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第5章
第7話 ナナソ草奪還大作戦
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「よし、手順はこうだ」
鎧の大男が、拾った木の棒でガリガリと地面に下手糞な絵を描いていく。
「まず俺が巣穴に近付いてベムドラゴンの気を引く。で、俺がドラゴンを足止めしている内にカリナとセラでナナソ草と荷物を取り返す。荷物は一旦地面に投げ捨ててその後降りてから回収しよう。カバンの中にロープがあるからそれを使って降りれば多少安全に降りれるはずだ」
「あ……。それなら、私がセラさんを抱えて降ります。多分その方が早いです」
「え?そんなことできるの?」
「はい、一応、獣人ですので……」
むん。と口を堅く閉じ気概を露にする。確かに獣人は人間に比べて並外れた身体能力を備えている事は既知であったが、カリナにはそれを期待していなかったので嬉しい誤算であった。
自分より遥かに小さい少女に抱きかかえられて崖から降りる旨を伝えられ不安そうにするセラであったが、カリナの珍しく自信ありげな表情から察するに問題は無さそうだ。
「だったらそれで頼むよ。崖から降りて荷物を回収したら俺のカバンの中にある笛を吹いてくれ。それを合図に二人を抱えて逃げるから」
先程から地面に作戦の手順を絵で表しているのだろうが、下手過ぎて何が何だかさっぱり分からない。本人も自覚があるのか途中で描くのを止め足で雑に消した。
「大丈夫なんですか?相手はあのベムドラゴンですよ?」
「分からない。最悪、殺めてしまう可能性もある。手加減して簡単に抑え込めるような相手じゃないからね。無駄な殺生はしたくないけど、今回ばかりは仕方ないさ。なるべく殺さないようにはしてみるよ」
「そ、そうですか……」
敗北の欠片も窺えないその返答に胸を撫で下ろすも、少し複雑な想いのセラ。
ともあれ、作戦は決行に移された。
まず、ジルがセラとカリナを抱きかかえ軽快に崖を登ると、巣穴から死角になっている岩陰に二人を降ろし巣穴の様子を窺う。巣穴も岩陰に隠れてしまっており見えるのはドラゴンの太く短い尻尾だけだが、巣穴に居るのは間違いないようだ。
「……それじゃあ俺が先に行ってくるから、二人は俺とベムドラゴンがこの場を離れてから巣穴に向かってくれ。もし身の危険を感じたらすぐに逃げるように。いいね?」
「「はい」」
意を決した従者の表情。しかし、二人とも微かに身体が震えている。何てことは無いんだ、そう言いたげにジルは笑声を漏らし、散歩に出向くかのように岩陰から足を踏み出した。
数歩進んだところで物音に気付いたドラゴンが尻尾を引っ込め、岩陰から顔を出す。そしてジルの姿を捉えた瞬間、ドラゴンの琥珀色の瞳は真っ赤に染まり放たれた咆哮は空を裂いた。
「ハハ……。凄いな……」
雑草を根こそぎ吹き飛ばし、小石は弾丸の如く飛んでいく。二度目の至近距離から受ける咆哮にジルも頬を引き攣らせた。
ベムドラゴンは鎧男に跳びかかり圧し潰そうとするが、ジルは躱すのではなく敢えて前に突っ込み、ドラゴンの腹の下を滑り抜け抱き着くように太い尻尾に腕を絡ませる。
「ふんんんっ!!」
力任せに崖の下へと巨体を投げ飛ばすと同時にジルも崖から飛び降りる。仰向けに落下するドラゴンの腹部へ足から突っ込むとそのまま地表へと叩き付けた。
衝撃で地面は抉れ、捲れ上がり、同時に怪龍のくぐもった声が漏れた。が、ベムドラゴンは怯むことなく尻尾を鞭のようにしならせジルの脇腹へ叩き込む。樹木を容易くへし折るその一撃はしかしジルに受け止められ、脇に抱えられた尾は再び怪力に振り回され背中から地面へ強かに叩き付けられた。
ベムドラゴンはすぐに身を翻し四つん這いの体勢でジルを睨める。吐く熱息は蒸気を帯び、身体中の筋肉が盛り上がる。どうやら、本格的に怒らせてしまったようだ。こうなってしまっては、ちょっとやそっとの事では落ち着かない。
「参ったな。手ぶらで来るんじゃなかったよ」
メイスを持ってこなかったことを今になって悔やむ。流石のジルもベムドラゴンの成龍を素手で相手取るのは些か骨が折れる。
『グゥアゥッ!!』
全体重を乗せ突進してくるドラゴン。体重差を理解しているのか、圧し潰してしまえば後は嬲るだけという知性的な闘い方。いや、ベムドラゴンにとってこれは戦いではなく狩りなのかもしれない。
人間を相手取った時の殺し方を熟知している。ジルの目にはそう映った。
しかしベムドラゴンにとって不運だったのは、今回の獲物はただの人間では無かったという点だろうか。
腰を低く落としたジルはそのままドラゴンの突進を正面から受け止めた。踏ん張りに地面がもたず削り取られジルの巨体は背中から堅い崖へ激突する。ドラゴンはそのまま圧し潰そうとさらに脚力を強めるがジルはそれ以上ピクリとも動かなかった。まるで山そのものを押しているような感覚に焦燥を露にするドラゴンの首に腕を回し、そのまま締め上げる。
「ふんぬっ!」
『ゴアァッ!?』
ジルの剛力にドラゴンの喉は完全に塞がれた。ベムドラゴンの鱗は非常に硬質だが、腹と喉だけは柔らかい。ジルはそれを狙い絞め落とす作戦に出たのだ。
『ブルルルゥ!』
口から泡を垂らしながら力任せに暴れるドラゴン。遂には翼を広げもがき出し、辺りに剃刀の如き旋風が巻き荒れる。完全に息を塞ぐよう、しかし首の骨を折らないよう絶妙な加減で締め付ける。
しかしそれ故か、ドラゴンの意識の全てを喉に集中させることは出来なかった。ベムドラゴンはその丸太のように太い腕を振り、かぎ爪でジルの足元の地面を抉り飛ばす。
「うっ!?」
バランスが崩れ首に回された腕の力が微かに弱まった隙を逃さなかった。ドラゴンは再び尾を振りジルの身体を弾き飛ばすと泡を撒き散らしながら後方に跳んだ。
再び睨み合う両者。一触即発のその空気を上方から眺めていた二人はヒトとドラゴンの一騎打ちに目を奪われてしまっていた。
「す、凄い……。ドラゴンと戦ってますよ……」
「で、ですね……」
セラもカリナも主人の豪勇に瞳を輝かせるが、ずっと見ているわけにもいかない。セラは短刀の柄にマメ一つ無い手を添えた。
「さ、さあ。カリナちゃん、今の内です。荷物を」
「あ……。そ、そうでしたね」
セラが先導し巣穴へと近付く。何かあった時にカリナを護れるよう右手は常にカリナの前に出していた。
「……あ!ありました!ありましたよカリナちゃ……」
岩陰から覗き込むと、枯れ葉の敷き詰められた巣穴の隅に置かれた袋が三つ。そして、その奥で何やら蠢く影が……。
『キュウ?』
蒼い瞳と琥珀色の瞳が交わる。セラの脚は凍り付いた。
「セラさん?」
不審に思いカリナも巣穴を覗き込む。その瞬間、身体の熱が全て奪い去られるような甲高い金切り声が山と森に響き渡った。至近距離でその『咆哮』を受けてしまった二人は背筋が伸び切りそのまま棒立ちになってしまう。意識はあるが身体中が小刻みに震え瞬きすら出来なくなってしまっていた。
そしてその『悲鳴』を聞いたジルは最悪の展開を理解する。
「まさか……っ!!」
刹那、ベムドラゴンの瞳に灼熱が灯る。最早ジルの事など眼中に無く、巣穴目掛けて勢い良く飛び立った。
「させるかっ!!」
ジルはすかさず尻尾を掴むがドラゴンは止まることなくそのまま巣穴の前へと着地してしまった。その眼下には、凍り付いた亜人の雌が二匹。
怒りに燃え狂ったドラゴンのかぎ爪が二人に襲い掛かった。
「……っ!!」
咄嗟にセラはカリナを抱きかかえドラゴンに掌を向ける。魔法を放とうとするも彼女の手の平から氷が放たれることは無かったが、二人がその凶刃に倒れることも無かった。済んでのところでジルがその身で受け止めていたのだ。
荒ぶるドラゴンの咆哮に混じり鎧を引っ掻く音が響く。
「二人とも、大丈夫かい?」
何とか緊張感の無い声で問うが、ジルももう余裕が無くなってきていた。このまま二人を庇いながらドラゴンを足止めしておくことはほぼ不可能に近い。こうなれば殺してしまうか、身体の一部を損傷させ強制的に動けなくするより他は無い。
「……赦せ」
目を抉るか腕を吹き飛ばすか。ジルは右手に力を籠め振り抜こうとした、その時だった。
「じ、ジル様……。こ、子供が……怪我を……」
背後から絞り出したようなセラの声が。
子供が居る。ジルも先程の悲鳴と目の前のドラゴンの焦り様から予想はしていたが、怪我までしている事は解らなかった。
『ゴアァァァ!!!』
「くっ……!」
ジルは殺意を解きドラゴンに掴みかかると、再び崖下へと投げ飛ばした。ドラゴンは空中ですぐに体勢を立て直し飛び上がってくるも、ジルが巣穴の状況を確認するには充分過ぎる猶予があった。
「これは……。酷いな」
巣穴の隅で蹲っていたのはカリナ程の大きさの子ドラゴン。
背中に大きな傷穴があり、致命傷は避けているようだが傷口からはゆっくりと血が流れ出ている。周囲に折れた矢が三本転がっているが恐らくはアレが刺さっていたのだろう。
先程の咆哮で力を使い果たしたのか子ドラゴンは呻き声も上げずぐったりしていた。そしてその周辺には唾液の混じったナナソ草が散乱しており、中には齧ったような跡もある。
ジルは何故ベムドラゴンが自分達を襲ってきたのかを理解した。それは勿論不審者から傷付いた子を守る意味もあったのだろうが、それともう一つ。恐らくは人間が採ったナナソ草を奪い取り子の傷を治そうとしたのだろう。
矢を抜いたは良いが血が止まらずナナソ草で止めようとしたのか。だが、残念ながらナナソ草は調合されてはおらず、何とか自分で磨り潰そうとしたが上手くいかなかった。と言ったところか。
「……セラ!俺の荷物の中に小さな鍋がある。それを使ってナナソ草をすり潰してくれ!」
「え?え?」
「急げ!もうドラゴンを無傷で止められるのも限界に近い!」
そう叫ぶ男の頭上に影が落ちてくる。ジルは身を翻し躱すと先程自分がやられたのと同じようにドラゴンの足場を蹴って崩し、バランスを崩したドラゴンは崖を滑り落ちていく。何とかまた時間は稼いだが最早自分達が立っていられる足場も少ない。あと一度か二度耐えられるかどうか。しかし、その考えは杞憂に終わる。
「ジル様!で、出来ました!道中拾った粘性のある薬草と混ぜてあります!」
「お!流石!!」
これもエルフのなせる技なのか、セラは流れるような動作で必要な材料を鍋に入れ傍に落ちていた石で磨り潰し、簡易的にではあるがナナソ草の調合を終えていた。
鍋を受け取り匂いを嗅ぐとナナソ草特有の酸味のある香りが強く漂う。時間が足りず多少荒い出来だがこれならば、とジルは親ドラゴンを待ち構えた。それはリスクの高い賭けであったが、しかしベムドラゴンがこのナナソ草の特性を理解しているという事実に加え、行動原理が子ドラゴンの為であると考えれば勝算も全くのゼロというわけではない。
『オオオオオオ!!!』
ジルは敢えてドラゴンに圧し潰された。背後で従者二人が目を覆うのを余所にジルは右手に持った鍋をドラゴンの鼻先に押し当てる。すると、ドラゴンは妙な唸り声を上げながら身体を反らし立ち上がると鼻にこびりついたナナソ草の塗り薬を両手で必死に取り除いている。最初は死に物狂いだったが次第にその動きは緩慢になり、気付けば手に着いた軟膏をしきりに嗅いでいた。
(……よし)
賭けは成功であった。ジルは敵意が無い事を示すように鎧を解除し顔を晒すと、ドラゴンの目と鼻の先に座り込み手に持った鍋を差し出した。
ベムドラゴンは賢い生き物だ。ほんの少しでも冷静を取り戻した今ならこの行動の意味を解ってくれる筈と踏んだジルの読みは的中した。
『フルルル……』
「そうだ、これがあればお前の子を救えるんだ」
鍋の臭いを嗅いできた親ドラゴンにジルが優しく告げる。そしてとどめと言わんばかりにジルは素手で鼻頭にある角をゆっくり撫でてやると、親ドラゴンは静かにその場に伏せた。まだ息は荒く瞳に警戒色も残っているが一先ずは落ち着いてくれたようだ。
「これを、今から作って、お前の子供の傷口に塗る。良いか?」
そのベムドラゴンが人語を解していたのかは分からない。が、ジルのジェスチャーと優しい声遣い、そして敵意の無い笑顔に親ドラゴンは小さく鼻息を漏らした。
「よしよし……。じゃあ、セラ。この親ドラゴンの前で薬草を調合してもらって良いかい?」
「え?えぇ!?だ、大丈夫、なんですかね……?」
「大丈夫。もうこいつに敵意は無いよ。きっと子供が狙われてると思ったのと、怪我した子供の為にナナソ草を横取りしようとして襲い掛かって来たんだろうね。流石にドラゴンには調合できなかったみたいだから俺達で怪我の治療をしてあげよう。このまま見捨てるのも忍びないからさ」
「そ、そういう事なら……」
セラは袋の中からナナソ草と他の材料を手に取りジルの斜め後ろに座ると、親ドラゴンが見守る中調合を始めた。急に静まり返った空間に石が鍋底を擦る音が響く。
「大した道具も無いので綺麗には作れませんが、効果はあると思います」
「うん、結構」
セラが調合を進めている間、ジルはカリナに巣穴に落ちていた三本の矢を持ってこさせた。そしてそれを親ドラゴンの目の前でへし折り、乱暴に崖下へ投げ捨てる。こうすることによって子ドラゴンを襲った人間に憤っていると理解させ、より一層警戒心を解いた。
そして、ジルはドラゴンの鼻先にある角を優しく撫で続ける。ベムドラゴンはここを撫でられるのが好きなのだ。
「カリナも撫でてみるかい?」
「いぅえ!?え、えっと……」
正直撫でてみたい気持ちはある。なんせあのベムドラゴンだ。カリナも好奇心が沸く。だが、先程迄の凶悪な姿を見た後だとどうしても恐怖心が勝ってしまう。結局カリナは触ることは無く、そうこうしている内にセラの調合が終わった。
「で、出来ました!!」
慌てていたのか緊張していたのか完成した軟膏を真っ先に親ドラゴンに見せる。すると、ドラゴンはのっそりと立ち上がり巣穴へと入っていった。ジルはそれを追い、セラとカリナも後に続く。
巣穴の中では親ドラゴンが子の頬を舐め、何度か小さく鳴き声を漏らした後に巣穴の奥に座ると『頼んだ』と言いたげな穏やかな視線を三人に送った。
セラは軟膏を手に掬うと先ずは傷口の周りからゆっくりと塗っていき、急激な痛みを生じさせないよう慎重に傷口を軟膏で埋めた。
「強い子ね……。もうちょっとだからね」
途中何度か身体を震わせたが、子ドラゴンは拒絶する事無く全ての傷穴に軟膏が塗られ終わるまで痛みに耐え切った。ジルはカバンの中からなるべく清潔な布を取り出し破くと接着剤代わりに軟膏を塗り付け傷口を覆った。
「これで良し。継続的な治療は必要になるだろうけど取り敢えずは大丈夫だ。あとはギルドに連絡して定期的に軟膏を塗ってもらえるようにするよ」
「おお……。良かったですね。ドラゴンちゃん……」
恐る恐るカリナが子ドラゴンの角を撫でると子ドラゴンは嬉しそうに喉を鳴らす。その様子を見て安心したのか、奥で見守っていた親ドラゴンは枯れ葉のベッドが吹き飛ぶほど大きな鼻息を噴き、その場に蹲ってしまった。
「多分、ずっとこの子を護ってきたせいで疲弊してたんだろう。もう大丈夫だからな」
言わんとしている事は解ったのか親ドラゴンは小さく鳴いて返事をした。
「それにしてもこの子、一体何があったんですかね……。こんなに深い傷を負って……」
優しく角を撫で続けるカリナが痛々しい表情を浮かべ呟く。そこにはもうドラゴンに対する恐怖は無く、小さな動物を愛でる少女の顔になっていた。
「きっと密猟者に襲われたんだろう。ベムドラゴンは今となっては希少な存在で肉や皮、そして特に角はかなりの額で取引されているからね。何時からか人間がその価値に気付いてからというもの、彼らは常に人間に襲われ続けて来たんだ。親の身体にある傷も、きっと過去に襲われて付けられたものなんだろう」
「……」
その話を受けてか、セラは自分の籠の中からいくつかの薬草を取り出し調合を始めた。狭い巣穴に響く石と鉄が擦れ合う音。しばらくその様子を窺っていた一同であったが、それが何であるのかジルは大体理解していたようでカバンの中から水筒を取り出しセラに渡した。
「水が入っていた方が飲みやすいと思って」
「あ!まさにその通りです!ありがとうございます!」
いくつかの薬草が擦り合わさった鍋の中に水を入れ手で数回掻き混ぜると、セラは両手で鍋を抱えたまま蹲る親ドラゴンの前へ膝を突いた。
「これ、滋養強壮の効果がある薬草を調合したものです。少し苦いですが良ければ……」
エルフの暖かい笑みを前に、親ドラゴンは黙って口を開いた。セラは「では、失礼して」と鍋の中身を口の中に流し込む。特に苦しむ様子も無くそれを飲み干すとのそりと立ち上がりセラの頬を柔らかい舌で優しく舐めた。
くすぐったそうに、しかし嬉しそうに微笑むセラ。その背後で沸々と湧き上がる嫉妬心を必死に抑え込んでいる悪魔が居たことは幸いにも二匹には勘付かれなかった。
親ドラゴンは子の横に座ると随分と楽そうになった子の顔をしきりに舐めた。取り敢えず、一段落したようだ。
「……良いもんだな、親子ってのは……。さ、随分と時間を食ってしまった。俺達はそろそろ帰ろうか」
「そうですね。カリナちゃん、行きますよ~」
「あ……。はい……」
名残惜しそうに子ドラゴンの角から手を離し、カリナは二人の後を追う。巣穴から出ていざ崖から降りようとした際、後ろから呼び止めるような鳴き声が飛んできた。
何事かと一同が振り返ると、親ドラゴンが何かを口に咥えてこちらに近付いてくる。それはベムドラゴンの鼻先にある角であり、それをセラに差し出してきたのだ。
「え?これ、私に……?」
セラが両手を差し出すと、親ドラゴンは咥えていた角をポトリと落とし満足げに鼻息を漏らした。
「……驚いたな。多分、こいつなりにお礼がしたいんだろうけど、まさかそんなお宝とは……。多分それ、仲間のか、若しくは今は亡き旦那の物かもね」
「そんな!そんな大事な物頂けません!」
返そうにも親ドラゴンは口を開かず穏やかな瞳でセラを見詰めている。
「もらっときなよ。こいつなりの精一杯のお礼なんだろう。それを無碍にする方が失礼ってもんだ」
「それなら……。分かりました!ベムドラゴンさん、ありがとうございます!」
静かに頭を下げるセラ。その隣ではカリナが羨ましそうに指を咥えていた。ジルは荷物と従者二人を抱え降りようとする間際、ベムドラゴンの方を向き「また遊ぼうぜ」と一言残すと崖から飛び降りて行った。カリナとセラの悲鳴に混じり、ドラゴンの力強い吐息が聞こえたような気がした。
―――――
「……いやぁ。それにしても、大変なクエストでしたね~……」
どっと疲れが出たのか、崖下でジルに降ろされたセラがその場に座り込む。今更ながら脚が笑い出したようだ。それはカリナも同様でセラの肩に掴まり生まれたての小鹿のように足を震わせている。
「はは、ちょっと休んで行こうか。二人ともお疲れ様」
「どうなる事かとひやひやしました」
「死ぬかと思いました……」
ジルも二人の前に座り、カバンの中から弁当を取り出す。散々振り回されたせいで中身はぐちゃぐちゃだが食べられないわけではない。ここで少し休憩してから森を抜けよう。そう思い少し遅めの昼食を取ることにした。
「でも、何だかんだ楽しかったです。ベムドラゴンにも触ることが出来ましたし」
「私も、とても貴重な体験が出来て嬉しかったです。素敵な贈り物も貰えましたし……。それもこれもジル様のお陰です。ありがとうございます」
「いやいや。あまり頼りがいが無くて申し訳なかったね。俺がもう少ししっかりしてればこんなに怖がらせることも無かったんだろうけど……」
主人自ら水筒の水をカップに注ぐ姿を前にセラが慌てて代わる。ジルはそう言うが、あのベムドラゴンを素手で相手取っただけでも彼女達からすれば驚くべきことであった。
「暇があればまたここに来よう。あの親子とは良い友達になれそうだ」
「それ、良いですね……!是非そうしましょう……!」
カリナが耳と尻尾ではち切れんばかりの喜びを表現する。セラも両手を合わせ嬉しそうに微笑んだ。
「ドラゴンのお友達、とても素敵ですね」
「あぁ、そうだね……」
そしてジルは、ベムドラゴン親子の巣穴を見上げる。
刹那、彼は持っていたカップを地面に落とした。
「ジル様?何を……」
主人の紅い瞳が揺れている。セラもカリナもジルが見ている方へ視線を向けた。
その瞬間。
ベムドラゴンの首が目の前に落ちてきた。
鎧の大男が、拾った木の棒でガリガリと地面に下手糞な絵を描いていく。
「まず俺が巣穴に近付いてベムドラゴンの気を引く。で、俺がドラゴンを足止めしている内にカリナとセラでナナソ草と荷物を取り返す。荷物は一旦地面に投げ捨ててその後降りてから回収しよう。カバンの中にロープがあるからそれを使って降りれば多少安全に降りれるはずだ」
「あ……。それなら、私がセラさんを抱えて降ります。多分その方が早いです」
「え?そんなことできるの?」
「はい、一応、獣人ですので……」
むん。と口を堅く閉じ気概を露にする。確かに獣人は人間に比べて並外れた身体能力を備えている事は既知であったが、カリナにはそれを期待していなかったので嬉しい誤算であった。
自分より遥かに小さい少女に抱きかかえられて崖から降りる旨を伝えられ不安そうにするセラであったが、カリナの珍しく自信ありげな表情から察するに問題は無さそうだ。
「だったらそれで頼むよ。崖から降りて荷物を回収したら俺のカバンの中にある笛を吹いてくれ。それを合図に二人を抱えて逃げるから」
先程から地面に作戦の手順を絵で表しているのだろうが、下手過ぎて何が何だかさっぱり分からない。本人も自覚があるのか途中で描くのを止め足で雑に消した。
「大丈夫なんですか?相手はあのベムドラゴンですよ?」
「分からない。最悪、殺めてしまう可能性もある。手加減して簡単に抑え込めるような相手じゃないからね。無駄な殺生はしたくないけど、今回ばかりは仕方ないさ。なるべく殺さないようにはしてみるよ」
「そ、そうですか……」
敗北の欠片も窺えないその返答に胸を撫で下ろすも、少し複雑な想いのセラ。
ともあれ、作戦は決行に移された。
まず、ジルがセラとカリナを抱きかかえ軽快に崖を登ると、巣穴から死角になっている岩陰に二人を降ろし巣穴の様子を窺う。巣穴も岩陰に隠れてしまっており見えるのはドラゴンの太く短い尻尾だけだが、巣穴に居るのは間違いないようだ。
「……それじゃあ俺が先に行ってくるから、二人は俺とベムドラゴンがこの場を離れてから巣穴に向かってくれ。もし身の危険を感じたらすぐに逃げるように。いいね?」
「「はい」」
意を決した従者の表情。しかし、二人とも微かに身体が震えている。何てことは無いんだ、そう言いたげにジルは笑声を漏らし、散歩に出向くかのように岩陰から足を踏み出した。
数歩進んだところで物音に気付いたドラゴンが尻尾を引っ込め、岩陰から顔を出す。そしてジルの姿を捉えた瞬間、ドラゴンの琥珀色の瞳は真っ赤に染まり放たれた咆哮は空を裂いた。
「ハハ……。凄いな……」
雑草を根こそぎ吹き飛ばし、小石は弾丸の如く飛んでいく。二度目の至近距離から受ける咆哮にジルも頬を引き攣らせた。
ベムドラゴンは鎧男に跳びかかり圧し潰そうとするが、ジルは躱すのではなく敢えて前に突っ込み、ドラゴンの腹の下を滑り抜け抱き着くように太い尻尾に腕を絡ませる。
「ふんんんっ!!」
力任せに崖の下へと巨体を投げ飛ばすと同時にジルも崖から飛び降りる。仰向けに落下するドラゴンの腹部へ足から突っ込むとそのまま地表へと叩き付けた。
衝撃で地面は抉れ、捲れ上がり、同時に怪龍のくぐもった声が漏れた。が、ベムドラゴンは怯むことなく尻尾を鞭のようにしならせジルの脇腹へ叩き込む。樹木を容易くへし折るその一撃はしかしジルに受け止められ、脇に抱えられた尾は再び怪力に振り回され背中から地面へ強かに叩き付けられた。
ベムドラゴンはすぐに身を翻し四つん這いの体勢でジルを睨める。吐く熱息は蒸気を帯び、身体中の筋肉が盛り上がる。どうやら、本格的に怒らせてしまったようだ。こうなってしまっては、ちょっとやそっとの事では落ち着かない。
「参ったな。手ぶらで来るんじゃなかったよ」
メイスを持ってこなかったことを今になって悔やむ。流石のジルもベムドラゴンの成龍を素手で相手取るのは些か骨が折れる。
『グゥアゥッ!!』
全体重を乗せ突進してくるドラゴン。体重差を理解しているのか、圧し潰してしまえば後は嬲るだけという知性的な闘い方。いや、ベムドラゴンにとってこれは戦いではなく狩りなのかもしれない。
人間を相手取った時の殺し方を熟知している。ジルの目にはそう映った。
しかしベムドラゴンにとって不運だったのは、今回の獲物はただの人間では無かったという点だろうか。
腰を低く落としたジルはそのままドラゴンの突進を正面から受け止めた。踏ん張りに地面がもたず削り取られジルの巨体は背中から堅い崖へ激突する。ドラゴンはそのまま圧し潰そうとさらに脚力を強めるがジルはそれ以上ピクリとも動かなかった。まるで山そのものを押しているような感覚に焦燥を露にするドラゴンの首に腕を回し、そのまま締め上げる。
「ふんぬっ!」
『ゴアァッ!?』
ジルの剛力にドラゴンの喉は完全に塞がれた。ベムドラゴンの鱗は非常に硬質だが、腹と喉だけは柔らかい。ジルはそれを狙い絞め落とす作戦に出たのだ。
『ブルルルゥ!』
口から泡を垂らしながら力任せに暴れるドラゴン。遂には翼を広げもがき出し、辺りに剃刀の如き旋風が巻き荒れる。完全に息を塞ぐよう、しかし首の骨を折らないよう絶妙な加減で締め付ける。
しかしそれ故か、ドラゴンの意識の全てを喉に集中させることは出来なかった。ベムドラゴンはその丸太のように太い腕を振り、かぎ爪でジルの足元の地面を抉り飛ばす。
「うっ!?」
バランスが崩れ首に回された腕の力が微かに弱まった隙を逃さなかった。ドラゴンは再び尾を振りジルの身体を弾き飛ばすと泡を撒き散らしながら後方に跳んだ。
再び睨み合う両者。一触即発のその空気を上方から眺めていた二人はヒトとドラゴンの一騎打ちに目を奪われてしまっていた。
「す、凄い……。ドラゴンと戦ってますよ……」
「で、ですね……」
セラもカリナも主人の豪勇に瞳を輝かせるが、ずっと見ているわけにもいかない。セラは短刀の柄にマメ一つ無い手を添えた。
「さ、さあ。カリナちゃん、今の内です。荷物を」
「あ……。そ、そうでしたね」
セラが先導し巣穴へと近付く。何かあった時にカリナを護れるよう右手は常にカリナの前に出していた。
「……あ!ありました!ありましたよカリナちゃ……」
岩陰から覗き込むと、枯れ葉の敷き詰められた巣穴の隅に置かれた袋が三つ。そして、その奥で何やら蠢く影が……。
『キュウ?』
蒼い瞳と琥珀色の瞳が交わる。セラの脚は凍り付いた。
「セラさん?」
不審に思いカリナも巣穴を覗き込む。その瞬間、身体の熱が全て奪い去られるような甲高い金切り声が山と森に響き渡った。至近距離でその『咆哮』を受けてしまった二人は背筋が伸び切りそのまま棒立ちになってしまう。意識はあるが身体中が小刻みに震え瞬きすら出来なくなってしまっていた。
そしてその『悲鳴』を聞いたジルは最悪の展開を理解する。
「まさか……っ!!」
刹那、ベムドラゴンの瞳に灼熱が灯る。最早ジルの事など眼中に無く、巣穴目掛けて勢い良く飛び立った。
「させるかっ!!」
ジルはすかさず尻尾を掴むがドラゴンは止まることなくそのまま巣穴の前へと着地してしまった。その眼下には、凍り付いた亜人の雌が二匹。
怒りに燃え狂ったドラゴンのかぎ爪が二人に襲い掛かった。
「……っ!!」
咄嗟にセラはカリナを抱きかかえドラゴンに掌を向ける。魔法を放とうとするも彼女の手の平から氷が放たれることは無かったが、二人がその凶刃に倒れることも無かった。済んでのところでジルがその身で受け止めていたのだ。
荒ぶるドラゴンの咆哮に混じり鎧を引っ掻く音が響く。
「二人とも、大丈夫かい?」
何とか緊張感の無い声で問うが、ジルももう余裕が無くなってきていた。このまま二人を庇いながらドラゴンを足止めしておくことはほぼ不可能に近い。こうなれば殺してしまうか、身体の一部を損傷させ強制的に動けなくするより他は無い。
「……赦せ」
目を抉るか腕を吹き飛ばすか。ジルは右手に力を籠め振り抜こうとした、その時だった。
「じ、ジル様……。こ、子供が……怪我を……」
背後から絞り出したようなセラの声が。
子供が居る。ジルも先程の悲鳴と目の前のドラゴンの焦り様から予想はしていたが、怪我までしている事は解らなかった。
『ゴアァァァ!!!』
「くっ……!」
ジルは殺意を解きドラゴンに掴みかかると、再び崖下へと投げ飛ばした。ドラゴンは空中ですぐに体勢を立て直し飛び上がってくるも、ジルが巣穴の状況を確認するには充分過ぎる猶予があった。
「これは……。酷いな」
巣穴の隅で蹲っていたのはカリナ程の大きさの子ドラゴン。
背中に大きな傷穴があり、致命傷は避けているようだが傷口からはゆっくりと血が流れ出ている。周囲に折れた矢が三本転がっているが恐らくはアレが刺さっていたのだろう。
先程の咆哮で力を使い果たしたのか子ドラゴンは呻き声も上げずぐったりしていた。そしてその周辺には唾液の混じったナナソ草が散乱しており、中には齧ったような跡もある。
ジルは何故ベムドラゴンが自分達を襲ってきたのかを理解した。それは勿論不審者から傷付いた子を守る意味もあったのだろうが、それともう一つ。恐らくは人間が採ったナナソ草を奪い取り子の傷を治そうとしたのだろう。
矢を抜いたは良いが血が止まらずナナソ草で止めようとしたのか。だが、残念ながらナナソ草は調合されてはおらず、何とか自分で磨り潰そうとしたが上手くいかなかった。と言ったところか。
「……セラ!俺の荷物の中に小さな鍋がある。それを使ってナナソ草をすり潰してくれ!」
「え?え?」
「急げ!もうドラゴンを無傷で止められるのも限界に近い!」
そう叫ぶ男の頭上に影が落ちてくる。ジルは身を翻し躱すと先程自分がやられたのと同じようにドラゴンの足場を蹴って崩し、バランスを崩したドラゴンは崖を滑り落ちていく。何とかまた時間は稼いだが最早自分達が立っていられる足場も少ない。あと一度か二度耐えられるかどうか。しかし、その考えは杞憂に終わる。
「ジル様!で、出来ました!道中拾った粘性のある薬草と混ぜてあります!」
「お!流石!!」
これもエルフのなせる技なのか、セラは流れるような動作で必要な材料を鍋に入れ傍に落ちていた石で磨り潰し、簡易的にではあるがナナソ草の調合を終えていた。
鍋を受け取り匂いを嗅ぐとナナソ草特有の酸味のある香りが強く漂う。時間が足りず多少荒い出来だがこれならば、とジルは親ドラゴンを待ち構えた。それはリスクの高い賭けであったが、しかしベムドラゴンがこのナナソ草の特性を理解しているという事実に加え、行動原理が子ドラゴンの為であると考えれば勝算も全くのゼロというわけではない。
『オオオオオオ!!!』
ジルは敢えてドラゴンに圧し潰された。背後で従者二人が目を覆うのを余所にジルは右手に持った鍋をドラゴンの鼻先に押し当てる。すると、ドラゴンは妙な唸り声を上げながら身体を反らし立ち上がると鼻にこびりついたナナソ草の塗り薬を両手で必死に取り除いている。最初は死に物狂いだったが次第にその動きは緩慢になり、気付けば手に着いた軟膏をしきりに嗅いでいた。
(……よし)
賭けは成功であった。ジルは敵意が無い事を示すように鎧を解除し顔を晒すと、ドラゴンの目と鼻の先に座り込み手に持った鍋を差し出した。
ベムドラゴンは賢い生き物だ。ほんの少しでも冷静を取り戻した今ならこの行動の意味を解ってくれる筈と踏んだジルの読みは的中した。
『フルルル……』
「そうだ、これがあればお前の子を救えるんだ」
鍋の臭いを嗅いできた親ドラゴンにジルが優しく告げる。そしてとどめと言わんばかりにジルは素手で鼻頭にある角をゆっくり撫でてやると、親ドラゴンは静かにその場に伏せた。まだ息は荒く瞳に警戒色も残っているが一先ずは落ち着いてくれたようだ。
「これを、今から作って、お前の子供の傷口に塗る。良いか?」
そのベムドラゴンが人語を解していたのかは分からない。が、ジルのジェスチャーと優しい声遣い、そして敵意の無い笑顔に親ドラゴンは小さく鼻息を漏らした。
「よしよし……。じゃあ、セラ。この親ドラゴンの前で薬草を調合してもらって良いかい?」
「え?えぇ!?だ、大丈夫、なんですかね……?」
「大丈夫。もうこいつに敵意は無いよ。きっと子供が狙われてると思ったのと、怪我した子供の為にナナソ草を横取りしようとして襲い掛かって来たんだろうね。流石にドラゴンには調合できなかったみたいだから俺達で怪我の治療をしてあげよう。このまま見捨てるのも忍びないからさ」
「そ、そういう事なら……」
セラは袋の中からナナソ草と他の材料を手に取りジルの斜め後ろに座ると、親ドラゴンが見守る中調合を始めた。急に静まり返った空間に石が鍋底を擦る音が響く。
「大した道具も無いので綺麗には作れませんが、効果はあると思います」
「うん、結構」
セラが調合を進めている間、ジルはカリナに巣穴に落ちていた三本の矢を持ってこさせた。そしてそれを親ドラゴンの目の前でへし折り、乱暴に崖下へ投げ捨てる。こうすることによって子ドラゴンを襲った人間に憤っていると理解させ、より一層警戒心を解いた。
そして、ジルはドラゴンの鼻先にある角を優しく撫で続ける。ベムドラゴンはここを撫でられるのが好きなのだ。
「カリナも撫でてみるかい?」
「いぅえ!?え、えっと……」
正直撫でてみたい気持ちはある。なんせあのベムドラゴンだ。カリナも好奇心が沸く。だが、先程迄の凶悪な姿を見た後だとどうしても恐怖心が勝ってしまう。結局カリナは触ることは無く、そうこうしている内にセラの調合が終わった。
「で、出来ました!!」
慌てていたのか緊張していたのか完成した軟膏を真っ先に親ドラゴンに見せる。すると、ドラゴンはのっそりと立ち上がり巣穴へと入っていった。ジルはそれを追い、セラとカリナも後に続く。
巣穴の中では親ドラゴンが子の頬を舐め、何度か小さく鳴き声を漏らした後に巣穴の奥に座ると『頼んだ』と言いたげな穏やかな視線を三人に送った。
セラは軟膏を手に掬うと先ずは傷口の周りからゆっくりと塗っていき、急激な痛みを生じさせないよう慎重に傷口を軟膏で埋めた。
「強い子ね……。もうちょっとだからね」
途中何度か身体を震わせたが、子ドラゴンは拒絶する事無く全ての傷穴に軟膏が塗られ終わるまで痛みに耐え切った。ジルはカバンの中からなるべく清潔な布を取り出し破くと接着剤代わりに軟膏を塗り付け傷口を覆った。
「これで良し。継続的な治療は必要になるだろうけど取り敢えずは大丈夫だ。あとはギルドに連絡して定期的に軟膏を塗ってもらえるようにするよ」
「おお……。良かったですね。ドラゴンちゃん……」
恐る恐るカリナが子ドラゴンの角を撫でると子ドラゴンは嬉しそうに喉を鳴らす。その様子を見て安心したのか、奥で見守っていた親ドラゴンは枯れ葉のベッドが吹き飛ぶほど大きな鼻息を噴き、その場に蹲ってしまった。
「多分、ずっとこの子を護ってきたせいで疲弊してたんだろう。もう大丈夫だからな」
言わんとしている事は解ったのか親ドラゴンは小さく鳴いて返事をした。
「それにしてもこの子、一体何があったんですかね……。こんなに深い傷を負って……」
優しく角を撫で続けるカリナが痛々しい表情を浮かべ呟く。そこにはもうドラゴンに対する恐怖は無く、小さな動物を愛でる少女の顔になっていた。
「きっと密猟者に襲われたんだろう。ベムドラゴンは今となっては希少な存在で肉や皮、そして特に角はかなりの額で取引されているからね。何時からか人間がその価値に気付いてからというもの、彼らは常に人間に襲われ続けて来たんだ。親の身体にある傷も、きっと過去に襲われて付けられたものなんだろう」
「……」
その話を受けてか、セラは自分の籠の中からいくつかの薬草を取り出し調合を始めた。狭い巣穴に響く石と鉄が擦れ合う音。しばらくその様子を窺っていた一同であったが、それが何であるのかジルは大体理解していたようでカバンの中から水筒を取り出しセラに渡した。
「水が入っていた方が飲みやすいと思って」
「あ!まさにその通りです!ありがとうございます!」
いくつかの薬草が擦り合わさった鍋の中に水を入れ手で数回掻き混ぜると、セラは両手で鍋を抱えたまま蹲る親ドラゴンの前へ膝を突いた。
「これ、滋養強壮の効果がある薬草を調合したものです。少し苦いですが良ければ……」
エルフの暖かい笑みを前に、親ドラゴンは黙って口を開いた。セラは「では、失礼して」と鍋の中身を口の中に流し込む。特に苦しむ様子も無くそれを飲み干すとのそりと立ち上がりセラの頬を柔らかい舌で優しく舐めた。
くすぐったそうに、しかし嬉しそうに微笑むセラ。その背後で沸々と湧き上がる嫉妬心を必死に抑え込んでいる悪魔が居たことは幸いにも二匹には勘付かれなかった。
親ドラゴンは子の横に座ると随分と楽そうになった子の顔をしきりに舐めた。取り敢えず、一段落したようだ。
「……良いもんだな、親子ってのは……。さ、随分と時間を食ってしまった。俺達はそろそろ帰ろうか」
「そうですね。カリナちゃん、行きますよ~」
「あ……。はい……」
名残惜しそうに子ドラゴンの角から手を離し、カリナは二人の後を追う。巣穴から出ていざ崖から降りようとした際、後ろから呼び止めるような鳴き声が飛んできた。
何事かと一同が振り返ると、親ドラゴンが何かを口に咥えてこちらに近付いてくる。それはベムドラゴンの鼻先にある角であり、それをセラに差し出してきたのだ。
「え?これ、私に……?」
セラが両手を差し出すと、親ドラゴンは咥えていた角をポトリと落とし満足げに鼻息を漏らした。
「……驚いたな。多分、こいつなりにお礼がしたいんだろうけど、まさかそんなお宝とは……。多分それ、仲間のか、若しくは今は亡き旦那の物かもね」
「そんな!そんな大事な物頂けません!」
返そうにも親ドラゴンは口を開かず穏やかな瞳でセラを見詰めている。
「もらっときなよ。こいつなりの精一杯のお礼なんだろう。それを無碍にする方が失礼ってもんだ」
「それなら……。分かりました!ベムドラゴンさん、ありがとうございます!」
静かに頭を下げるセラ。その隣ではカリナが羨ましそうに指を咥えていた。ジルは荷物と従者二人を抱え降りようとする間際、ベムドラゴンの方を向き「また遊ぼうぜ」と一言残すと崖から飛び降りて行った。カリナとセラの悲鳴に混じり、ドラゴンの力強い吐息が聞こえたような気がした。
―――――
「……いやぁ。それにしても、大変なクエストでしたね~……」
どっと疲れが出たのか、崖下でジルに降ろされたセラがその場に座り込む。今更ながら脚が笑い出したようだ。それはカリナも同様でセラの肩に掴まり生まれたての小鹿のように足を震わせている。
「はは、ちょっと休んで行こうか。二人ともお疲れ様」
「どうなる事かとひやひやしました」
「死ぬかと思いました……」
ジルも二人の前に座り、カバンの中から弁当を取り出す。散々振り回されたせいで中身はぐちゃぐちゃだが食べられないわけではない。ここで少し休憩してから森を抜けよう。そう思い少し遅めの昼食を取ることにした。
「でも、何だかんだ楽しかったです。ベムドラゴンにも触ることが出来ましたし」
「私も、とても貴重な体験が出来て嬉しかったです。素敵な贈り物も貰えましたし……。それもこれもジル様のお陰です。ありがとうございます」
「いやいや。あまり頼りがいが無くて申し訳なかったね。俺がもう少ししっかりしてればこんなに怖がらせることも無かったんだろうけど……」
主人自ら水筒の水をカップに注ぐ姿を前にセラが慌てて代わる。ジルはそう言うが、あのベムドラゴンを素手で相手取っただけでも彼女達からすれば驚くべきことであった。
「暇があればまたここに来よう。あの親子とは良い友達になれそうだ」
「それ、良いですね……!是非そうしましょう……!」
カリナが耳と尻尾ではち切れんばかりの喜びを表現する。セラも両手を合わせ嬉しそうに微笑んだ。
「ドラゴンのお友達、とても素敵ですね」
「あぁ、そうだね……」
そしてジルは、ベムドラゴン親子の巣穴を見上げる。
刹那、彼は持っていたカップを地面に落とした。
「ジル様?何を……」
主人の紅い瞳が揺れている。セラもカリナもジルが見ている方へ視線を向けた。
その瞬間。
ベムドラゴンの首が目の前に落ちてきた。
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