彼は、英雄とは呼ばれずに

トド

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第四章 あの日憧れたあの人のように

② 『手紙』

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 メルエーナとリアラの親子の不毛な言い争いが一段落したところで、ジェノが稽古から帰ってきた。
 彼はリアラが訪ねてきたことにもあまり驚きはせずに、「お久しぶりです」と慇懃に礼をして、社交辞令的な会話を少し交わしただけだった。

「すみませんが、汗をかいていますので」
 ジェノはそう言うと、頭を下げて、自分の部屋に戻って行こうとする。

「ジェノさん。お風呂を沸かしてありますので……」
「そうか。いつもすまない。感謝する」
 メルエーナの言葉に、ジェノは振り返って短く感謝の言葉を口にしたが、それ以上は何も言わずに部屋に戻って行った。

「メル。どうしてそこで、『お背中を流しましょうか?』って言えないのよ」
「言えるわけありません、そんな端ない事!」
 真っ赤になって母に抗議するメルエーナ。しかし、リアラは真剣な表情でメルエーナを見つめてくる。

「あのねぇ、メル。私の言っていることは、確かに少しだけ端ないかもしれないけれど、『私は、貴方に好意を持っています』という気持ちをまったく相手に伝えようとしないのは、清純派を気取った、ただの怠惰よ」
「……それは……」
 前半の、少しだけ、という言葉に納得は行かないが、後半の話はそのとおりだと、メルエーナも思ってしまう。

「何も、本当に背中を流さなくてもいいのよ。ジェノ君がもしも貴女の話に乗ってきたら、『もう、冗談ですよ。本気にしないで下さい』って言ってもいいの。
 ただ、その一言で、私は貴方を異性として見ていますよと伝えることができるわ。もちろん、やりすぎると誂われているだけだと思われるから、加減が必要だけどね」
 母のその指摘は、グサリとメルエーナの心に突き刺さった。

 メルエーナは常日頃、ジェノが自分のことを異性だと見てくれないと嘆いていた。けれど、母の言うとおり、自分はジェノの事を、男性として見ているという事をまるで伝えていなかったことに気付かされたのだ。

「メル。貴女がこの街に居られるのは、あと一年程だけ。それは長いようで短いわ。その間に、貴女はジェノの心を掴まなければいけない。そうしなければ、一生後悔するわ。
 だって、貴女からの手紙に、ジェノ君の近況が書かれていなかった事はないでしょう?
 それだけ貴女は、ジェノ君が好きなのよ」
 母に断言されて、メルエーナは気持ちを新たにする。

「お母さん、ありがとうございます」
「うん。分かればいいわ。ただ頭でこの事を理解するだけでは駄目。行動することが重要よ。
 だからまず、相手のことを、つまりはジェノ君の趣味嗜好を貴女はもっと理解する所から始めましょう。そこで、提案があるんだけど……」
 リアラは椅子から腰を上げ、メルエーナに顔を近づき耳打ちをする。

「えっ! いきなりそんな事を頼んだら、ジェノさんに引かれてしまいます!」
「大丈夫よ。その辺りは私がフォローするわ。いい? 男の子の心情を理解するには、この方法が一番なのよ。だから、勇気を出しなさい」
 リアラの説明を聞き、顔を真っ赤にしたメルエーナは、しかし力強く頷く。

 そして、母の訪問を歓迎する夕食を作っているバルネアを手伝い、その時を待つことにするのだった。







「俺の部屋を? 別に構わないが、理由を聞いてもいいか?」
 メルエーナが意を決し、食事中にジェノに彼の部屋を見せて欲しいと頼んだところ、当然の問が返ってきた。

「ああ、ごめんなさいね、ジェノ君。うちの娘は男の子に対する免疫がなくてね。親としては心配なのよ。そこで、まずは身近な男の子であるジェノ君の部屋を見せてもらって、男の子ってどういうものが好きなのかとかを学ばせたいのよ。申し訳ないけれど、協力してくれないかしら」
 リアラがそう援護をし、ジェノに頼み込む。

「……自分の部屋を見ても、あまり学べるものはないと思いますが、構いませんよ」
 予想外に、ジェノがあっさりと認めてくれた事に、メルエーナは驚く。

 先程の母との話では、男の子は部屋にあまり他人に見られたくないものを隠していることが一般的らしい。
 けれど、ジェノは全く動じた様子がない。

「ふふっ。良かったわね、メルちゃん」
 バルネアが優しい笑顔をメルエーナに向けてくれたので、「はい」とメルエーナは笑顔で返す。

「そう言えば、ジェノ君。娘から聞いたわよ。あと一週間で十八歳になるそうね」
「はい」
「ふふっ。これでジェノ君も大人の仲間入りね。大っぴらにお酒を飲んだりもできるようになるわね。でも、大人になったら、色々と大変なこともあるのよ。
 大人としての責任を負うことになる。それは、税金の増加のような事柄の他に、家庭を持って独り立ちすることも次第に求められるようになるわ」
 リアラはそこまで言うと、にっこり微笑んだ。

「ねぇ、ジェノ君。ジェノ君には気になる女性はいないの?」
「いません」
 ジェノは間髪をいれずに断言する。

 その事に、メルエーナは安堵するのと同時に寂しく思ってしまう。

「そう。まぁ、今はまだそれでもいいわね。ただ、ジェノ君は格好いいから、きっと女の子が放っておかないだろうけれど」
「……自分にはよく分かりません」
 ジェノが今度はなぜか少し間をおいて答えたことに、メルエーナは気づく。

「ジェノさん、その……」
 メルエーナがジェノに声をかけようとしたが、それよりも早くにジェノは静かに席を立つ。
 明らかに、これ以上この話を続けたくない様だ。

「ごちそうさまでした、バルネアさん。食器は俺が……」
「私がやっておくから大丈夫よ。それよりも、メルちゃんにお部屋を見せて上げるんでしょう? メルちゃんも食べ終わっているみたいだし、早速見せてあげたらどうかしら?」
 バルネアはそうジェノに提案し、こっそりメルエーナの方を向いて片目を瞑る。

「それは別に構いませんが。メルエーナ、それでいいか?」
「はっ、はい!」
 メルエーナはなんとかそう応えて、静かに席を立つ。

「あっ、私もいいわよね。男の子の部屋って興味あるのよね」
 リアラまでがそう言って席を立つと、「あら、それなら私も」とバルネアまでもが楽しそうに立ち上がる。

「全員で見るような部屋ではないと思いますが」
 ジェノは小さく嘆息し、部屋に向かって足を進め、その後を、メルエーナ達が付いていく。

 そして、メルエーナは初めてジェノの部屋に足を踏み入れるのだった。








「綺麗な部屋ね。……綺麗すぎるくらいに」
 リアラがそんな感想を口にした。
 少し失礼な感想だと思うが、メルエーナも同じ感想を胸に秘めていた。

 間取りはメルエーナの部屋と変わらない。
 窓が二箇所あり、そこにベッドと作業机と椅子とクローゼットが置かれているのも同じだ。
 差異は調度品の色が違うことくらいだろうか。

 塵一つ落ちていないフローリングの床。机の上も整理が行き届き、その上に本が数冊本立てに収納されているだけだ。
 ベッドもきちんと整えられており、本さえどこかに移動してしまえば、そのまま別の入居者が来ても全く問題がないと思えるような綺麗さだ。

 けれど、メルエーナはこの部屋を見て怪訝に思う。
 あまりにもこの部屋には、生活感がない。なさ過ぎるのだ。

「そっ、そうだ。ジェノ君はどんな本を読んでいるの?」
 あまりにも特筆することのない部屋に、話をするネタがなかったからだろう。リアラが、ジェノの机の上の本の背表紙を確認する。

 メルエーナもそれに倣うと、そこに置かれていた本は、料理の本と剣術の本だけだった。

「あれ、ジェノさん、何かがここに挟まっていますよ?」
 メルエーナは、背表紙が付いていない古ぼけた本の隙間から、何かの厚めの紙が出っ張っていることに気づく。

「触らないでくれ!」
 不意に、ジェノが声を上げた。
 それほど大きな声ではなかったが、全く喋っていなかったジェノが突然声を発したことで、メルエーナ達は驚く。

「……驚かせてすまない」
 ジェノは謝罪しながら机に近づくと、古ぼけた本を手に取り、そこから紙を、いや、便箋らしきものを取り出した。

「あっ……」
 メルエーナは、その便箋には、『親愛なるジェノへ』と書かれ、その封に、ハートマークのシールが使われていることに気づく。

「大事な手紙なんだ」
 ジェノはそう言うと、その便箋を机の引き出しに仕舞う。

「…………」
 メルエーナは何も言えなかった。
 ただ、心臓がバクバクと忙しなく鼓動を刻む。

 今の便箋に書かれていた宛名。ハートマークの封。そして、ジェノが大切な手紙だと言った。その事がグルグルと頭の中で回転し、メルエーナは何も考えられなくなってしまう。

「あらっ? もしかしてラブレターかしら? さっきは気になる女性は居ないと言っていたけれど、本命の彼女がいるの?」
 冗談めかして尋ねるリアラ。だが、その声は少し硬い。

 そしてリアラがそう尋ねたことで、一層メルエーナの心臓は早鐘のように鼓動し、胸が痛くなってくる。

「ジェノちゃん。私も気になるわね。話してくれないかしら?」
 バルネアもジェノに手紙の内容を話すように促す。

 二人がジェノに手紙の内容を話すように言っているのは、自分のことを気遣ってのことだとメルエーナは理解している。

 でも、怖い。怖くて仕方がなくて、耳を塞ぎたくなってしまう。
 もしも、ジェノさんに好きな人がいたらと思うと、苦しくて仕方がない。

 メルエーナは耳を塞ぎたくなる衝動をなんとか堪えて、ジェノが口を開くのを待った。

「これは、自分が幼い頃に大切な人に貰った手紙です。ただ、あと一週間は封を切るわけにはいかないので、つい声を荒げてしまいました。すみません」
 ジェノはそう説明してくれたので、メルエーナは、ほっと胸を撫で下ろす。

 けれど、一週間は封を切れない手紙というのはどういう事だろうか?
 安心すると、そんな疑問が湧いてくる。

「あと一週間? それって、ジェノ君の誕生日よね?」
「はい。この手紙は、自分の誕生日に封を切る約束になっているんです」
 ジェノの説明を聞いても、メルエーナ達はやはり意味がわからない。

「……ジェノちゃん。その話、詳しく聞きたいわ。普段、ジェノちゃんは自分のことを話してくれないから、すごく気になるの」
 バルネアがそう口火を切ると、リアラもそれに賛成する。

「そうね。私もすごく気になるわ。メル、貴女も気になるわよね?」
 更にはメルエーナにも同意を求めてくる。けれど、メルエーナも確かに気になるので、「はい」と頷いた。

「せっかくリアラさんが、遠くから来て下さったんだ。積もる話もあるんじゃあないのか?」
 ジェノがそう言っても、メルエーナ達はジェノの話が気になると異口同音に口にする。

 ジェノはそれでも話をしたくないようだったが、そこでパンッと、バルネアが両手を叩いた。

「すぐに片付けをしてしまうから、いつものテーブルで話をしてもらいましょう。私特製のとっておきのおつまみもあるから、楽しみにしてね」
 バルネアの中ではジェノが話をするのは決定事項のようで、そう宣言する。

「いや、バルネアさん。聞いても面白い話では……」
 ジェノはそう食い下がったが、バルネアはいたずらっぽく微笑む。

「あらあら、困ったわ。ジェノちゃんが話してくれないと、私とリアラ先輩とメルちゃんだけで話すことになるわ。でも、男の人と違って、女のお喋りって長くなるから、おつまみを食べる量も増えてしまいそうよ」
 バルネアのその言葉に、リアラも企みに気づいたようで、ニンマリと微笑んで口を開く。

「そうよね、バルネア。ついつい食が進んで、太ってしまうかも。それに、美容にも良くないわ。それに、嫁入り前のメルまでもそんな事になってしまったら、もうその一因を作ったジェノ君に責任を取ってもらうしかなくなるわよね」

「おっ、お母さん……」
 あまりにも理不尽な要求をする母に、メルエーナは困り、そっとジェノの方を見る。すると彼は、深いため息を付いて、こちらに視線を向けてくる。

「あっ、その……。すみません、私も気になります。ですので、話して下さると嬉しいです」
 メルエーナは申し訳なく思いながらも、素直な気持ちを口にする。

「……分かりました」
 結局、ジェノは降参し、後片付けが終わるとすぐに、彼の子供の頃の話を皆で聞くこととなったのだった。
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