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忘れられない瞳 2

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「アドリーシャが帰ってきたのか?」

 穏やかな声が差し伸べられたのに、イルディオスの意識は思い出から醒めた。
 首を巡らせると、兄のユーゴウスが扉に肩を凭せかけてこちらを見つめている。その横から顔を出したのは、兄の妻グレイシアだ。書類を保管するために席を立ったイルディオスが戻らなかったものだから、執務室までやって来たらしい。

 イルディオスが頷くと、連れだって歩いてきた兄夫婦もまた窓の外を眺めた。

 馬車が停止し、馬を走らせていた騎士が軽やかに飛び降りる。乳兄妹のエティケはちらりとこちらを一瞥して会釈すると、扉を叩く。応えが返ってきたのだろう、エティケはゆっくりと扉を開けて手を差し出した。

 その手に預けられたのは、たおやかな白い指先だ。
 ドレスの裾から覗いたつま先が足置きの上にのせられて、ほっそりとした身体が現れる。淡い金の髪を風になびかせた娘は馬車を降りるとエティケに微笑み、それから騎士たちを見た。礼を言われたのだろう、騎士たちは柔らかい表情をしている。彼らの気持ちが、イルディオスにはよく分かった。

「アドリーシャはどんどん綺麗になるわね。あれだけ綺麗な所作の娘がほかに何人いるかしら」
「成人の宴では注目の的だろう。それでなくとも、学校に通う子女から漏れた話が噂になってるらしい」
「彼女が綺麗な娘なのは、その通りですが」

 イルディオスが眉を寄せたのに、まあ、とグレイシアが笑った。ユーゴウスは愛しい妻の肩を抱き寄せて、こめかみにくちづける。あまりにも見慣れた光景すぎて、最早何の感情も湧いてこない。ユーゴウスは、息をしているのと同じくらい妻を愛しているのだ。

「早く婚約しておかないと、求婚状が押し寄せて大変なことになるぞ。お前が彼女の後見人でいられるのは、成人の宴までなのだから」

 五年前、歴史に例を見ない貴族生まれの果実であるアドリーシャの処遇をどうするかで、イルディオスとヒュミラ伯爵家の意見は割れた。
 イルディオスは後見人としてアドリーシャを引き取ると主張し、ヒュミラ伯爵家は正式に許嫁にするよう要求したのである。

 ユーゴウスも婚約を結ぶのは悪いことではないと言ったのだが、イルディオスは諾わなかった。
 そのことには、ヒュミラ伯爵家が娘を虐待しながらも娘を果実として捧げることで利を得ようとしたことが影響している。

 確かに、力ある者が果実の生家に金銭を与えるのは珍しい話ではない。
 ヒュミラ伯爵家としても、家門から果実を生んでしまったというを受け容れる代わりに、見返りが欲しくなるのはある意味当然のことではあった。

 けれども、イルディオスの胸には後見人として迎えたいと告げたときのアドリーシャの驚いた表情が色濃く残っていた。イルディオスの判断に従うと微笑んだアドリーシャの、初めから何も期待しないと決めている笑みがイルディオスは悲しかった。

 一歩も譲らない両者に呆れたユーゴウスは、結局はイルディオスの意を汲んで、婚約するにしてもアドリーシャの成人を待ち、それまでは後見人となるよう命じた。
 ヴァルダノの後見人制度は、多くは若くして両親を亡くした本家の血筋を守り、順当に爵位を繋いでいくためのものだが、貴賤結婚の隠れ蓑としても用いられてきた。もちろん、そのことをヒュミラ伯爵家が知らないはずもない。

 将来的に婚約の余地があると確認したヒュミラ伯爵家が矛先を収めたことで、イルディオスは正式にアドリーシャの後見人となった。そして、ヒュミラ伯爵家からの干渉を避けるために、毎年一定額を支払う約束を結んだのである。

 家族との交流は妨げないと告げたイルディオスに、アドリーシャは静かに礼を言った。
 アドリーシャの淡い笑みの理由が分かったのは、三ヶ月経ってもヒュミラ伯爵家から面会の希望はおろか一通の便りもないとわかってからのことだった。五年経った現在も、もちろん便りは届かない。

 ……イルディオスが唇を歪めたのに、ユーゴウスがくすりと笑んだ。

「アドリーシャが好きなら、早く告白すればいいだろう」
「彼女とは十二も年が離れているんですよ。三十の男から告白されるなんて、気味が悪いでしょう。若さや自分よりも幼い人間を求めているようで、厭らしくもある」

 はあと大仰に嘆息したユーゴウスは、愛しい妻の髪を一房すくい取って唇を寄せた。

「ねえシア、たとえ私たちの間に年の差があったとしても、私はあなたに求婚したよ」
「そうねえ、あなたはそういう人だわ」
「お二人の仲がよろしいことは、国中が承知していますよ」
「私はシアに色目を使う男は端から引き裂いてしまいたくなるから、周知は大事だ」

 実に兄らしい言い回しに、イルディオスはいっそ惚れ惚れとしてしまう。
 柔らかな物腰ながらも芯が強く、言葉を巧みに操りながら人心を集めてしまうユーゴウスは、まったくどうしてというほど玉座にふさわしい。
 そして、彼の直裁な言葉はイルディオスにも等しく向けられるのだ。

「いい加減素直になればいいのに。この頃お前がアドリーシャを見るときの顔は、大層物欲しげだよ」

 イルディオスは押し黙り、グレイシアがあんまりいじめちゃ可哀想よと夫をつついた。

「……俺は、そんなにわかりやすいですか?」

 ようやくのことで絞り出した問いに、ユーゴウスとグレイシアは顔を見合わせる。

「うん、まるで思春期のようだよ」
「恋を知りたての子どもみたいよ」

 イルディオスは天を仰いだ。ひどい評価である。

「ああ、我が弟は何て可愛いんだろう! イルのそういう顔を見ることができて、私は嬉しい」
「兄上、うるさいですよ」
「ほんとうに、何をそうもだもだしているんだか」
「ユーゴ、だめよ。そっと見守ってあげなくちゃ」
「兄上! 義姉上!!」

 イルディオスが怒鳴ると、ちょうど扉を叩いたのだろうエブロが細く開けた隙間からぎょっとした表情でこちらを見つめてくる。
 イルディオスが黙って促すと、エブロはごほんと咳払いをした。

「アドリーシャ様がお帰りになりました。こちらにお連れしましょうか?」
「いや、それには及ばない。私たちは先に戻るから、エブロも一緒に行こう。我が弟はしばし物思いに耽りたいらしいから」

 ユーゴウスはほらと弟の乳兄弟の背中を押すと、扉を閉めた。もちろん、グレイシアも一緒だ。

 一人きりになったイルディオスは、窓辺から離れて深く息をつく。
 アドリーシャの帰宅を悟った翼が疼いて、胸の底がひりりと痛い。滲み出した目眩を堪えるように奥歯を噛んで、瞼を閉ざしてやり過ごす。

 初めて会ったときにアドリーシャに言ったことは、嘘ではない。
 イルディオスは初めからアドリーシャを食べないつもりでいたし、虐待されていた彼女を一目見て、これ以上つらい思いをさせたくないと思った。ずっと叶わない恋をしていたのも本当だ。

 けれども、いつからかイルディオスは彼女に触れないと約束したことを悔やむようになった。

 アドリーシャに力を宥めてもらうと、イルディオスの世界はほんの少し澄み渡る。
 ほんの少し柔らかさを増した世界で、日を重ねるごとに綺麗になるアドリーシャから目を離すことはひどく難しかった。彼女の礼儀と慎み、それからいっそ頑ななまでの意思によって深く覆い隠された心が垣間見える度に、イルディオスはいつだって喜びを覚えてしまう。

 アドリーシャを好ましく思うのは、ふたりを結びつける運命の頸木くびきのせいではないか。
 アドリーシャを好ましく思うのは、暴れ回る光を慰めてくれるという即物的な理由からではないか。
 何度その問いを己にぶつけたかわからない。

  それに、十以上も年の離れた娘に心を寄せるのは、大人としてただしい振る舞いとは思い難かった。

 イルディオスは、アドリーシャに何も恐ろしいことに見舞われず、ただ健やかに過ごしてほしかった。どう考えたって、アドリーシャの人生にはイルディオス捕食者がいないほうがいい。

 それならば、良い大人のふりをして、芽生えかけた感情に封をしよう。彼女が成人するまで後見を務め、彼女が欲しがるものは何でも与えようと思った。
  いずれ彼女が恋をしたら縁談を取り持ち、花嫁支度を調えて送り出す。それが、彼女にとって一番良い道だと思いこもうとした。

 いつも笑っていて欲しい。あの静かな瞳で見つめ返してくれるなら、それだけでいい。
 あのまなざしがあるのなら、あと数年は生き延びられるだろう。

 成人までの数年を分け与えてもらうだけと決めたはずだったのに、この頃のイルディオスの目は、気づけばアドリーシャを追ってしまっている。光を宥めてもらう以上のものを、欲しがってしまいそうになっている。

(過ぎた望みを抱いてはいけない。俺は、彼女の信頼を裏切ってはならない)

 イルディオスはゆっくりと瞼を押し上げて、腹の底に力を入れる。
 そうして、しばし幻覚と渇きに蓋をして見ないふりをした。

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