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金色の指輪 2

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 夕食の後、アドリーシャはイルディオスに招かれて執務室を訪れた。
 執務室は、夕方まで一緒に書類仕事をしたときのままだ。書類の角を揃えていると、ノードが温かいお茶を差し入れてくれる。

 静かに閉ざされた扉をちらりと見て、アドリーシャは決裁済みの書類を手にした。
 清潔な香りが届いたのに首をめぐらせると、ティーカップを手にしたイルディオスが、アドリーシャの肩越しに書類を覗き込んでいた。アドリーシャが手にしているのは、領地で農家を営む者に補助金を出すことを通達する書類だ。

 お三時の後、一緒に書類を見たとき、イルディオスはアドリーシャが下した判断に異を唱えなかった。アドリーシャとしても考え抜いた末の判断であったから、イルディオスの決定は当然だという思いもある。
 ただ、領地の仕事を手伝い始めた頃は決裁を通されることが嬉しくてならなかったはずなのに、こうしてすんなり書類が通るようになると、それはそれで不安になってしまうのだ。

「なんだ、ノードに何か言われたのか?」

 アドリーシャは礼を言ってティーカップを受け取ると、何とも言えずに目を伏せた。
 喉の奥で低く笑ったイルディオスは、もう決裁したぞとアドリーシャの手から書類を抜き取って箱に戻す。

「ノードはうるさいだろう。あいつは宮殿の隅でねちねち書類を検閲していたのを引き抜いたんだが、本当に目が細かくてな。そこがいいと思ったんだが、ここが違うあれがおかしいと指摘されて、何度書類を破り捨てそうになったかわからない」
「まだ何も言っていませんのに」

 くつくつと笑ったイルディオスは、ティーカップを机に置いた。

 アドリーシャの目の前で、武骨な線を描く小指から金の指輪が抜き取られる。そっと手のひらに載せて差し出された印章指輪は、燭台の光を受けて淡く輝いている。

 きれい。ぽつりと内心で呟いて、アドリーシャは柔らかい笑みを浮かべるイルディオスを見上げた。

「あれからきちんと拭いたし、磨き直したから安心してくれ」

 そういうことではないのに、とアドリーシャは苦笑した。

 伸ばしかけた手のひらを握り込んで、アドリーシャは逡巡する。
 アドリーシャも自分の印章を持っているが、貴族の間で署名代わりに使われる、それも家長の印章指輪を預かることは重い意味を持つ。悪く使おうと思えば、文書の偽造だって財産を動かすことだってできてしまうのだ。イルディオスの印章には、王族であることを表す意匠が用いられてもいる。

 イルディオスは、アドリーシャの手を取って印章指輪を載せた。
 イルディオスの手は温かく、指輪にもまだぬくもりが残っている。いつも彼の左手の小指に嵌められている指輪は、アドリーシャの手の上では随分大きく感じられてしまう。

 目の奥がじわりと熱くなって、アドリーシャはそっと奥歯を合わせた。

「アドリーシャ、どうか喜んでくれ。俺は兄上にだって指輪を預けたことがないんだ」

 イルディオスらしい言葉に、アドリーシャは唇を緩める。
 そっと左手の小指に指輪を通すと、当然のようにぶかぶかだった。イルディオスが笑って中指に嵌め直してくれるが、それでもまだ隙間がある。

 ヴァルダノでは、男性から女性に差し出される指輪は、求婚や告白の意味を持つ。
 母が跪いた父から指輪を捧げられて想いを伝えられたと聞いていたから、アドリーシャの胸にもまだ淡い憧れのようなものが残っている。

 アドリーシャは、自分の細い指には不似合いな指輪を見つめる。
 この重みは、イルディオスの信頼の証だ。 

「ほんとうに、私でよろしいのですか?」
「アドリーシャ以外に、指輪を預ける相手はいない」

 静かに胸をよぎったのは、一人きりで果実にまつわる書類を纏めるときの、言い表しがたい感情の名残だった。苛立ちや遣る瀬なさ、さみしい怒りがない交ぜになったそれらを優しく慰撫されたような心地がして、アドリーシャは唇を結び合わせる。

「……私を指して、人はよく感情が見えないと言います」
「俺もそうだ。どうも表情筋に乏しいらしい」

 大真面目に同意を示したイルディオスに、アドリーシャはくすんと肩を竦める。

「外からは見えないだけで、傷つくこともあります。反対に、嬉しいこともあります。今このときのように。自分では意識していませんでしたが、確かに小さく縮こまっていたのかもしれません」

 アドリーシャは目を伏せて、手のひらの上の印章指輪を見つめる。
 いまこの手に委ねられた指輪は、アドリーシャにとって、愛の証として捧げられる指輪に勝るもののように思われた。

「君に何でもしてあげたいと思うのは、負い目からでも何でもない。俺は、君がもっと色んなことができる人だと知っている。強いて押さえ込んでいるのなら、その分高く飛んでくれ。飛び立つのに踏ん切りが必要なら、俺が助力しよう。俺の知っているアドリなら、きっとできる」

 アドリーシャの教養や執務能力は、生家で与えられた教育とイルディオスの庇護下で与えられた環境で育まれたものだった。努力をしなかったと言えば嘘になるが、自分の力だけで成し遂げたと言い切るには、あまりにも不可分に混ざり合っている。

 それでも、与えられた恵みだけで信頼を勝ち得ることは難しい。
 イルディオスはアドリーシャに優しいが、ただ優しさで印章指輪を預けるような人ではないことも知っている。

 努力すればすべてが叶うほど、世界は優しくできていない。
 ただでさえ中途半端な身の上のアドリーシャは、厚意の中で守られているに過ぎないのだろうという思いもある。
 そうとわかっていてもなお、イルディオスの信頼はアドリーシャが初めて自分で得たもののように思われた。

 たまたま恵まれているだけのちっぽけなアドリーシャにできることは、そう多くない。
 それでもなお小さな足掻きを続けているのは、現実を諦めたくないからだ。

 でも、こうして信を預けてもらえるのならば、前へと踏み出せそうな気がする。

 じわりと胸を満たしたあたたかさを何と名付ければいいのか、今のアドリーシャにはよくわからない。けれど。
 
(この一瞬の喜びを、私、ずっと忘れない……)

 アドリーシャは、左手に嵌めた指輪に包むようにして触れる。
 心の底からこみ上げた喜びが肌の上に滲んで、ふわりとほころぶ。

「殿下。私を信じてくださって、ありがとうございます。預けていただいた指輪をお返しするときまで、責任を持って殿下の御留守を守ります」

 うれしい。思わずこぼれた言葉に、アドリーシャは頬を染めて口元を覆った。
 胸の内を晒すことは、アドリーシャにとってひどく難しいことだ。こうして、ついこぼれてしまったときを除いては。ちらりと見上げた先で、イルディオスが苦笑する。

「自信は持ってほしいが、気負いすぎないようにな。それこそ、倒れるまで無理をしてはだめだ」
「大丈夫です、無理はしません」

 くるりと印章指輪を回したアドリーシャを見つめるイルディオスの目は、ただ優しい。

「鎖に通した方が良さそうだな。あまりにもぶかぶかだ」

 そう言って、イルディオスは抽出から布張りの小箱を取り出す。
 ドレスの下にはいつも金の鎖がさげられていたけれど、もちろんアドリーシャは黙っていた。
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