流天の剣/女

境 仁論(せきゆ)

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海の玉並べ

新開/あなたの呼び声-1

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 濡れた衣服が重くて起き上がるのが億劫だった。手と足に張り付いた岩肌は氷のよう。立ち上がった時に冷風を浴びるよりかは、ずっとこの体勢を維持して体温を守り続けた方が遥かにマシのように思えた。
 一つ、二つとつららみたいな雫が首筋に落ちていく。段々と濡れる肌を拭おうとして初めて腕を動かした。手を挙げた瞬間に冷凍庫並みの冷気が肌を擦ってくる。
 ———ああ、クソ———
 ずっと丸まっていたかったがとんでもない低温の空間にいることを自覚する。立ち上がる他なかった。
 
 洞窟だった。それも海の上にあるらしい。ぴたりぴたりとあちこちから水の垂れる音が聞こえている。
 それにしても暗い。頼りになるのは天井を突き抜けている大穴から差し込む月の影だけだった。しばらく視界を暗闇に馴染ませてから歩く。そこで気づいたが、どうやらどこかに靴を落としてきてしまったらしい。足裏に刺さる石が痛かった。

 風が吹いている方へと進んでいると穴を見つけた。そこに誰かが立っているのが見えて止まった。
「……天?」
 暗い人影。それだけでは詳細な姿を視認することもできないが、ずっと揺らめているソレを見て彼女であると信じて疑わなかった。ずっと震えが止まらない太ももと頬に平手打ち。そして足を速めた。

 洋画で見たような景色だった。黒い海面がずっと地震のようにゆらゆらしている。岩の壁にぶつかった波が爆発のような音を立てては沈んでいく。見渡す限りの海。水平線まで他に浮かんでいるものは一つもない。どうやらここは、そんな世界にぽつりととり残された小さな島であるらしかった。
 隔絶されてしまった世界と海の境界線のすぐ近くに、白い着物を来た少女が一人立っている。彼女は白装束を着ていた。どこまでも荒れ狂う海の姿をじっと見据えている。あの時のように水平線を眺めているのだろうか。
そんな彼女の手に刀が握られているのに気づく。今の天は、強い方の……。
 その後ろ姿は、台風にも掘り返されない根の張った植物をイメージさせた。

「天」
 近づいて彼女の名前を呼ぶ。しかし反応はない。聞こえないことは……ないと思う。ノイズとして無視しているか、わざと無視しているかのどっちかだろう。
「……君はきっと、天じゃないんだね。その剣こそが君の正体なんだろ」
「——————」
 そう語り掛けると、僅かに彼女は頭を動かした。こちらに少しの関心を向けたようだった。
「誰なんだ」
 彼女は何も答えない。
「……瀬古さんから聞いた。君はずっと、天を生かし続けていたんだよな」
 答えない。
「天はずっと君を大事にしていた。なら君も天のことを」
「これ以上私たちに近づくな」
 凍り付くような声が発せられた。彼女は今、顔を完全にこちらに向けている。
「何なんだ、貴様は。なぜ必要以上に私たちに踏み込もうとする?」
 普段の天の、世界を知らない無垢な雰囲気が一切感じられなかった。その代わりに言いようのない殺気が向けられているのがわかった。
「警告する。私たちとは縁を切れ。関わろうとするな。知ろうとするな」
「なんでだよ」
 すると彼女は表情を一切変えないまま目の前まで迫ってきた。
「私たちの邪魔をするな。目障りだ。ただ少し見知っただけでそう簡単にこちら側に来るな。貴様は所詮、巻き込まれただけの畜生に過ぎない」
 鬼気迫る言葉の圧。しかしそれでも退けないものがあった。
「巻き込まれただけ……? 必要以上に巻き込んでるのはそっちの方だろ。瀬古さんも大概だけど、お前もそうじゃないのか」
「何?」
 剣は眉を歪ませる。
「俺を巻き込ませたくなかったなら、初めて会った時だって助けなければよかっただろ。俺の目の前で、必要以上に変なものを見せてきたのも原因じゃないのか」
「好きでやったわけじゃない! それは天が望んだから……いや違う。その話はいい。貴様はそれを理由にして言い寄ってくるわけではないだろう」
 それは、その通りだった。そこで俺は押し黙る。
「ただの興味関心だ。貴様が持っているのは。そんな曖昧なものを一番の理由にしているのはわかっている。だからこそ余計な詮索をするなと言っているんだ。そんな貧弱なモノで毎日話しかけられるから天はおかしくなっている」
「天がおかしく……? それってどういう」
「平穏が乱される。天はずっと幸福だった。静かに生きることが出来ていた。ただ簡単なことをこなすだけで生きられるこの世界に来て、初めて天は自分の幸福を得たはずだった。しかし貴様と会ってからはどうだ。貴様を助けて、貴様の言葉に触れてからはどうだ。天は思い悩むようになったのだ。約束されていたはずの静寂な毎日が、貴様のせいで崩されたのだ。お前と出逢いさえしなければ、天はずっと静かにいられたのに」
 言い捨てて彼女は洞窟の中に戻ろうとした。
「おいちょっと待てって」
 追いかける。
「どうする気だよ」
「天の身体はこうして戻ってきた。なら後は生きるだけだ。お前は死ぬだろうが、どうでもいい」
「は……?」
 一瞬何を言っているのかわからなかった。
 洞窟の中に入ろうとする彼女を見てなんとなく巣に帰る動物を想像した。
 そしてさっきの言葉の意味を察した。
「ちょっと待てよ、こんなところで一生を過ごすって言ってるのか?」
 彼女は立ち止まる。
「問題ない」
 さも当然のことのように言い捨ててまた歩き出した。
「大ありだろ馬鹿か!?」
 暗がりの方に進む彼女を追いかける。
「こんなところで生きるって、わけわかんないって!」
「当たり前に生きている貴様にはわからないだろうな。だが私がいる限り天は死なない。それならどこにいても同じだ」
「何言ってるんだ……? 生きていられるならこんな酷い場所でもいいっていうのか」
「そうだ」
 言い切った。ヤツにとっては、『天が生きていること』こそが最大にして唯一の目的であるらしかった。
「貴様の常識とはかけ離れているだろう? だがそれが私たちだ。ただ誰にも邪魔されず、生きること……それが天にとっての平穏。それ以外に何も望んでいない」
「何も望まない……?」
「何かを知ることも。そうして感情を動かすことも。全て私たちには無用なものだ。ただ静かに眠れるなら、ここも極楽浄土と変わらない」
 そういって、洞窟の中に入っていく彼女の後ろ姿を見過ごす……わけがなかった。
「……待てよ。それが天の望みなんて到底思えない」
「……何?」
 低く重い声で返される。
「生きることだけが目的っておかしいだろ。生きてる以上は、もっと別のことのために生きようって思うのが人間じゃないのか」
「……貴様」
「お前は、意味のない人生を天に強いてるんじゃないのか? 何が無用だよ。そんなこと天は本当に望んでるのか? それで本当に幸せって言えるのか?」
 彼女は振り返って迫ってくる。そして手に持っていた刀を目前に突きつけた。
「何がわかる」
「……俺は確かに天のことを何も知らない。でもそれ以上に、天は世界を知らないんだろ。それなのに一切何も教えないで眠らせるとか。さっきまでお前のこと、天を守ってくれてる優しい奴だって思ってたけど勘違いだった。お前がやってるのは天を閉じ込めてることだけだ! これで守ったつもりでいるのか? 守るってことは、何もさせないってことじゃないだろ!」
 すると奴の刀を持っていた腕が震え始めた。
「ここでその首を撥ねてしまってもいいんだぞ」
「……それも、天が望んだことか」
「……」
 脳裏には天の話す姿が映っていた。初めて会った時は、コンビニでアイスを選んでいた。一緒に事務所に向かっていた時、お互いの大切なものを語り合って、それで天は俺の大事にしているものに興味を持ってくれた。初めて海を見たときも、その光景をいつまでも目に焼き付けていたいように見えた。
 天がその時々に何を思ったかはまだ考えあぐねるけれど、それが全部余計なものとして切り捨てられるのは我慢ならない。
「生きるってそういうことじゃないだろ。死ななければいいってものじゃないだろ」
「……」
「知ることの、何が悪いんだよ。天が色んなものを見ることの何がそんなにダメなんだよ」
「黙れ」
「黙らない」
 彼女は激しく語気を荒げた。
「黙れ……黙れ、黙れ! 煩い。お前の言葉は。こんな、醜悪な世界を見せたところで、天は余計に苦しむだけだ。それは私自身が一番よくわかっている」
「天は違うかもしれないだろ」
「貴様が、天を、語るな」
 彼女は剣を両手で構えた。まるで力いっぱいに振り回そうとしているみたいだった。
「貴様如きが、天を、天を! 語るな!」
 ……想像通り、奴は全速で刀を振った。その矛先はこの首。それでも俺は一切たじろぐことはなかった。

 剣先はこの首に届くことはなかった。寸前で止まっている。
「何故だ、天」
 そう呟くと、天は刀を落とした。

 正直、首を切られてもいいとさえ思っていた。天がそう望んだならそれでいいし、望んでいなかったならきっと止めてくれる。そう信じていた。生きること云々語っておいて自分の命はないがしろにするとか、ちょっと説得力ないなと自嘲する。
「天」
 天は地面に落ちた刀を見下ろしている。数秒立ち、顔をあげた。
「ごめんなさい、近衛さん」
「謝んなくていいよ、天」
 どっと疲れが押し寄せて、尻をついてしまう。天は手を差し伸べるが、俺はちょっと休みたいからと手を振った。
「それで天はさ。結局どうなの?」
「どう、って」
「後悔してない? 俺たちの世界を見てさ」
 少し悩む様子を見せる。そして少しはにかむように答えた。
「悩むこと……増えたけど。たまに苦しくなることもあるけど。でも全部が全部、悪いものじゃない。アイスとか、美味しいし。あの海も綺麗だったし。今の海は汚いけれど」
 それは多分初めて見る、天の心からの微笑みだった。
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