昭和少年の貧乏ゆすり

末文治

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小学校入学-11

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 家族揃って風呂屋に出掛ける。冬の夜道も母や兄たちと一緒だと寒さも忘れる。漆黒の空に黄色の星が小さく散らばり、満月が煌々と照る。五人の下駄の音が澄んだ路上にうるさいほど鳴る。
「兄ちゃん、頭痛いやろ」
 後ろから弟の声がするので振り向くと、月影を踏んで歩いている。「こいつ」と弟の影を追い掛けると、「きゃっきゃっ」笑って逃げ回る。
「ほら、うさぎが餅つきしてるわ」
 月を指さし弟に言うと、「ほんまや」と夜空を見上げてうなずく。
 母が弟を連れて、ダイヤガラスに「女」と赤で書かれた戸を開けて入り、番台で「そっちと一緒」と言ってお金を払っている。水滴が流れ落ちる男湯のガラス戸を開けた途端、柔らかい暖かな湯気に迎えられて体全体が嬉しがる。
 浅い方の浴槽にお尻を沈めにかかると、ぶるっと震えて一,二滴おしっこが押し出され、腕のさぶいぼ(鳥肌)が消えていく。おじさんが浴槽の縁に腰掛け、湯に入る前の一服と、ゆっくり吸うタバコのいい匂いが湯気に乗ってくる。
 すっかり温もり、持ってきたゴムまりで次兄と浴槽を挟んでキャッチボールをする。素っ裸で腕を振るうと身が軽すぎて、何だか頼りない。
「体洗うぞ」
 長兄が呼びつけ、石けんを泡立てたヘチマで胸から背中とさっさと擦っていく。「次、脚。ふらふらするな、しっかり踏ん張らんか」とお尻をぴしゃり叩かれる。次兄は自分で丁寧に洗っている。
 あかぎれの手や霜焼けの足指を軽石で痛めつけていると、隣に座るコーヒ屋のおじさんが「お風呂、週に何回ぐらい来るの」と興味深そうに聞くから、「三日に一回」と答える。
「一週間に何回も来れるはずないのにな」と次兄湯につかりながら、 
 湯に浸かりながら、次兄とゴムまりを軽く放り合っていると、おもちゃ屋の頭の禿げたおっちゃんが体を近付けてきて、思い切り睾丸をつかむ。「うっ、放して」言うのが精一杯で身動きが取れない。「お風呂でボール遊びしたら、あかんのと違う」と皮肉な笑いを浮かべ、さっと”ちんちん”を摘まんで浴槽を出て行く。
「あのおっちゃん、けったいやろ。大概の子は触られてるで。じぶんも一人前や」
 次兄が納得したように笑っている。睾丸が痺れている。
「おーい!」女風呂の弟に呼び掛け、ボールを投げ入れる。しばらくして、ぴょこんと壁の向こうからボールが戻ってくる。
「いつまで遊んどるねん。もうすぐ上がるぞ」長兄の命令で深い方の浴槽に肩まで浸かり、「ゆっくり五十まで数え」させられる。次兄とやっと数え終えると、「あと十や」。
 浴室から出ると、のぼせた体が生き返るように涼しいが、次に決まって立ち暗みがくる。足拭き場でしゃがみ込み、十数秒じっとしていると治まる。
 脱衣場の奥で、親子が坪庭を眺めながらラムネを飲んでいる。あの子の喉は、今どんな気持ちの良さなんだろう。<雲の上のこと>で羨ましがる気も起きない。パンツをねじり上げ回しに見立てて次兄と相撲を取る。服を着けながらおじさん達が場所を空け、番台のおばさんと、その上に据えられた神棚がいつも通りじっとしている。
 風呂屋の暖簾をくぐると、火照った頬に冷気が素早く取り付く。月明かりが、凄い。自分の影が前へ前へと進む。頭を踏もうと立ち止まり、身体を屈めてねじり、影の頭を下に下に移してもう少しで届く、というところで体勢が崩れる。何回試しても同じだ。自分で自分の頭を踏むのは難しい。
 母と弟はもう帰ったのだろうか。まだ風呂屋に居るのか。三人の下駄の音が行きよりは控えめに響き、月がずっと付いてくる。

                       ***
  正月気分もすっかり抜けた、明日から三学期という晩、玄関の戸を叩く音が微かにする。「どなた?」と母が尋ねるが、返答は無い。母が玄関に下りたつ。出て行った日と同じような時間帯に父が戻ってきた。
 兄二人は示し合わしたように教科書を整理し始める。弟はさっき放り出した絵本をまた手に取る。
「なんで帰って来るねん」心がずーんと暗くなっていく。半面、とろりとした安心感が滲み出てくるのを受け止める。母がぼそっぼそっと声を掛け、父は炊事場で向こうむきに立ったまま箸を持つ手を動かしている。
  皆んなして早いめに寝床に入る。蒲団が冷たい。父は変わらず炬燵代わりに脚を絡めてくる。今日は酒の匂いがしない。甲斐性無しのくせにひっついてくるなよ、と思いつつ温もりに乗って眠りに誘われる。
 翌朝、父は火鉢の側で丹念にゲートルを巻き、上がり框に腰掛けて地下足袋を履くと「行って来る」と小さく言い、玄関の戸を静かに開けて出て行く。
 忙しなくお茶漬けを啜りながら「お父ちゃん、無事で良かったな、お母ちゃん」と長兄が言い、「ちょっと照れ臭そうにしてたな」次兄が続ける。母が嬉しそうな顔をして応えているので嬉しくなってくる。
 始業式は難なく終わり、皆んなそれぞれ昼ご飯を食べに帰る。ご飯を終えて冬休み前の調子で校庭に赴くが、待てど暮らせど仲間の誰も顔を見せない。正月を挟んだ家での団欒の気に未だ侵されているのか。こうなると分かっていれば、改めて、はっきり約束を取り付けていたのに。悔やまれてならない。皆の「解釈」が正しいのだろうな、多分。
 Nの家の寸前まで行って、引き返す。「父の家出話」の顛末を事細かにするであろうことが急に億劫になってきたから。
 家に帰ると、母が買物籠を提げて出て行こうとするところだ。またも当てをはぐらかされた感じ。祖母(おばあちゃん)が弟と火鉢に手をかざしている。側に寄りたくないけれど暖を取るためには仕方がない。祖母が蠟紙(ろうがみ)に包まれた楕円形のキャラメルを二個くれる。その一つを口に放り込んだ途端、始まる。
「お父ちゃんみたいな人間になりたいか。家にちょっとのお金しか入れられんと、お母ちゃんが苦労するばっかりや。伯母(おば)ちゃんが働いて助けてくれてるから家賃も払えて、この家に住めてるんやで。おばちゃんを大事に思わな、あかんで。お父ちゃんみたいな仕事したいか。お父ちゃんみたいに酒飲みになりたいか」
 毎度の祖母の説法もキャラメルの甘さに上の空、練炭の穴と睨めっこしていると、真顔で覗き込み答えを待っている。いつものように「ううん」と頭を横に振ると、満足して続ける。
「お父ちゃんみたいな男になったらあかん。長兄(おにいちゃん)みたいに一生懸命勉強して、偉い人にならなあかんで」
 にいちゃん(次兄)が早く帰って来てくれないか。人当たりの柔らかい次兄が居たら、祖母を軽くいなして場が和むのに。弟は祖母に手を擦られじっとしている。キャラメルの包み紙を広げて鼻に当て、鑞の匂いを深く吸い取りつつ祖母が早く二階に上がってくれることを祈る。
 伯母が風呂屋から帰って来て救われる。伯母は毎日、昼の三時から開く一番風呂に行かなければ気が済まない。
「なに油売ってんのん」と祖母にぞんざいに言い洗面器を渡す。祖母は炊事場に行って手拭いをゆすぎ、石鹸箱をきれいにしてから二階に上がって行く。伯母が働きに出る支度をしている間はもちろん、四六時中、伯母に顎で使われている。
 物心つく頃から見慣れているので、それが当たり前と受け止めていた。しかし「伯母は祖母の子供」だと理解するようになって以来、ずっと心の中に引っ掛かるものがある。そして、およそ実の姉妹とは思えないほど伯母と母のまるで正反対の性格の違い。
 晩、二畳の間でお膳を囲んで大鍋に炊いたおかずをつつく。兄弟四人がその日の出来事を争うようにして喋りまくり、母の笑顔が弾ける。父は一言も発することなく時たま小さくうなずく。祖母がお盆に食器を載せて下りて来てこそっと洗う。「今日は一段と賑やかやね」とだけ言うとすぐに段ばしごを上がって行くのでほっとする。
 寝る前、母が熱い湯でしぼった手拭いで鼻がひん曲がるぐらいに顔を拭いてくれて、冬の一日が終わる。重い冷たい蒲団に潜ると早速、父が脚を絡めてくる。今日も酒の匂いがしない。母の横で弟が眠り、その横で長兄が俯せで本を広げている。うとうとしかけた頃、枕頭に祖母の足の気配がする。また便所に行くのだな。

                      ***

 
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