彼は、英雄とは呼ばれずに

トド

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特別編

特別編⑧ 『私は……』(前編)

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 私はよく頑張ったと思う。
 泳ぎに一度行った以外は、こうして宿の部屋で読書ばかりしていたのだから。
 
 ……そう。二週間も。宿から一歩も出ることもなく……。

「あっ、あの、マリア様……」
「……何も言わなくても結構です」
 朝一で、手紙の返事を運送ギルドに確認に行ったセレクト先生の申し訳無さそうな顔に、私は今朝もレーナス家から連絡がないことを理解した。

 この街に入る前にも手紙を今の実家であるレーナス家に当てて出した。更にナイムの街に入ってからも五回も手紙を書いて郵送したのだ。けれど、一向に返事は来ない。
 そもそも、レーナス家の領地内の街が滅ぼされてしまったというのに、まるで実家は動こうとはしていないように思える。これは、間違いなく誰かが意図的にその情報を握りつぶしているとしか考えられない。

(まぁ、誰かは考えるまでもないのですが……)
 マリアの脳裏に、自分のことを病的に嫌う義兄のルモンの顔が浮かび、彼女は音もなく嘆息する。

 マリアの義父であるジュダン=レーナスの考えとは異なり、母方の祖父の影響なのらしいが、兄のルモン=レーナスは貴族というものの生活が万全であってこそ領民に平和が訪れるという、貴族第一主義を取っている。
 父はもちろん――出過ぎたことをしている自覚はあるが――義妹である自分も、兄にその考えは逆だと、民の生活があって初めて貴族というものが成り立つのだと言っても聞こうとはしないのだ。
 そして彼は、いつか自分の地位をマリアに奪われるのではないかと危惧しているため、彼女に敵対している。

 そんなことはありえないのに、とマリアは思う。
 どう考えても、自分は政略結婚の道具としてレーナス家に買われた身だ。そう。元の実家が経済的困窮を理由に、娘である自分を養女に出したのだ。
 もちろん、この十年近くのレーナス家での待遇は破格と言ってもいいほどの暖かなものであったことは理解している。教養をしっかり身に着けさせてくれただけでなく、一部の領地を実際に経営させてもらえる令嬢など稀有な存在だ。
 だが飽くまでもそれは、政略結婚の際に付加価値をつけるための側面も含んでいる。

 ただ、マリア自身、貴族の家に生まれた女として政略結婚の道具にされることは仕方のないことだと理解している。
 貴族とは血が、血統が必要であり、さらに其れを維持していくためには世継ぎを残さねばならない。そのため、女である自分は望まぬ相手とでも契りを交わし、子を生み育てていくのだ。その未来は決して変わらないのだ。

 マリアは高い教養だけでなく、人並み外れた美貌を有していたため、安売りをされずにすんだだけにすぎない。そして、成人してしまった以上、もう間もなく誰か有力な貴族の子息に嫁がされる身なのだ。 
 きっと、レーナス家に戻ればすぐにでも縁談が結ばれることだろう。そうなれば、ゆくゆくは間違いなくレーナス家は兄のものになる。それなのに、どうして義兄が自分を目の敵にするのか分からない。
 義兄は野心家ではあるが、教養のある人だ。そんなことくらいは分かっているはずなのに。


「はぁ~。困りましたね。いつまでもこの宿に逗留し続ける訳にはいかないのですが……」
 屋敷を出る際に路銀はしっかり持ち出してきたが、それとて無限にあるわけではない。それに何より……。

「セレクト先生」
「はい、なんでしょうか?」
「流石に、私も我慢の限界です。いい加減、外に出たいです」
 マリアは素直な気持ちをセレクトにぶつける。

「ですが、マリア様……」
「ですがも何もありません! もう限界です! 本を読んで食事をして一日を過ごす毎日は飽き飽きです! それに、この宿の食事にも飽きました!」
 自分を狙う左右の瞳の色が異なる者達から身を守るためだとセレクトに言われて我慢していたが、人間である以上、我慢の限界というものはあるのだ。

「少しは体を動かさないと、鈍って仕方がありません! もう! 私の顔が目立つのなら、先生の魔法で姿を変えてくださればいいでしょうが!」
「ですから、それは無理なのです。目の変化を隠すのに<変貌>の魔法のリソースを全て使用しているので……」
「分かっています! 分かっていますけれど! 私だって若い娘です。退屈にもなりますし、息抜きがしたくもなるのです!」
 子供のようなことを言っているのは理解しているが、一人で部屋に軟禁され続けていては文句の一つも言いたくなる。
 もしも、メイがこの場にいてくれていればまた違ったのだろうが……。

「……分かりました。たしかに、マリア様の仰ることもごもっともです。どうにかしましょう」
 マリアが文句をひとしきり言ったところで、セレクトはそう言って折れた。折れてくれた。
 そして、マリアは久しぶりに自由な時間を手に入れることになったのだった。






 昼時を少し過ぎたころ。
 この料理店<パニヨン>で、マリアは至福の時間を味わっていた。

「うっ、うううっ……。美味しい。すごく美味しいです……」
 マリアはあまりの美味に目頭を抑える。その端からは、僅かだが光る液体が、涙が零れていた。

 米と卵を油で炒めたものに、旬のプリプリの岩牡蠣の身を加えた料理が、マリアの心を奪ったのだ。

 そう、こういう料理が食べたかったのだ!
 格式張った見た目が美しい料理ではなく、これでもかと言わんばかりの旨味が口いっぱいに広がる豪快な料理を求めていたのだ。
 一粒一粒の米が卵でコーティングされているのだろう。パラパラの食感が堪らない。そしてそこに岩牡蠣の洪水のような旨味の汁が、口内に官能的とさえ思えるほどの感動を与えてくれるのだ。
 しかも、できたての熱々をハフハフ言いながら食べる。
 行儀が悪いことは理解していても、スプーンを止めることができない。

「ふふふっ。その様子だと、気に入ってくれたみたいね、牡蠣チャーハン」
 マリアはこんな料理が食べたいと、漠然としたイメージをバルネアに伝えたのだが、彼女はその意を見事に汲んでくれて、最高の料理を作ってくれた。

「あの、マリアさん、お茶をここに置いておきますね」
「ええ。ありがとう」
 メルエーナがそう言って置いてくれた事に感謝を述べ、マリアは静かにお茶を口にする。
 口内が冷たいお茶で冷え、油を流してくれるのがすごく心地良い。
 そして、再び口に牡蠣チャーハンを運ぶと、もう一度口内に幸せが広がる。

 それからマリアは心ゆくまで料理を堪能し、全てを食べ終えると満足げに微笑んだ。

「バルネアさん、ごちそうさまでした。大げさではなく、生き返った気持ちです!」
「ふふっ、どういたしまして。マリアちゃんもこれからは遠慮なくうちのお店に食べに来てね」
「はい。そうさせて頂きます!」
 先日のレセリア湖に行く道中で食べたお弁当も美味しかったが、あの料理でもバルネアという料理人の実力の断片に過ぎなかったのだということを、マリアはようやく理解することができた。

「いい食べっぷりね。お貴族様って、こういう料理は食べないと思っていたわ」
 隣の席でお茶を飲んでいたイルリアが、関心とも呆れとも取れる感想を口にしたが、マリアはそんなことは気にしない。

「そんなわけないじゃない。貴族だろうとそうでなかろうと、同じ人間よ。美味しいものは誰が食べても美味しいし、食べたいと思うものよ」
 マリアは上機嫌にそう言って微笑み、

「そして、私は可愛いものも好きよ」
 そう宣言する。

「はいはい。分かっているわよ。セレクトさんに頼まれたときは本当かどうか悩んだけれど、平民の娘が大好きな可愛い雑貨を扱う店に案内してあげるわ」
「ふふっ、嬉しい」
 マリアは今日の遊びプランを考えてくれたイルリア達に感謝する。
 そして、もちろん、彼女達に頭を下げて護衛兼遊び相手を務めてくれるように頼んでくれたセレクト先生にも感謝する。

 そんなセレクトは、ジェノと何やら打ち合わせをしている。
 気にならないといえば嘘になるが、『今日は、思いっきり羽根を伸ばしてください』と言ってくれたので、マリアはその辺りのことはすべて任せることにした。

 そして、マリアはこの日、久しぶりに楽しい時間を過ごす事となったのだった。
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