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番外編
永遠の幸福の終わり 4
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戻った俺を、家族は優しく迎えてくれた。俺は居心地の悪さを感じつつもそれを表に出さないよう、必死で以前までの俺を装うしかなかった。
そして、落ち着く暇もなく俺は父の様子を聞かされた。病状は落ち着いているものの、いつどうなるか予断を許さない状況だと。
俺は、無意識に言葉を紡いでいた。
「よかった」
発した言葉に、俺は驚く。
(俺は何と言った?よかった……だと?)
父を嫌悪していたはず。俺は。信じられない。平らだったはずの俺の足元がぐらつくような感覚に襲われる。
だが、そんな俺を支えるものなどない。何かに縋りたい気持ちを、俺は必死で心の奥に押し込むしかなかった。
そんな混乱の中、俺は父に呼ばれ、父の部屋でふたりきり顔を合わせる事になった。
久しぶりに会った父は、かなり痩せ細っていた。立ち尽くす俺を、父は何も言わずに抱きしめ、背中を何度も優しく撫でる。幼い頃、父とふたりきりになった時にだけ、父が俺にそうしていたのを思い出す。
「スクル……よく、よく帰ってきてくれた」
父の言葉は、俺の腹の底に、重く澱む澱のように積もっていく。
俺の手は、父の背を抱こうとし、すぐさま理性がそれを止め、手は彷徨う。
行き場をなくした手を、結局、父の肩に添え、そっと押した。
「……立ったままだと、体に障る」
「そう、だな」
威厳のある王の雰囲気は消え、そこにいるのは寂しげに微笑むひとりの男だけ。その姿に、俺の心はジクジクと痛む。
正直、そこから父とどんな会話をしたのか憶えていない。間近に迫る父の死に、俺の頭も心もぐちゃぐちゃになっていた。
――
父は段々と起き上がる事ができなくなり、ある日、とうとう目を覚まさなくなった。
窓を打つやまない雨は、悲しみに浸る暇もないたくさんの者の悲しみを代弁しているように見えた。
家族や城の者たちは気丈に振る舞い、これからやらなければならない事に追われている。それでも、彼らの表情には悲しみの影が落ちて見える。
だがその中に、母の姿だけはなかった。
「しばらく出かけてくる。心配しないで」
それだけ言い残し、俺が戻ってきた後にすぐ姿を消してしまったのだ。ずっと母の世話をしてきた侍女は、何もかも理解しているというような顔で、幼い頃からしてくれたように俺の背をさすりながら、「心配いりません。きっと全てうまくいきます」と呟くように言うのだ。
そんなある日の夜だった。俺の部屋の窓がコツコツと小さく鳴った。何事かと目をやると、窓の向こうにぼんやりと何かの姿が見え、俺はそっと窓に近寄った。
「鳥……?」
そこには、この辺りでは見かけた事のないような、黒く闇に溶けてしまいそうな色の鳥がいた。
驚かせないよう窓を開けると、その鳥は、自らの足をくちばしで突ついたではないか。俺は、鳥の足に巻きつけられた何かに気づく。
「もしかしてそれを、俺に?」
鳥は小さく鳴く。肯定の意味だろうか。俺はそっと手を伸ばし鳥の足に触れるが、怒る様子はない。足のそれを解き、鳥の足から外し開いてみる。それは手紙のようだった。そこに書かれているのはどこか見覚えのある筆跡だった。
「母さん……」
昔の呼び方に戻ってしまうくらいに、その手紙は衝撃的だった。俺は手紙を読み終えると、すぐにろうそくの火をつけて燃やしてしまう。そうしないといけない内容だからだ。
俺は紙の切れ端に「分かった」とだけ書き、鳥の足に結びつけると、鳥は分かったというように小さく鳴き、すぐに飛び立っていった。
――
悲しみに打ちひしがれている女性の背後に、俺は立っている。
「どうしたの、あなたから来るなんて珍しいこと」
こちらに顔も向けず俺に語りかける凛とした通る声は、彼女の立場に相応しく、意志の強さを感じる。
「今ならまだ、何もなかった事にできます」
「……何のこと、かしら」
想定通りの答えが返ってくる。だが、揺らぐ声に、それが真実でない事は分かる。
「呪いを無理に解けば、その効果は呪った者に返ってくる」
「そう。だから?」
「お願いです。俺は……あなたを失いたくない」
「まあ、嬉しい」
椅子から立ち上がり、優雅に振り返る彼女は、大輪の薔薇が咲いたように美しい微笑みを見せる。
「でも、わたくしが本当に求めて欲しいのは、あの方にだけ。側にいられるだけで幸せと、そう言い聞かせてきた。けれど」
一瞬で、その表情は、冷たく変わる。憎くて憎くて仕方ないものを見るような瞳が、まっすぐ俺を貫く。
「あなたが戻ってきて、気づいたわ。自分の本当の気持ちに。でもそれは、この世では永遠に叶わない」
「……だからあの世へ連れて行くと?」
「わたくしもすぐに後を追うわ。そうすれば、あなたにも、あなたも母親にも手の届かない場所で、わたくしだけのあの方になる」
それが彼女の中での幸せの結論であり、揺るぎない正解なのだ。俺は、俺がどんな言葉を重ねようと、このひとの心を動かす事はできないのだろう。
「明日、全てが終わる。でも俺は、心の底からあなたに生きていて欲しい……そう思います」
俺は、深く頭を下げ、そして彼女の部屋を後にした。
そして、落ち着く暇もなく俺は父の様子を聞かされた。病状は落ち着いているものの、いつどうなるか予断を許さない状況だと。
俺は、無意識に言葉を紡いでいた。
「よかった」
発した言葉に、俺は驚く。
(俺は何と言った?よかった……だと?)
父を嫌悪していたはず。俺は。信じられない。平らだったはずの俺の足元がぐらつくような感覚に襲われる。
だが、そんな俺を支えるものなどない。何かに縋りたい気持ちを、俺は必死で心の奥に押し込むしかなかった。
そんな混乱の中、俺は父に呼ばれ、父の部屋でふたりきり顔を合わせる事になった。
久しぶりに会った父は、かなり痩せ細っていた。立ち尽くす俺を、父は何も言わずに抱きしめ、背中を何度も優しく撫でる。幼い頃、父とふたりきりになった時にだけ、父が俺にそうしていたのを思い出す。
「スクル……よく、よく帰ってきてくれた」
父の言葉は、俺の腹の底に、重く澱む澱のように積もっていく。
俺の手は、父の背を抱こうとし、すぐさま理性がそれを止め、手は彷徨う。
行き場をなくした手を、結局、父の肩に添え、そっと押した。
「……立ったままだと、体に障る」
「そう、だな」
威厳のある王の雰囲気は消え、そこにいるのは寂しげに微笑むひとりの男だけ。その姿に、俺の心はジクジクと痛む。
正直、そこから父とどんな会話をしたのか憶えていない。間近に迫る父の死に、俺の頭も心もぐちゃぐちゃになっていた。
――
父は段々と起き上がる事ができなくなり、ある日、とうとう目を覚まさなくなった。
窓を打つやまない雨は、悲しみに浸る暇もないたくさんの者の悲しみを代弁しているように見えた。
家族や城の者たちは気丈に振る舞い、これからやらなければならない事に追われている。それでも、彼らの表情には悲しみの影が落ちて見える。
だがその中に、母の姿だけはなかった。
「しばらく出かけてくる。心配しないで」
それだけ言い残し、俺が戻ってきた後にすぐ姿を消してしまったのだ。ずっと母の世話をしてきた侍女は、何もかも理解しているというような顔で、幼い頃からしてくれたように俺の背をさすりながら、「心配いりません。きっと全てうまくいきます」と呟くように言うのだ。
そんなある日の夜だった。俺の部屋の窓がコツコツと小さく鳴った。何事かと目をやると、窓の向こうにぼんやりと何かの姿が見え、俺はそっと窓に近寄った。
「鳥……?」
そこには、この辺りでは見かけた事のないような、黒く闇に溶けてしまいそうな色の鳥がいた。
驚かせないよう窓を開けると、その鳥は、自らの足をくちばしで突ついたではないか。俺は、鳥の足に巻きつけられた何かに気づく。
「もしかしてそれを、俺に?」
鳥は小さく鳴く。肯定の意味だろうか。俺はそっと手を伸ばし鳥の足に触れるが、怒る様子はない。足のそれを解き、鳥の足から外し開いてみる。それは手紙のようだった。そこに書かれているのはどこか見覚えのある筆跡だった。
「母さん……」
昔の呼び方に戻ってしまうくらいに、その手紙は衝撃的だった。俺は手紙を読み終えると、すぐにろうそくの火をつけて燃やしてしまう。そうしないといけない内容だからだ。
俺は紙の切れ端に「分かった」とだけ書き、鳥の足に結びつけると、鳥は分かったというように小さく鳴き、すぐに飛び立っていった。
――
悲しみに打ちひしがれている女性の背後に、俺は立っている。
「どうしたの、あなたから来るなんて珍しいこと」
こちらに顔も向けず俺に語りかける凛とした通る声は、彼女の立場に相応しく、意志の強さを感じる。
「今ならまだ、何もなかった事にできます」
「……何のこと、かしら」
想定通りの答えが返ってくる。だが、揺らぐ声に、それが真実でない事は分かる。
「呪いを無理に解けば、その効果は呪った者に返ってくる」
「そう。だから?」
「お願いです。俺は……あなたを失いたくない」
「まあ、嬉しい」
椅子から立ち上がり、優雅に振り返る彼女は、大輪の薔薇が咲いたように美しい微笑みを見せる。
「でも、わたくしが本当に求めて欲しいのは、あの方にだけ。側にいられるだけで幸せと、そう言い聞かせてきた。けれど」
一瞬で、その表情は、冷たく変わる。憎くて憎くて仕方ないものを見るような瞳が、まっすぐ俺を貫く。
「あなたが戻ってきて、気づいたわ。自分の本当の気持ちに。でもそれは、この世では永遠に叶わない」
「……だからあの世へ連れて行くと?」
「わたくしもすぐに後を追うわ。そうすれば、あなたにも、あなたも母親にも手の届かない場所で、わたくしだけのあの方になる」
それが彼女の中での幸せの結論であり、揺るぎない正解なのだ。俺は、俺がどんな言葉を重ねようと、このひとの心を動かす事はできないのだろう。
「明日、全てが終わる。でも俺は、心の底からあなたに生きていて欲しい……そう思います」
俺は、深く頭を下げ、そして彼女の部屋を後にした。
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