彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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変身⑬

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「……」

 彼の耳はほとんど働いておらず、目の前で行き交う非人道的な会話は、そこらの雑踏を聞くのと変わらない。思慮深くいることを放棄し、ひたすら男の背中を追いかけるだけであった彼も、居室に入った途端、目を丸くして尻込みせざるを得なかった。中央に鎮座するリクライニングチェアと、蜘蛛のように足が長い照明器具が配された殺風景な居室はやはり、ダイニングと同様に、作業に際して必要な物だけが置かれている様子だった。

「座ってくれるかな」

 男の背中を翼下とし注目を避けていた彼は、病院の受付に呼び出しを食らったかのような苦い顔をする。男は背後に張り付く彼の気配を察し、半身となって道を開けた。その道程は、きわめて歩きにくかった。勾配のついた道ではないし、経年劣化して凹凸ができたアスファルトとも違う。真っ平らなフローリングが足元に広がっているが、生まれたばかりの雌鹿のように足をふらつかせて前に進んだ。三半規管に障害があるような足取りが滑稽に見えたのだろう。男は薄ら笑いを浮かべて観察し、女性はリクライニングチェアの側で退屈そうに欠伸をした。この場に彼の心情と寄り添うような心根の持ち主はいなかった。

 眼前に迫ったリクライニングチェアに、多くの人間が横たわったのだろう。中央は少し窪んで、文目を縁取る外側に多くの波打った跡が残っている。それは苦難によって身体を蠕動させた後陣に対する忠告のようであった。

「どうぞ」

 女性はそんな感慨にも浸らせてくれない。彼にリクライニングチェアに身を預けることを注進し、出来るだけ早く施術を済ませたいという思いが左足の小刻みな足踏みから伝わってくる。

「原型は留めなくていいからな」

 気が滅入る男の言葉に後押しされて、彼はリクライニングチェアに腰掛けた。

「背もたれに身体を預けていいから、深く」

 上体をやおら倒していき、見慣れぬ部屋の天井を仰げば、照明器具に顔を覗き込まれた。冷ややかに胸が打つのを鼓動から感じ、彼の額に悪寒を含んだ汗が流れて落ちる。居ても立っても居られない。焦燥感とそれを宥めようとする理性が軋轢を起こすと、身体の末端に震えを催す。彼は拳を作り、握力で持って握り潰そうとしたが、偏った力は恐怖を雄弁に語り、本末転倒な所作となって女性の目の前に体現された。

「力を抜いて。麻酔もしっかりするから、痛みなんてないよ」

 やや冷笑ぎみに笑う女性の声掛けに彼は素直に従い、石のように固めた拳を徐に解いていく。そして、息を浅く少しずつ吐いていき、身体に対して弛緩するように訴える。だが、人間はきわめて複雑な作りをしている。個人の裁量で全てを制御下に置くことは、神の如き采配に違いなく、神秘に満ちた人体を戦時中という体裁に託けて、非人道的な実験に走るほどブラックボックスだ。念じるだけで思うがままに扱おうとすれば、必ず不備が出てくるものだ。

「は、い」

 返事の為に発した声は、青ざめた舌に合わせて吃音さながらにつっかえた。女性は容赦がない。不謹慎にもそれを笑い飛ばしながら、施術に必要な器具をリクライニングチェアの周囲に配置していく。
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