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もう交わることのない二人の道に捧げられたもの
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誰の訪れもなかったヘンリーのもとにバイオリニストのアイザックがたずねてきたのは、そろそろ新年になろうかという時だった。
二人は何度か共演したことがあり、気が合うことから友人づきあいをしてきたという。
「よお。手を怪我してふて腐れてるかと思ってたが意外と元気そうじゃないか。酒の飲み過ぎで才能を台なしにしてるだろうから笑ってやろうと思ってたのになあ。
お前が怪我したおかげで次は自分の番だといきがってるピアニスト達が、お前が元気だと知ったらがっかりするだろうなあ。可哀想に」
アイザックはそのようにいうとニヤリと笑った。
隣国出身のアイザックは率直な物言いを好む隣国人らしい挨拶をした。
「こんな所まで来たのはお前が初めてだよ。物好きだな。落ちぶれた人間とかかわりたくないのが普通だろう」
「誰も見舞いにこないのは当たり前だ。お前がどれほど多くのピアニストを絶望におとしいれてきたと思ってる? 桁違いの才能をもっていて、とんでもない曲をつくるだけでなく、とんでもない音をだすんだ。
俺がピアニストだったら、ぜーったい見舞いになんてこないどころか、ざまあみろって高笑いしてるよ」
あっけらかんとそのようにいうアイザックにヘンリーも笑った。
「久しぶりに君のバイオリンを聴かせてくれよ」
「え――やだなあ。休暇をかねて見舞いにきたんだ。王都よりこっちの方が温暖で過ごしやすいし。新年を一緒に祝う家族もいないから羽をのばしにきたんだ。バイオリンなど見たくもないよ」
「そう言いながらしっかり滞在中に仕上げようと思ってる曲の楽譜が荷物の中にはいってるんだろう」
二人が楽しそうに言い合うのをみてエレノアは嬉しかった。ずっと一人でピアノの練習をしているヘンリーだ。気の置けない音楽仲間のアイザックの存在は貴重なはずだ。
ピアノとバイオリン。弾く楽器はちがっても同じ音楽家として心が通じ合っているようで、ヘンリーは心から楽しそうだった。
ヘンリーとアイザックが二人で笑い合い、アイザックの活動についてや音楽談義を真剣な顔つきでしている姿は新鮮だった。それはエレノアが初めて見るヘンリーの姿だった。
海辺の町を気に入ったアイザックは、当初二週間の滞在予定だったが一ヶ月滞在することにし、二人はそれぞれ練習の合間に音楽談義をしてと親交を深めていた。
そしてヘンリーとエレノアの散歩にアイザックが加わり、散歩の時間が一気ににぎやかになった。
ヘンリーとアイザックは年も近くアイザックの快活な性格もあり、アイザックと一緒にいるヘンリーは二十代の若者らしいはつらつさをみせるようになった。それはエレノアにはできないことだった。
そのことに寂しさを感じたが、ヘンリーが本来の自分を取り戻している証拠であり喜ぶべきことだと分かっていた。
ヘンリーの手はかなり動くようになったが、骨折した手首が以前ほど柔らかく繊細に動かないため、ヘンリーは手首の使い方を変えるための試行錯誤をしていた。
しかしその問題も近いうちに解決するだろう。子供がひく練習曲から動かしはじめたヘンリーの左手は、すでに難しい曲を弾きこなせるようになっている。
アイザックが来た当初はかたくなに彼と一緒に演奏するのを拒んでいたヘンリーだったが、彼のバイオリンの音を聞いているうちに一緒にひきたいという気持ちが上回ったのだろう。以前共演した時にひいた曲を一緒に演奏するようになった。
「お前だけ気持ちよくひきやがってむかつく」
ヘンリーはアイザックに文句をいいながら、左手がもたついた時は右手だけで演奏をつづけアイザックにくらいつく。
「まだまだだな。俺と共演するなど百年はやいわ」
アイザックに鼻で笑われ悔しそうにしながらもヘンリーは楽しそうだった。
アイザックはヘンリーがまだ自分に満足がいく音をだせないことを知りながら手加減することなく批評し、次までに出来るよう練習しろと傲慢に言い放つ。
しかしヘンリーはアイザックに腹を立てることなく「次は吠え面かかせてやる」と笑顔で応じる。
ヘンリーはもう思い通りに動かない左手に絶望していたヘンリーではない。出来なければ出来るようになるまでやるというピアニストとしての本来の姿を取り戻していた。
自分が思い描くような音がでなくともアイザックと一緒に演奏することを楽しみ、ヘンリーが奏でる音はピアノがひけることへの喜びにあふれていた。
上手くひくことや自分の思い通りにひくことよりも、ただピアノをひいていることが楽しいと音がはずんでいた。
「もう大丈夫」エレノアは自然とその言葉をつぶやいていた。
ヘンリーは完全に立直った。アイザックが来た時は上手くひけないからとアイザックと一緒にひくのを嫌がっていた。
しかしヘンリーは気付いた。アイザックと音を共鳴させることの楽しさ、そして自分がどれほど音楽を、ピアノを愛しているのかを。
純粋に美しい音を響かせることの心地よさを思い出したのだろう。何の迷いもなくピアノをひくヘンリーがいた。
ヘンリーはアイザックとの演奏でこれまでのわだかまりが吹っ切れたようで、自分が思うような音がだせないことに悪態をつくことはあっても落ち込むことはなくなった。
アイザックが海辺の町を去ったあと、ヘンリーは後援者として彼のピアノを支えつづけている公爵家に連絡をとった。ヘンリーの住んでいる海辺の家も公爵家が用意したものだということをエレノアは初めてしった。
連絡をうけた公爵夫人がヘンリーに会いにきた。そしてヘンリーの復帰演奏会の予定が組まれた。後援者を集めた少人数の演奏会が三ヶ月後にひらかれる。
演奏を聴いた公爵夫人が泣いたという話をヘンリーから聞きエレノアは胸がいっぱいになった。ヘンリーの才能を一番かってくれ、そして一番厳しい評価をしてきたのが公爵夫人だという。
その公爵夫人がヘンリーのピアノに涙した。ヘンリーの高揚した姿はまぶしかった。音楽の神に愛されたピアニストがそこにいた。
「ヘンリー、お別れする時がきたわ」
エレノアはヘンリーが王都へ戻ったあと、再婚し遠くの地へ行くことを伝えた。
ヘンリーは驚いた表情をしたまま何もいわなかった。
彼は再びピアニストとして多くの人に望まれる。もう彼にエレノアは必要ではない。傷をなめあう必要はなくなった。
最後にエレノアはヘンリーに「波の曲」を教えてほしいと頼んだ。彼のピアノに心酔することになった曲だ。
彼ほどの技量はないとはいえ譜面通りにひけるところまでエレノアは練習した。
エレノアは慎重に音をだす。所々間違った鍵盤をおしながらも波の曲をひきとおした。ひき終えるとヘンリーが泣いていた。
「泣くほどひどかった?」
エレノアはあわてた。しっかり譜面通りにひいた。いろいろと聞き苦しかっただろうが、泣くほどひどくはなかったはずだ。
ヘンリーが首をふりエレノアを抱きしめた。そしてエレノアの首筋に顔をうずめ泣きつづけた。
「あなたに再婚して欲しくないという権利は俺にはない。だけど――」
ヘンリーがエレノアのことを惜しんでくれる。それだけでエレノアは十分だった。
エレノアにとって元々ヘンリーは遠い存在だった。たまたま彼が弱っている時に寂しさにつけこみ親しくなっただけなのだ。
「あなたのピアノを世界中に響かせて。多くの人にあなたのピアノを届けて。遠くにいる私にも届くように」
ヘンリーは自分の練習の合間にエレノアに波の曲のレッスンをつけてくれた。これまで習ったことのない指や手首の使い方、感情をどのようにピアノにのせるのかといったことを教えてくれた。
ヘンリーが波の曲をどのような意味をこめて作曲したのかや、譜面からどのような感情をすくい取ってほしいのかといったことを教えてくれ、エレノアはただきれいな音をだすのではなく、自分の感情をのせてピアノをひくことに苦心した。
波の曲を自分らしくひくためエレノアはこれまでにないほどピアノの練習にはげんだ。
ヘンリーが復帰演奏会のために王都へ戻る前日、エレノアはヘンリーに波の曲を披露した。
ヘンリーが再び泣いた。
「演奏がひどかったとかいわないわよね? これまでの人生の中で一番練習したのよ。もしかして私の演奏に感動した?」
エレノアが冗談でいったところヘンリーが泣き顔でうなずいた。
「嘘でしょう? 冗談でいったんだけど」
「本当だ。あなたがこの曲にこめた感情が胸にきた。これまでどれほどすごい演奏を聴いても泣いたことはない。人の演奏を聴いて泣いたのは初めてだ」
エレノアはヘンリーの涙を唇でぬぐう。自分がまさかヘンリーを初めて泣かせたピアノ弾きになるなど音楽の神様のいたずらだろう。
なにより自分がこの曲にこめたヘンリーへの感謝とヘンリーへの想いが届いたことが嬉しかった。
エレノアはヘンリーと最後の夜をすごし見送ったあと海辺の家にもどった。王都にある実家に戻ったあと再婚相手の住む地方へむかう。
もうこの海辺の町に来ることはないだろう。
エレノアは一人で浜辺を歩いた。もうヘンリーはいない。夢のような時間はおわった。
「十歳若かったら何も考えずヘンリーに好きだっていったのになあ。くやしいなあ」
エレノアは波打ち際を歩きながら自分の気持ちを吐きだす。
「しょせん十歳年上のおばさんだし、物わかりのよい年上の女するしかないじゃない。それぐらいしか私にできることはないし」
潮が引く。波打ち際が遠のいている。
ヘンリーとこの浜辺で出会ったのが一年前の春で、再び春がめぐってきた。
「神に愛されたピアニストを一年も独り占めできた。これ以上望んじゃいけないわよね」
目をつぶり波の音をきく。
海へ別れをつげる。再婚相手の住んでいる場所は海から遠い。波の音を聞くこともなくなる。
エレノアが再婚する相手は、亡夫の商売を手伝うなかで知り合った取り引き先の男性だった。
初めは女だからとあなどられたが、エレノアの仕事ぶりをみとめ亡夫ではなくエレノアに担当してほしいといってくれた。
結婚の申し込みにそえられたエレノア宛の手紙に、あなたとまた一緒に仕事がしたいと書かれていた。
亡夫が自分ではなく愛人を選び、そして婚家とあっさり縁が切れたことから、自分は必要とされない人間だとエレノアはすっかり自信を失っていた。
それだけに彼が自分を望んでくれたのが嬉しかった。そして女性としてではなく商売のパートナーとして求められているのがエレノアにとって都合がよかった。
再婚相手は十二歳年上で亡くなった前妻との間に成人した子が四人おり、エレノアが子をなすことを求めていない。
そしてお互いパートナーとしてと家族としての親愛以外をもとめていない。
「私のことを認めてくれる人がいる。私を必要としてくれる人がいる。新しい場所で心機一転がんばってみるとしましょうか」
海をてらす太陽が海面に光の道をつくっている。エレノアは潮の香りをおぼえておくため大きく息をすった。
ヘンリーが波の曲をひきおえたあとのサロンは、観客全員が立ち上がり耳が痛くなるほど大きな拍手をし「ブラボー!」と叫んでいた。
エレノアが参加したことのあるヘンリーの演奏会の中で一番の熱狂だった。
ヘンリー・ライトは怪我をすっかり過去のものにし、誰にも届かない領域へむかっているようだ。
海辺の町でひいていた頃よりもさらに多くの感情が音にのるようになり、ひとつひとつの音の響きが美しく重みがあった。
きっとエレノアのことなどもう覚えていないだろう。それでよい。あれから三年の年月がながれた。ヘンリーは過去を振り返ることなく前進しつづけている。
ヘンリーがエレノアと再婚相手が住む町で演奏することになり、エレノアはヘンリーのピアノをふたたび聴くことができた。
演奏会はエレノアが聞いたことのある曲と新作が半々で、曲目が進むごとに観客は熱狂していった。
そしてアンコールの波の曲で観客が爆発的な反応をみせた。
海辺の町での日々。よせてはひく波の音。そしてヘンリーから波の曲を教えてもらった時間。
エレノアは涙をとめることができなかった。ヘンリーのもとへ行きどれほど素晴らしかったかを伝えたい。同じ時代に生まれヘンリーのピアノを聴くことができるのがどれほど幸運なことかといいたい。
しかし今のヘンリーにエレノアは必要ない。あのひとときだけ、あの海辺の町にいたときだけ隣にいるのをゆるされた。
観客が熱狂にうかされたままレセプションへと移動し、会場にいるのはエレノアだけになった。波の曲をきいてから涙がとまらず、とても見られる顔ではないだろう。
もともとレセプションに参加するつもりはなかった。気持ちが落ち着きしだいヘンリーに会わず家路につく。
エレノアが涙がひくのを待っていると、
「大丈夫ですか? もし気分が悪いようなら医師も控えてますよ」
年配の男性から声をかけられた。
エレノアはとっさに扇で涙でむごいことになっている顔をかくした。
「お気遣い感謝します。感動のあまり少しぼーっとしてしまっただけなので大丈夫です」
男性が小さく笑うと
「分かりますよ。私も最後の曲のあと涙がでた。もともと神がかった演奏をする男だったが、怪我から復活してからは誰の追随もゆるさないほどの神がかりをみせるようになったと思うよ」
しみじみとした口調でいった。
「本当にまた彼のピアノを聴くことができて嬉しい」
男性がそのようにいったあと独り言のように言葉をつむいだ。
「彼が怪我から復帰して初めてひらいた演奏会は、演奏会の会場だけでなくレセプションでも泣いてる人が多かったのを思い出しました。
みな彼の復活を心から喜び、以前よりも凄みがでた彼をみることができた。並々ならぬ忍耐と努力が必要だったでしょうね。
それにもかかわらず診察した医師が再起不能と誤診しただけの話で、怪我が治ってまた普通にピアノがひけるようになっただけだろうという輩がいてね。
殴ってやろうかと思っていたら、彼が静かに『絶望を味わったからこその今で、もしあの絶望がなければただ才能があるだけの傲慢なピアニストで終わっていたでしょう』といったのが忘れられない。
傲慢であって当然なほど圧倒的な才能を持っているし、周りからちやほやされていたので謙虚という言葉は彼になかったが、復活してからの彼には謙虚さとピアノへの愛が感じられるようになった」
男性が何かを思い出すかのように言葉をとめたあとつぶやいた。
「彼は再起して以来あのアンコールの曲をひかなくなっていたので、今日は久しぶりにあの曲がきけて幸せだ」
エレノアは男性の言葉でヘンリーと目が合ったと思ったのは気のせいではなく、ヘンリーは会場にいるエレノアの存在に気付いていたとわかった。
ヘンリーはエレノアをおぼえていた。そしてエレノアに波の曲を捧げてくれた。
「あなたに波の曲を捧げます」
ヘンリーと最後に言葉をかわした時に彼はそのようにいい、貴族のようにエレノアの手の甲に口づけた。きっとそのような行動をしたのは初めてだったのだろう。ヘンリーの顔が赤くなっていた。
涙がこぼれそうになったが、見知らぬ男性の前で泣くようなことはできない。
男性が自分を探しにきた人と去っていくと、エレノアの周りはふたたび静かになった。
エレノアはこぼれそうになる涙を必死にこらえる。
「ありがとう。あなたに出会えて本当によかった」
エレノアはとびきりの笑顔をつくりヘンリーの幸せを祈る。波の曲を捧げてくれたヘンリーにエレノアが返せるのは祈りだけだ。
ヘンリーが怪我をせず自分の目指す音をこの世界に響かせることをエレノアは祈りつづける。
エレノアは笑顔で会場を去る。ヘンリーの奏でる波の曲がいつまでもエレノアの頭の中で美しく響いた。
二人は何度か共演したことがあり、気が合うことから友人づきあいをしてきたという。
「よお。手を怪我してふて腐れてるかと思ってたが意外と元気そうじゃないか。酒の飲み過ぎで才能を台なしにしてるだろうから笑ってやろうと思ってたのになあ。
お前が怪我したおかげで次は自分の番だといきがってるピアニスト達が、お前が元気だと知ったらがっかりするだろうなあ。可哀想に」
アイザックはそのようにいうとニヤリと笑った。
隣国出身のアイザックは率直な物言いを好む隣国人らしい挨拶をした。
「こんな所まで来たのはお前が初めてだよ。物好きだな。落ちぶれた人間とかかわりたくないのが普通だろう」
「誰も見舞いにこないのは当たり前だ。お前がどれほど多くのピアニストを絶望におとしいれてきたと思ってる? 桁違いの才能をもっていて、とんでもない曲をつくるだけでなく、とんでもない音をだすんだ。
俺がピアニストだったら、ぜーったい見舞いになんてこないどころか、ざまあみろって高笑いしてるよ」
あっけらかんとそのようにいうアイザックにヘンリーも笑った。
「久しぶりに君のバイオリンを聴かせてくれよ」
「え――やだなあ。休暇をかねて見舞いにきたんだ。王都よりこっちの方が温暖で過ごしやすいし。新年を一緒に祝う家族もいないから羽をのばしにきたんだ。バイオリンなど見たくもないよ」
「そう言いながらしっかり滞在中に仕上げようと思ってる曲の楽譜が荷物の中にはいってるんだろう」
二人が楽しそうに言い合うのをみてエレノアは嬉しかった。ずっと一人でピアノの練習をしているヘンリーだ。気の置けない音楽仲間のアイザックの存在は貴重なはずだ。
ピアノとバイオリン。弾く楽器はちがっても同じ音楽家として心が通じ合っているようで、ヘンリーは心から楽しそうだった。
ヘンリーとアイザックが二人で笑い合い、アイザックの活動についてや音楽談義を真剣な顔つきでしている姿は新鮮だった。それはエレノアが初めて見るヘンリーの姿だった。
海辺の町を気に入ったアイザックは、当初二週間の滞在予定だったが一ヶ月滞在することにし、二人はそれぞれ練習の合間に音楽談義をしてと親交を深めていた。
そしてヘンリーとエレノアの散歩にアイザックが加わり、散歩の時間が一気ににぎやかになった。
ヘンリーとアイザックは年も近くアイザックの快活な性格もあり、アイザックと一緒にいるヘンリーは二十代の若者らしいはつらつさをみせるようになった。それはエレノアにはできないことだった。
そのことに寂しさを感じたが、ヘンリーが本来の自分を取り戻している証拠であり喜ぶべきことだと分かっていた。
ヘンリーの手はかなり動くようになったが、骨折した手首が以前ほど柔らかく繊細に動かないため、ヘンリーは手首の使い方を変えるための試行錯誤をしていた。
しかしその問題も近いうちに解決するだろう。子供がひく練習曲から動かしはじめたヘンリーの左手は、すでに難しい曲を弾きこなせるようになっている。
アイザックが来た当初はかたくなに彼と一緒に演奏するのを拒んでいたヘンリーだったが、彼のバイオリンの音を聞いているうちに一緒にひきたいという気持ちが上回ったのだろう。以前共演した時にひいた曲を一緒に演奏するようになった。
「お前だけ気持ちよくひきやがってむかつく」
ヘンリーはアイザックに文句をいいながら、左手がもたついた時は右手だけで演奏をつづけアイザックにくらいつく。
「まだまだだな。俺と共演するなど百年はやいわ」
アイザックに鼻で笑われ悔しそうにしながらもヘンリーは楽しそうだった。
アイザックはヘンリーがまだ自分に満足がいく音をだせないことを知りながら手加減することなく批評し、次までに出来るよう練習しろと傲慢に言い放つ。
しかしヘンリーはアイザックに腹を立てることなく「次は吠え面かかせてやる」と笑顔で応じる。
ヘンリーはもう思い通りに動かない左手に絶望していたヘンリーではない。出来なければ出来るようになるまでやるというピアニストとしての本来の姿を取り戻していた。
自分が思い描くような音がでなくともアイザックと一緒に演奏することを楽しみ、ヘンリーが奏でる音はピアノがひけることへの喜びにあふれていた。
上手くひくことや自分の思い通りにひくことよりも、ただピアノをひいていることが楽しいと音がはずんでいた。
「もう大丈夫」エレノアは自然とその言葉をつぶやいていた。
ヘンリーは完全に立直った。アイザックが来た時は上手くひけないからとアイザックと一緒にひくのを嫌がっていた。
しかしヘンリーは気付いた。アイザックと音を共鳴させることの楽しさ、そして自分がどれほど音楽を、ピアノを愛しているのかを。
純粋に美しい音を響かせることの心地よさを思い出したのだろう。何の迷いもなくピアノをひくヘンリーがいた。
ヘンリーはアイザックとの演奏でこれまでのわだかまりが吹っ切れたようで、自分が思うような音がだせないことに悪態をつくことはあっても落ち込むことはなくなった。
アイザックが海辺の町を去ったあと、ヘンリーは後援者として彼のピアノを支えつづけている公爵家に連絡をとった。ヘンリーの住んでいる海辺の家も公爵家が用意したものだということをエレノアは初めてしった。
連絡をうけた公爵夫人がヘンリーに会いにきた。そしてヘンリーの復帰演奏会の予定が組まれた。後援者を集めた少人数の演奏会が三ヶ月後にひらかれる。
演奏を聴いた公爵夫人が泣いたという話をヘンリーから聞きエレノアは胸がいっぱいになった。ヘンリーの才能を一番かってくれ、そして一番厳しい評価をしてきたのが公爵夫人だという。
その公爵夫人がヘンリーのピアノに涙した。ヘンリーの高揚した姿はまぶしかった。音楽の神に愛されたピアニストがそこにいた。
「ヘンリー、お別れする時がきたわ」
エレノアはヘンリーが王都へ戻ったあと、再婚し遠くの地へ行くことを伝えた。
ヘンリーは驚いた表情をしたまま何もいわなかった。
彼は再びピアニストとして多くの人に望まれる。もう彼にエレノアは必要ではない。傷をなめあう必要はなくなった。
最後にエレノアはヘンリーに「波の曲」を教えてほしいと頼んだ。彼のピアノに心酔することになった曲だ。
彼ほどの技量はないとはいえ譜面通りにひけるところまでエレノアは練習した。
エレノアは慎重に音をだす。所々間違った鍵盤をおしながらも波の曲をひきとおした。ひき終えるとヘンリーが泣いていた。
「泣くほどひどかった?」
エレノアはあわてた。しっかり譜面通りにひいた。いろいろと聞き苦しかっただろうが、泣くほどひどくはなかったはずだ。
ヘンリーが首をふりエレノアを抱きしめた。そしてエレノアの首筋に顔をうずめ泣きつづけた。
「あなたに再婚して欲しくないという権利は俺にはない。だけど――」
ヘンリーがエレノアのことを惜しんでくれる。それだけでエレノアは十分だった。
エレノアにとって元々ヘンリーは遠い存在だった。たまたま彼が弱っている時に寂しさにつけこみ親しくなっただけなのだ。
「あなたのピアノを世界中に響かせて。多くの人にあなたのピアノを届けて。遠くにいる私にも届くように」
ヘンリーは自分の練習の合間にエレノアに波の曲のレッスンをつけてくれた。これまで習ったことのない指や手首の使い方、感情をどのようにピアノにのせるのかといったことを教えてくれた。
ヘンリーが波の曲をどのような意味をこめて作曲したのかや、譜面からどのような感情をすくい取ってほしいのかといったことを教えてくれ、エレノアはただきれいな音をだすのではなく、自分の感情をのせてピアノをひくことに苦心した。
波の曲を自分らしくひくためエレノアはこれまでにないほどピアノの練習にはげんだ。
ヘンリーが復帰演奏会のために王都へ戻る前日、エレノアはヘンリーに波の曲を披露した。
ヘンリーが再び泣いた。
「演奏がひどかったとかいわないわよね? これまでの人生の中で一番練習したのよ。もしかして私の演奏に感動した?」
エレノアが冗談でいったところヘンリーが泣き顔でうなずいた。
「嘘でしょう? 冗談でいったんだけど」
「本当だ。あなたがこの曲にこめた感情が胸にきた。これまでどれほどすごい演奏を聴いても泣いたことはない。人の演奏を聴いて泣いたのは初めてだ」
エレノアはヘンリーの涙を唇でぬぐう。自分がまさかヘンリーを初めて泣かせたピアノ弾きになるなど音楽の神様のいたずらだろう。
なにより自分がこの曲にこめたヘンリーへの感謝とヘンリーへの想いが届いたことが嬉しかった。
エレノアはヘンリーと最後の夜をすごし見送ったあと海辺の家にもどった。王都にある実家に戻ったあと再婚相手の住む地方へむかう。
もうこの海辺の町に来ることはないだろう。
エレノアは一人で浜辺を歩いた。もうヘンリーはいない。夢のような時間はおわった。
「十歳若かったら何も考えずヘンリーに好きだっていったのになあ。くやしいなあ」
エレノアは波打ち際を歩きながら自分の気持ちを吐きだす。
「しょせん十歳年上のおばさんだし、物わかりのよい年上の女するしかないじゃない。それぐらいしか私にできることはないし」
潮が引く。波打ち際が遠のいている。
ヘンリーとこの浜辺で出会ったのが一年前の春で、再び春がめぐってきた。
「神に愛されたピアニストを一年も独り占めできた。これ以上望んじゃいけないわよね」
目をつぶり波の音をきく。
海へ別れをつげる。再婚相手の住んでいる場所は海から遠い。波の音を聞くこともなくなる。
エレノアが再婚する相手は、亡夫の商売を手伝うなかで知り合った取り引き先の男性だった。
初めは女だからとあなどられたが、エレノアの仕事ぶりをみとめ亡夫ではなくエレノアに担当してほしいといってくれた。
結婚の申し込みにそえられたエレノア宛の手紙に、あなたとまた一緒に仕事がしたいと書かれていた。
亡夫が自分ではなく愛人を選び、そして婚家とあっさり縁が切れたことから、自分は必要とされない人間だとエレノアはすっかり自信を失っていた。
それだけに彼が自分を望んでくれたのが嬉しかった。そして女性としてではなく商売のパートナーとして求められているのがエレノアにとって都合がよかった。
再婚相手は十二歳年上で亡くなった前妻との間に成人した子が四人おり、エレノアが子をなすことを求めていない。
そしてお互いパートナーとしてと家族としての親愛以外をもとめていない。
「私のことを認めてくれる人がいる。私を必要としてくれる人がいる。新しい場所で心機一転がんばってみるとしましょうか」
海をてらす太陽が海面に光の道をつくっている。エレノアは潮の香りをおぼえておくため大きく息をすった。
ヘンリーが波の曲をひきおえたあとのサロンは、観客全員が立ち上がり耳が痛くなるほど大きな拍手をし「ブラボー!」と叫んでいた。
エレノアが参加したことのあるヘンリーの演奏会の中で一番の熱狂だった。
ヘンリー・ライトは怪我をすっかり過去のものにし、誰にも届かない領域へむかっているようだ。
海辺の町でひいていた頃よりもさらに多くの感情が音にのるようになり、ひとつひとつの音の響きが美しく重みがあった。
きっとエレノアのことなどもう覚えていないだろう。それでよい。あれから三年の年月がながれた。ヘンリーは過去を振り返ることなく前進しつづけている。
ヘンリーがエレノアと再婚相手が住む町で演奏することになり、エレノアはヘンリーのピアノをふたたび聴くことができた。
演奏会はエレノアが聞いたことのある曲と新作が半々で、曲目が進むごとに観客は熱狂していった。
そしてアンコールの波の曲で観客が爆発的な反応をみせた。
海辺の町での日々。よせてはひく波の音。そしてヘンリーから波の曲を教えてもらった時間。
エレノアは涙をとめることができなかった。ヘンリーのもとへ行きどれほど素晴らしかったかを伝えたい。同じ時代に生まれヘンリーのピアノを聴くことができるのがどれほど幸運なことかといいたい。
しかし今のヘンリーにエレノアは必要ない。あのひとときだけ、あの海辺の町にいたときだけ隣にいるのをゆるされた。
観客が熱狂にうかされたままレセプションへと移動し、会場にいるのはエレノアだけになった。波の曲をきいてから涙がとまらず、とても見られる顔ではないだろう。
もともとレセプションに参加するつもりはなかった。気持ちが落ち着きしだいヘンリーに会わず家路につく。
エレノアが涙がひくのを待っていると、
「大丈夫ですか? もし気分が悪いようなら医師も控えてますよ」
年配の男性から声をかけられた。
エレノアはとっさに扇で涙でむごいことになっている顔をかくした。
「お気遣い感謝します。感動のあまり少しぼーっとしてしまっただけなので大丈夫です」
男性が小さく笑うと
「分かりますよ。私も最後の曲のあと涙がでた。もともと神がかった演奏をする男だったが、怪我から復活してからは誰の追随もゆるさないほどの神がかりをみせるようになったと思うよ」
しみじみとした口調でいった。
「本当にまた彼のピアノを聴くことができて嬉しい」
男性がそのようにいったあと独り言のように言葉をつむいだ。
「彼が怪我から復帰して初めてひらいた演奏会は、演奏会の会場だけでなくレセプションでも泣いてる人が多かったのを思い出しました。
みな彼の復活を心から喜び、以前よりも凄みがでた彼をみることができた。並々ならぬ忍耐と努力が必要だったでしょうね。
それにもかかわらず診察した医師が再起不能と誤診しただけの話で、怪我が治ってまた普通にピアノがひけるようになっただけだろうという輩がいてね。
殴ってやろうかと思っていたら、彼が静かに『絶望を味わったからこその今で、もしあの絶望がなければただ才能があるだけの傲慢なピアニストで終わっていたでしょう』といったのが忘れられない。
傲慢であって当然なほど圧倒的な才能を持っているし、周りからちやほやされていたので謙虚という言葉は彼になかったが、復活してからの彼には謙虚さとピアノへの愛が感じられるようになった」
男性が何かを思い出すかのように言葉をとめたあとつぶやいた。
「彼は再起して以来あのアンコールの曲をひかなくなっていたので、今日は久しぶりにあの曲がきけて幸せだ」
エレノアは男性の言葉でヘンリーと目が合ったと思ったのは気のせいではなく、ヘンリーは会場にいるエレノアの存在に気付いていたとわかった。
ヘンリーはエレノアをおぼえていた。そしてエレノアに波の曲を捧げてくれた。
「あなたに波の曲を捧げます」
ヘンリーと最後に言葉をかわした時に彼はそのようにいい、貴族のようにエレノアの手の甲に口づけた。きっとそのような行動をしたのは初めてだったのだろう。ヘンリーの顔が赤くなっていた。
涙がこぼれそうになったが、見知らぬ男性の前で泣くようなことはできない。
男性が自分を探しにきた人と去っていくと、エレノアの周りはふたたび静かになった。
エレノアはこぼれそうになる涙を必死にこらえる。
「ありがとう。あなたに出会えて本当によかった」
エレノアはとびきりの笑顔をつくりヘンリーの幸せを祈る。波の曲を捧げてくれたヘンリーにエレノアが返せるのは祈りだけだ。
ヘンリーが怪我をせず自分の目指す音をこの世界に響かせることをエレノアは祈りつづける。
エレノアは笑顔で会場を去る。ヘンリーの奏でる波の曲がいつまでもエレノアの頭の中で美しく響いた。
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なので夫がバツイチでもとくに気にする事もなく、わたしの事が好き過ぎる夫とそれなりに穏やかで幸せな生活を営んでいた。
そんな中で、国王肝入りで魔術研究チームが組まれる事になったのだとか。そしてその編成されたチームメイトの中に、夫の別れた元妻がいて………
相も変わらずご都合主義、ノーリアリティなお話です。
不治の誤字脱字病患者の作品です。
作中に誤字脱字が有ったら「こうかな?」と脳内変換を余儀なくさせられる恐れが多々ある事をご了承下さいませ。
性描写はありませんがそれを連想させるワードが出てくる恐れがありますので、破廉恥がお嫌いな方はご自衛下さい。
小説家になろうさんでも投稿します。
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