでいた。
勉強でもしているのだろうか?
「それで、ご注文は?」
店内の雰囲気と彼女に気を取られていた。
僕は、慌てて注文を返す。
「こ、このブランドコーヒーを1つ」
「かしこまりました」
言葉の一つ一つに、渋みを感じる。
まるでコーヒーの様に渋い声だと。
どうやら、自分でもなにを思っているのか分からなくなってくるぐらい、雰囲気にのまれているようだ。
ブランドとブランドを間違えるぐらいに。
店主がコーヒーの準備を始める。
昔、理科の実験で見たフラメンコ?だっけ、どこか見た事のあるような、ないような。
目の前のガラスの容器でコーヒーが作られている。
静かな店内に、コーヒーを作る音だけが伝わる。
その姿に、少し見惚れてしまった。
「お待たせしました」
お皿が音もなくテーブルに乗る。
目の前に置かれたコーヒーを見て、我に帰る。
しまった、コーヒーが苦手だと。
僕は無理をしながら、コーヒーカップに口をつけ、出来立てのコーヒーを飲んでいく。
やはり苦い、カップの隣にあったミルクと砂糖を入れて、再び飲んではみるが…やはり苦い。
時間をかけながら、少しずつ飲んでいく。
苦いコーヒを飲めたら大人になる、と言って笑い合ったあの日を思い返すように。
「懐かしいな…」
ぼそっと呟きながら、僕は昔を思い返した。
あの頃は何も気にしなくて良かった、何も考えなくても楽しく過ごしていた、あの頃に戻りたいなと。
1時間ほど経ったぐらいだろうか、窓から差し込む薄暗い夕陽の光が消え、店内の雰囲気を変えた頃。
奥にいた女子高校生が、レジへと向かう。
すると、レジの付近が慌ただしくなる。
「あれ?…あれっ?」
彼女は、鞄の中を何度も何度も確認していた。
おそらく財布が無い、もしくは忘れたのだろうか?
慌てながらも、元いた奥の席へ戻って行った。
僕はそんな光景を横目に、鞄を手に取りレジに向かって、ひっそりと店主に声をかける。
「あの子、財布が無いとかですか?」
「みたいですね」
ボクは財布を取り出し、2人分の会計を。と伝える。
店主は驚いた表情を見せながら、会計を済ます。
「2,000円丁度、お預かりします」
「ごちそうさまでした、ありがとございます」
「こちらこそ、ありがとうございました、またのお越しお待ちしております」
僕はもう一度ベルを鳴らし、口の中に残る苦さを我慢しながら扉を閉める。
さっきまでの嫌な気持ちが、少しばかりの善意で和らいだのか、足取りが軽くなっていた。
あの子は安心して家に帰れただろうか。
そう思いながら、暑い夏の夜に向かって消えていく。
あの喫茶店に入った日から1週間ほど経っただろう。
僕はまた、あの日の喫茶店に伸びる通路を進み、スタンドガラスの散りばめられた扉の前にいた。
何故か、もう一度入ってみたくなったのだ。
彼女が無事に帰れたのか気になるのか、ここにくると大人になった気がするからか、それは分からない。
先週より早めの時間に終えたので、僕は時計を確認し、ベルを鳴らしながら店内へと入っていく。
2回目なので、そこまで緊張はしなかった。
「おや、いらっしゃい」
僕のことを覚えていてくれたのだろう。
目が合うと、前回とは違った雰囲気で案内される。
僕は、同じカウンターの席へと腰をかける。
今日はメニューに目を通す余裕があるのか、カウンターの前に置かれていたメニュー表を手に取り眺める。
先週の事を伺おうとした、その時だった。
店内にベルが鳴り誰か入ってきた。
こちらへ足音が近づいてくるような気がした。
足音が後ろで止まると、声が聞こえた。
「あ、あの……」
か細い声に、思わず心臓が大きく脈打つ。
おそらくだが、僕に声をかけているのだろうと思い、後ろを振り返って声の方に体を向ける。
すると、先週財布が無くて慌てていた子が、こちらをじっと見つめていた。
「この前は、ありがとうございました!」
長い髪を揺らし、大きくお辞儀をしながら、僕に対して感謝の言葉を伝えてきた。
また、鼓動が速くなった気がする。
しばらく聞いていなかった、“ありがとう”の言葉に喜んでいるのだろう。
ここでにやけると、気持ち悪いと思われそうだ。
にやけそうになる顔を抑えながら、彼女に伝える。
「あの日は大変でしたね。こちらこそ、ありがとうございました。変だとは思いますが、あの日はあまりいい日じゃ無かったもので、貴女にほんの少しの良いことができて、僕も救われたので…気にしないで下さい」
顔を上げ、驚いたような表情で、こちらを見つめる。
猫のように大きく、輝かしい瞳で。
「ふふっ…確かに変ですね」
少し大人びた、花のような笑顔でそう答えた。
それがまた、僕の心臓を速く打ち鳴らす。
「あ、忘れないうちに…お金をお返しします」
彼女は財布を出そうと、鞄を探りだす。
「お返しは結構ですよ、さっき伝えた通り、感謝をしていますので、お互い様です。大丈夫です」
少し臭いだろうか?カッコつけすぎだろうか?
ここでは見栄を張りたいと、そう思った。
「いえ、それとこれとでは話が別では…」
「いいんです、それに…まだ学生さんですよね?僕は社会人ですから、これも何かの縁だと思ってしまっておいて下さい」
「今日は財布があるので、大丈夫です」
彼女は、大人びた赤色の長財布を取り出し、こちらに見せつけている。
「財布、無くしてなかったのですね、良かったです、無くなったら大変でしたからね。」
「なので今日は…」
「では、また今度、僕が財布を無くすか忘れた時にでもお願いします。今日は、僕も財布がありますので」
僕は、少しだけ恥ずかしいと感じながら、二つ折りの、少し古めかしい財布を取り出す。
彼女は暫く考えながら、せめて名前だけでも聞いておきたいとの事だった。
「僕は、真田(さなだ) 誠(まこと)といいます」
「真田さん…私は、本城(ほんじょう) 百合(ゆり)といいます」
彼女は、少し戸惑いながらも再度お礼をすると、前と同じ奥のテーブル席へと歩いていく。
こちらを気にしているようだが、鞄からノートと本を取り出し、店主に注文をする。
店主がカウンターに戻ると、注文の準備をする。
どうやら、ブレンドコーヒーを注文したらしい。
僕もブレンドコーヒーを注文する。
また、見栄を張ってしまった。
店内にお客は2人しかいないのにだ。
それでも、前回と同じ後悔をしながら、苦いコーヒーと共に、少しばかりの平和な時間を過ごす。
少しだけ時間が経ち、今日は早めに帰る事にした。
席を立ち、会計を済ませる事にする。
「1,000円お預かりしたので、350円のお返しです」
「お騒がせしました、ありがとうございました」
「とんでもない、またいつでもいらしてください」
僕は、ふと奥に目をやると本城さんと目が合う。
軽く会釈をすると、向こうも返すかのように少し立ち上がり、会釈を返してくれる。
店内の雰囲気と、彼女の不思議な雰囲気が妙に合ってる気がする。陽が優しく差し込むその席は、彼女だけの世界のようだ。
恐らく、この日からすでに、彼女の惹かれていた。
まだまだ、子供ののままで変わらないでいたが、少しづつ変わり始めたのもこの頃からだろう。
僕はまた、あの喫茶店に行くのだろう。
僕にはまだ苦く、少しの甘さにあまえながら飲むコーヒーと共に過ごした、優しさで包まれた大人の世界を、心地いいと感じながら。
まだ、大人ではなかった。
大人にになったつもりだった。
何も知らない、子供のままでありながら。
都会の喧騒から離れ、静かにゆっくりと過ごせる。
私は、この時間を楽しむのが好きだ。
お店の雰囲気と一緒にコーヒーを嗜む、この時間が。
今年32歳になる私は、それなりに仕事も順風満帆で大きな問題もなく、過ごせている。
休みの日にはこうして、レトロな喫茶店を巡ったりするのが趣味だ。
流行りのおしゃれな喫茶店は、どうにも合わない。
仕事の合間に飲む缶コーヒーも悪くはないが、喫茶店の中で飲むコーヒーが、一番だと感じる。
コーヒーを注文する度に、苦手だった事を思い出す。
甘くも苦い、あの日の想い出が色褪せないようにと。
私自身が未練がましく、浸りたいだけだと思うが。
この、忘れられない思い出の中に。
そう考えると、自分が少しだけ嫌になる。
あれから8年も経つのに、いまだに忘れられないでいるのだから。
大人になりたいと話していた花のような少女と、学生のまま大人になってしまい、行き場を無くしていた僕の想い出を。
24歳の僕は、大学を卒業して早くも2年が経つ。
大学の卒業と同時に入社した広告代理店の仕事は、なんとか辞めないで続けていた。
この時の僕はというと…周りから「目標は?」とか、「夢は?」とか、「将来どうなりたい?」…とか。
色々言われていたが、心底どうでもいいと思って、今の仕事をしていた。
自分が生きる為に、衣食住が必要で、その為のお金が必要で、やりたくもない仕事をしているだけだと。
Jtuberになって一攫千金を!株を当てて億万長者に!会社を立ち上げて一大資産を築き上げる!、と考える事もなく。
それなら、今の仕事を精一杯やって土台を固めていけば、それなりに安定した、必要最低限の生活を送る事が出来るんじゃないかって?冗談じゃない、こんな僕が出世なんて、できるはずがない。
万が一に出世したとして、今以上に大変な思いを抱える事は、目に見えている。
毎月の契約件数も未達、未だに0、上司ともそりがあわない、同僚からも距離を置かれている。
…関係はないが、彼女もいない。
うちの会社がリストラを始めたら、真っ先に切られるのは僕だろう。
だからといって、やる気がでるわけでもなく…。
昔からそうだった、ずっと無気力に生きてきたのだ。
何かにのめり込む事もなければ、何かをやり遂げた事も、誰かに自慢するような体験談も、何も無い。
今更生き方は変えれない、学生時代はそれでなんとなくやり過ごしたし、そのなんとなくで、そこそこの大学も卒業し、ここまで過ごしてきた。
けど最近は、
(真田!お前は案件取れるまで帰ってくるなよ!)
(ふふっ…また刈谷部長に怒られてやんの)
(あいつ、いつに辞めるかな?いる意味あんの?)
(あるよ!刈谷部長の矛先が真田に集中する!)
(確かに、そりゃ言えてるな、真田様々だな)
(こんな提案で話が聞けるか!他で話を聞く!)
(ごめんねぇ~他にいい話が出ちゃって…真田くんには悪いけどさ、断らせてもらうわ)
頭の中を、色々な言葉で埋め尽くしていく。
でも、常にこう考えていた、“なんとかなる”今までそうやって生きてきたと、周りが悪いのだと。
怒られるのは嫌だけど、別に死ぬ訳でもないし、クビになったらクビになったで、また”なんとかなる”そう思いながら。
今日も営業で、いくつかの会社を回っていたが、いつもの様に何の成果も上がらなかった。
何をやっても上手くいかない、駅から駅へと向かうこの電車のように、決められたレールの上で、決められた仕事だけをこなせたら、どれだけ楽だろうか。
いや、決められた仕事すら出来ないのが僕だ。
そうしていると、自宅から最寄りの駅に電車が着く。
電車から押し出されるような人波に、身を預けるように電車を降りていく。
また家に帰って、ご飯食べて、風呂に入って寝る。
そうしていつも通りの一日が終わっていく。
そんな嫌な気持ちを抱えながら、家に向かう。
歩き慣れた、いつもの道を。
ふと、とある喫茶店の看板の前で歩みを止める。
よく耳にする、レトロ喫茶というものだろうか。
看板に店名は書いてない、案内だけのようだ。
どうやら通路を奥に通った先に、あるようだ。
いつもなら気にしない看板に目が止まっていた。
普段はコーヒー自体が苦手なので、喫茶店に興味を持つことすらなかったのだが。
「なぜ苦いコーヒーが好きなのか、理解できない」
そう呟くと、ふと思い出す。
苦いコーヒーを飲めると、大人になった証。
そう学生時代に、友人達と話していたのを。
僕は自然と、通路を奥へと進んでいた。
道なりに進むと、看板にあった喫茶店を見つける。
「本当にあった」
名前すらなかったので、疑わしかったのだ。
僕は、興味本位で木製の扉を開ける。
扉にはステンドガラスが散りばめられており、大人の世界に誘われるような雰囲気だと感じた。
開けた拍子に、ベルの音が静かな店内へと鳴り響く。
「いらっしゃい、お好きな席へどうぞ」
紳士的という言葉が似合う御老人に、声をかけられる。
おそらく、この喫茶店の店主だろうか?
僕は、言われるがままに店内へと入る。
ここは、隠れ家的な喫茶店だろう。
店内には赤いソファーや、優しく照らす照明。
窓ガラスから差し込む光が店内を優しく包む。
とても年季の入った雰囲気を感じる。
長くこの場所で、変わらずに営んでいるような。
店内では、夏の暑さが優しい暖かさに変わっている。
この雰囲気のおかげか、過ごしやすそうだ。
人生で初めての喫茶店に入る事を、少しばかり躊躇していたが、足取りは意外にも軽かった。
店内には、僕以外に1人もいない。
初めて入るには、静かで良いと思った。
店主の前にあるカウンター席へと腰掛ける。
ふと。奥に目をやると誰かが座っていた。
奥のテーブル席に女子高校生が一人。
ノートや本をを出しながら物静かに佇んでいた。
勉強でもしているのだろうか?
「それで、ご注文は?」
店内の雰囲気と彼女に気を取られていた。
僕は、慌てて注文を返す。
「こ、このブランドコーヒーを1つ」
「かしこまりました」
言葉の一つ一つに、渋みを感じる。
まるでコーヒーの様に渋い声だと。
どうやら、自分でもなにを思っているのか分からなくなってくるぐらい、雰囲気にのまれているようだ。
ブランドとブランドを間違えるぐらいに。
店主がコーヒーの準備を始める。
昔、理科の実験で見たフラメンコ?だっけ、どこか見た事のあるような、ないような。
目の前のガラスの容器でコーヒーが作られている。
静かな店内に、コーヒーを作る音だけが伝わる。
その姿に、少し見惚れてしまった。
「お待たせしました」
お皿が音もなくテーブルに乗る。
目の前に置かれたコーヒーを見て、我に帰る。
しまった、コーヒーが苦手だと。
僕は無理をしながら、コーヒーカップに口をつけ、出来立てのコーヒーを飲んでいく。
やはり苦い、カップの隣にあったミルクと砂糖を入れて、再び飲んではみるが…やはり苦い。
時間をかけながら、少しずつ飲んでいく。
苦いコーヒを飲めたら大人になる、と言って笑い合ったあの日を思い返すように。
「懐かしいな…」
ぼそっと呟きながら、僕は昔を思い返した。
あの頃は何も気にしなくて良かった、何も考えなくても楽しく過ごしていた、あの頃に戻りたいなと。
1時間ほど経ったぐらいだろうか、窓から差し込む薄暗い夕陽の光が消え、店内の雰囲気を変えた頃。
奥にいた女子高校生が、レジへと向かう。
すると、レジの付近が慌ただしくなる。
「あれ?…あれっ?」
彼女は、鞄の中を何度も何度も確認していた。
おそらく財布が無い、もしくは忘れたのだろうか?
慌てながらも、元いた奥の席へ戻って行った。
僕はそんな光景を横目に、鞄を手に取りレジに向かって、ひっそりと店主に声をかける。
「あの子、財布が無いとかですか?」
「みたいですね」
ボクは財布を取り出し、2人分の会計を。と伝える。
店主は驚いた表情を見せながら、会計を済ます。
「2,000円丁度、お預かりします」
「ごちそうさまでした、ありがとございます」
「こちらこそ、ありがとうございました、またのお越しお待ちしております」
僕はもう一度ベルを鳴らし、口の中に残る苦さを我慢しながら扉を閉める。
さっきまでの嫌な気持ちが、少しばかりの善意で和らいだのか、足取りが軽くなっていた。
あの子は安心して家に帰れただろうか。
そう思いながら、暑い夏の夜に向かって消えていく。
あの喫茶店に入った日から1週間ほど経っただろう。
僕はまた、あの日の喫茶店に伸びる通路を進み、スタンドガラスの散りばめられた扉の前にいた。
何故か、もう一度入ってみたくなったのだ。
彼女が無事に帰れたのか気になるのか、ここにくると大人になった気がするからか、それは分からない。
先週より早めの時間に終えたので、僕は時計を確認し、ベルを鳴らしながら店内へと入っていく。
2回目なので、そこまで緊張はしなかった。
「おや、いらっしゃい」
僕のことを覚えていてくれたのだろう。
目が合うと、前回とは違った雰囲気で案内される。
僕は、同じカウンターの席へと腰をかける。
今日はメニューに目を通す余裕があるのか、カウンターの前に置かれていたメニュー表を手に取り眺める。
先週の事を伺おうとした、その時だった。
店内にベルが鳴り誰か入ってきた。
こちらへ足音が近づいてくるような気がした。
足音が後ろで止まると、声が聞こえた。
「あ、あの……」
か細い声に、思わず心臓が大きく脈打つ。
おそらくだが、僕に声をかけているのだろうと思い、後ろを振り返って声の方に体を向ける。
すると、先週財布が無くて慌てていた子が、こちらをじっと見つめていた。
「この前は、ありがとうございました!」
長い髪を揺らし、大きくお辞儀をしながら、僕に対して感謝の言葉を伝えてきた。
また、鼓動が速くなった気がする。
しばらく聞いていなかった、“ありがとう”の言葉に喜んでいるのだろう。
ここでにやけると、気持ち悪いと思われそうだ。
にやけそうになる顔を抑えながら、彼女に伝える。
「あの日は大変でしたね。こちらこそ、ありがとうございました。変だとは思いますが、あの日はあまりいい日じゃ無かったもので、貴女にほんの少しの良いことができて、僕も救われたので…気にしないで下さい」
顔を上げ、驚いたような表情で、こちらを見つめる。
猫のように大きく、輝かしい瞳で。
「ふふっ…確かに変ですね」
少し大人びた、花のような笑顔でそう答えた。
それがまた、僕の心臓を速く打ち鳴らす。
「あ、忘れないうちに…お金をお返しします」
彼女は財布を出そうと、鞄を探りだす。
「お返しは結構ですよ、さっき伝えた通り、感謝をしていますので、お互い様です。大丈夫です」
少し臭いだろうか?カッコつけすぎだろうか?
ここでは見栄を張りたいと、そう思った。
「いえ、それとこれとでは話が別では…」
「いいんです、それに…まだ学生さんですよね?僕は社会人ですから、これも何かの縁だと思ってしまっておいて下さい」
「今日は財布があるので、大丈夫です」
彼女は、大人びた赤色の長財布を取り出し、こちらに見せつけている。
「財布、無くしてなかったのですね、良かったです、無くなったら大変でしたからね。」
「なので今日は…」
「では、また今度、僕が財布を無くすか忘れた時にでもお願いします。今日は、僕も財布がありますので」
僕は、少しだけ恥ずかしいと感じながら、二つ折りの、少し古めかしい財布を取り出す。
彼女は暫く考えながら、せめて名前だけでも聞いておきたいとの事だった。
「僕は、真田(さなだ) 誠(まこと)といいます」
「真田さん…私は、本城(ほんじょう) 百合(ゆり)といいます」
彼女は、少し戸惑いながらも再度お礼をすると、前と同じ奥のテーブル席へと歩いていく。
こちらを気にしているようだが、鞄からノートと本を取り出し、店主に注文をする。
店主がカウンターに戻ると、注文の準備をする。
どうやら、ブレンドコーヒーを注文したらしい。
僕もブレンドコーヒーを注文する。
また、見栄を張ってしまった。
店内にお客は2人しかいないのにだ。
それでも、前回と同じ後悔をしながら、苦いコーヒーと共に、少しばかりの平和な時間を過ごす。
少しだけ時間が経ち、今日は早めに帰る事にした。
席を立ち、会計を済ませる事にする。
「1,000円お預かりしたので、350円のお返しです」
「お騒がせしました、ありがとうございました」
「とんでもない、またいつでもいらしてください」
僕は、ふと奥に目をやると本城さんと目が合う。
軽く会釈をすると、向こうも返すかのように少し立ち上がり、会釈を返してくれる。
店内の雰囲気と、彼女の不思議な雰囲気が妙に合ってる気がする。陽が優しく差し込むその席は、彼女だけの世界のようだ。
恐らく、この日からすでに、彼女の惹かれていた。
まだまだ、子供ののままで変わらないでいたが、少しづつ変わり始めたのもこの頃からだろう。
僕はまた、あの喫茶店に行くのだろう。
僕にはまだ苦く、少しの甘さにあまえながら飲むコーヒーと共に過ごした、優しさで包まれた大人の世界を、心地いいと感じながら。
まだ、大人ではなかった。
大人にになったつもりだった。
何も知らない、子供のままでありながら。
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