彼は、英雄とは呼ばれずに

トド

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第四章 あの日憧れたあの人のように

④ 『赤い線』

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 ジェノはすぐにでも、新しくやって来た剣術の先生の実力を知りたいと思っていた。
 理由は単純で、先生が年若い女の人だったから。

 ジェノの認識の中では、剣術とは男のものという固定概念があった。
 ペントに昔、読み聞かせをして貰った騎士物語などでも、騎士は全て男の人だ。
 それなのに、自分の先生は女の人。

 その実力をジェノが懐疑的に捉えてしまうのは、一般常識と照らし合わせても仕方のないことだった。

「坊っちゃん。まずはリニア先生をお部屋にご案内致しましょう。二階に登ってすぐ右側の部屋をご用意しておりますので」
 けれど、ペントにそう言われてしまい、ジェノは渋々、ペントと一緒に部屋を案内することにせざるを得なかった。

「その、お部屋にご案内します」
 ジェノは考えられる限りの丁寧な言葉をリニアに掛け、踵を返すと今まで走ってきた行程を戻り、屋敷の裏口に向かおうとする。
 目の前に、屋敷に入るためのドアがあるにも関わらず。

「申し訳ありません、リニア先生。当家は少し複雑なことになっておりまして……。申し訳ありませんが、裏口にお回り下さい」
「ええ。それは構いませんが……」
 リニアはそう言ったものの、その声には困惑が感じられた。

 ジェノはその事で、ますますこの女の先生のことを疑わしく思ってしまう。

 あのデルク兄さんが、うちの事情を話していないはずはない。それなのに知らないということは、兄さんの説明をきっと聞いていなかったのだろう。

 少しだけ歩き、屋敷の裏口から中に入る。
 そして入ってすぐの階段を登り、目的の部屋に向かう。

「すごいお屋敷ですね」
 その言葉に顔を少し後ろに振り向けると、リニアは興味深そうにキョロキョロと辺りを見ている。
 やっぱりジェノには、この人が強い人にはとても見えない。

「ここです。先生の部屋は……」
 ジェノは階段を登ってすぐの部屋に案内をした。

 すると、リニアは「わぁー、すごいわ」と言って、部屋の中に入っていく。

 その子供じみた行動に、ジェノは小さくため息をつく。
 駄目だ。この人は全然、自分が理想とする先生ではない。

「生活に必要なものは一通りご用意しておりますが、何か不足しているものがありましたら、このペントにお言付け下さい」
「はい。ありがとうございます」

 部屋に入ってジェノがリニアの姿を確認すると、彼女はベッドの具合を手で確かめながら、満面の笑みを浮かべていた。
 ジェノは再び小さく息を吐く。

「ペンティシア!」
 不意に、ジェノ達の耳に、甲高い女性の声が聞こえてきた。
 その声に、ペントはリニアに一礼をして部屋を出る。それに、ジェノも続く。

「申し訳ありません、キュリア様。ペンティシア。ただいま参りました」
 ペントが、大理石の廊下の床に引かれた赤い線を超えて、ペントと同じ侍女服を纏った、三十代半ばくらいの痩せぎすな女性の前で跪く。

「何をやっているのですか、貴女は。私の命じた玄関の掃除がまだ終わってないではありませんか」
「いいえ、キュリア様。私は確かに掃除を終わらせました。そして、デルク様のお客様をお迎えに出るとお伝えしていたはずですが?」

 ペントはこの屋敷で一番長く働いている侍女であり、仕事を誰よりも分かっている。
 そんなペントが仕事を放り出すなどということはありえない。
 ジェノはその事をよく分かっている。

「ですが、玄関を確認してご覧なさい。お客様が来られた際の土が残っています。今回は突然のご来訪でしたが、いついかなる時も対応できるように、貴女は常に待機しておくべきなのです。
 私の命令は主の命令。ご子息の命令とどちらを優先させるべきかは、当然分かっておりますね?」
「……はい。申し訳ございませんでした。すぐに、掃除をいたします」
 ペントは深々と頭を下げて謝罪をし、ジェノと部屋を出てきたリニアに一礼をする。

「ペンティシア! 早くなさい!」
 キュリアはその一礼は不要とばかりに、ペントを怒鳴りつける。
 ペントは早足で玄関に向かう。

 ジェノはその理不尽な行いに、怒りの表情を顔に浮かべる。

「ジェノ様。何でしょうか、そのお顔は」
 キュリアはツカツカと赤い線のギリギリまで歩み寄ってきた。

「ペントは兄さんと僕の専属の侍女だよ。それなのに、この裏口から一番遠い玄関の掃除の担当にするなんて、酷すぎるよ!」
 ジェノも怒りを隠そうともせずに、赤い線のギリギリまで足を進めて、キュリアを睨む。

「随分と、態度が大きくなりましたね。つい何ヶ月か前までは、ペンティシアの後ろに隠れて震えていただけだったお方が」
「僕は、今までとは違う! お前たちになんか負けるもんか!」
 ジェノは震えてくる自分の体を懸命に制御し、大声で宣言する。

「威勢がいいのは結構ですが、ペンティシアの働き方は、私に一任されているのです。それは、ジェノ様がどうこう口出しできることではありません。
 私にご命令できるのは、ヒルデ様――貴方のお父上だけです。なにか言いたいことがありましたら、お父上に直接お言いになってはいかがでしょうか?」
 慇懃無礼この上ない口調でキュリアは言い、口元を抑えながら笑う。

「丁度いいことに、お父上様は書斎におられますよ。お話に行ってはいかがですか? まぁ、この赤い線を超えて入ってきた時点で、不法侵入で自警団に突き出させて頂きますが」
「……くっ……」
 ジェノは自分の無力さを理解し、両拳を強く握りしめながら顔を俯ける。

「そうそう。ジェノ様はそうやって下を向いているのが大変お似合いですよ。それでは、私も仕事がありますので、これで……」
 形だけの侍女の一礼をし、キュリアはジェノに背中を向けて歩いていく。

 ジェノは悔しさに体を震わせる。
 そして、そこでようやく自分に向けられている視線に気づいた。


「ジェノ。どういうことなの? 説明してくれるかな?」
 そちらに視線をやると、リニアが尋ねてきた。

 けれど、ジェノは怒りの感情を抑え込むのが精一杯で、

「先生、僕たちの家は、一階も二階も、この赤い線よりもこっち側だけなんです。だから、あの線より向こう側には決して行かないで下さい。……詳しい話は、夜に、ペントがしてくれるはずですから」

 端的にそう説明した。

「僕は、やることがあるから!」
 それだけ言うと、リニアに背中を向けて、ジェノは一階に向かって走り出す。

 ジェノは、剣を振りたくて仕方がなかった。

 少しでも早く、強くなりたい。
 違う、強くなるんだ!

 その思いを胸に、ジェノはいつものように木剣を振るうべく、裏庭に向かうのだった。
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