昭和少年の貧乏ゆすり

末文治

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小学校入学-4

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 放課後、ドッジボールを蹴り合って遊ぶ。
 「ドッジボールは蹴ったらあかん、て先生に言われてるのにー、見つかったら怒られるのにー」
 遠くから女子が合唱している。それを無視して威勢良く蹴ったボールが大きく弾んで、校庭の片隅の塀を越えて消える。最悪の事態に仲間達もその場に立ちすくむ。
 塀の向こうは民家のちっぽけな裏庭になっていて、ネギや幾種かの野菜を育てている。それはいい。問題は、そこに住む老婆が尋常とは思えないほど恐ろしい、ということだ。いつか、その噂を確かめてやろうと塀をよじ登り、中を窺おうと首を伸ばしたと同時にごっつい土の塊が飛んできて、滑り落ちそうになった。
 いかにしてドッジボールを取り戻すか。家に回って願い出ても素直に返してくれるはずもない。第一、正面切って婆さんと顔を合わせるなんてどだい無理。もちろん一人で塀を乗り越える勇気など湧いてこない。どうぞ、婆さんが出て来ませんように、祈りつつNと二人で庭に飛び降りる。乾いた土の匂い、ネギの緑が目に突き刺さる。立ち小便を見つかって逃げ場を失ったような、生暖かい強張った空気ーー。
 ボールは、すぐそこにある。はやる気持ちを抑え、忍び足で近付いて手を伸ばそうとした正にその瞬間、裏木戸を壊すかの勢いで婆さんが飛び出して来る。心臓が止まりそうになる、とはこのことか。あっという間にNと共に腕をつかまれ、腕が抜けそうになるほど引っ張られる。年寄りとは思えない力に恐怖が走り、顔面蒼白になる。
 薄暗い土間に連れ込まれ、婆さんの皺立った土気色の顔がぐいっと迫る。
 「何遍同じ事を繰り返したら気が済むのじゃ。その度にこっちは迷惑しとる。おまえ達の先生は何という名前じゃ! 先生に言い付けてやるからな」
  初めて聞く声、その嗄れた声に圧倒され泣きそうになる。それでも、「何遍もしてへん。ボール入れたんは今日が初めてやのに」と真剣に思う。Nは「すみません、すみません」と拝むように繰り返している。
 「おまえらはな、他人様の家に断りもなしに入って来て畑を踏み荒らす、盗人以下の人間じゃ。それでも小学生か、親は居るんか、親は。もうどうしょうもないわい。巡査さんを呼んで来い、巡査を。巡査さん連れてこなかったら、”まり”は返さんからな」
 婆さんが捲し立てる。訛りの交じった大阪弁が得体知れず、一層不気味だ。
 巡査さん!? 目の前が真っ暗になってくる。巡査さんを呼んで来いだって。これから、どうなるんだ。先生にも知られ、校長室にまで連れて行かれる恐れもある。お母ちゃんの嘆く顔が浮かぶ。もうこれで学校にも来られなくなるのか。ぼくらは、そんなにも悪い事をしてしまったのだ。ドッジボールを蹴った罰が当たった。塀なんか越えなければ良かった。思い知らされ深く後悔する。
 Nと二人、深刻な顔をして学校近くの警察署に向かう。
 「いつも巡査さんのことポリ公て言うてるのんばれたら、どないしょ」
 「うん、そのときは正直に謝った方がええな」
 警察署が近づいて、やっとこれだけの会話を交わすうち早くも玄関に着いてしまう。
 「じぶん、先に入れ」「いやや、じぶんが先に行け」
 ためらっていると、奥から婦人警官が出て来て「どうしたの」と腰を屈めて声をかけてくれる。そうか、女の巡査さんが居るというのを忘れていた。頭の中がたちまち晴れ渡り<女の人>に訴える。
 「ああ、あそこのお婆さんね」
 微笑んで応えてくれる。なぜ、あの婆さんが分かるのだろう。やっぱり、あの婆さんは警察も知っている凄い人なんだ。あらためて怖さが甦ってくる。恐る恐る事情を話す。
 怒られるどころか、女の巡査さんはさも愉快そうにいちいち頷き、一緒に付いて来てくれることになる。ちょっぴり安心するが、こんな優しい態度であの婆さんに対抗できるのか心配だ。
 「ごめん下さあーい」
 巡査の元気良い声に、老婆が戸の半分から姿を見せ、黙ってドッジボールを差し出す。
 「お世話になりました!」
 婦人警官は老婆に敬礼し、こっちの頭を撫でてボールを手渡すと、にっこり笑って帰って行く。
  ーー嘘のような光景。
 「なんやねん!あのクソばばあ!!」
 Nと解放感いっぱいに吠え、塀の向こうの校庭へドッジボールを思いっ切り蹴り上げる。

                       ***
  便器に長らく跨がり頑張っていると足が痺れ、膝の裏側がじっとり汗ばんでくる。退屈しのぎに、右隅に小さく切って束ねてある新聞紙を一枚つまみ、漢字を飛ばして読んでみるが意味が分からない。
 仕切りの木戸の隣で、次兄(あに)が「しーしっ」と口にしながら”しっこ”をして出て行く。下に目をやると、汲み取り口から日が入り込んで<肥やしのもと>の堆積をあからさますぎる程に照らし出している。その一角に夥しい数の蛆虫が集(たか)って白い塊りとなり、休むことなく蠢いている。これらが本当にハエとなって飛び回るようになるのか。汚いな。
 ハエ叩きを手にして家の内外を見て回る。そうして仕留めたハエを十匹ずつマッチ箱に詰め込んで、決められた日に学校に持って行く。一箱につき鉛筆一本がもらえる。組の者が順番に出すマッチ箱を先生がそっと押し開け、黒々とした中身をざっと確かめて箱の数に応じて鉛筆を手渡す。大方の男子は一箱止まりで、成果数匹という子もいる。女子で持ってきたのは数えるほど。かわいいと思っているY子がその中に入っていなくて、良かった。
 先生の机の上に自慢気に三箱を置く。わずか一匹の差で鉛筆三本のところが二本になってしまう無念さは味わいたくないので、三箱目はそこはそれ、要領というもの。
 「よく頑張ったね」
 先生が笑顔で差し出す、光沢ある緑色の鉛筆三本をありがたく受け取る。
 「衛生を守るため ハエを退治しましょう」ーー玄関口の掲示板や廊下にポスターが張られ、校長先生も朝礼でお願いしていた。それに従っただけなのに、担任の先生から褒められ褒美まで頂けて、何倍にも得した気分になる。
 三箱が最高かと思っていたら、なんと五箱も出した男子が現れて先生も驚いて発表する。
 「あいつ、鉛筆欲しさに宿題もせんと、ハエばっかり追っ掛けとったんと違うか」
 冷やかす声も挙がるが、心の中では皆んな感心しているはずだ。五箱といえば五十匹。とても捕まえられる数ではない。五箱ともきっちり十匹ずつ入っているのか!? いずれにしても「ハエ取り名人」だ。
 学校帰り、暑さしのぎに市場の中を通って行く。果物屋、豆腐屋、漬物屋と続く通路は、狙い通り冷んやりとしている。魚屋に掛かる辺りから顔や頭にハエがぶつかる。鰹の削り節が山盛りに並んだ乾物屋の奥に、あの”名人”が両親に挟まれて嬉しそうな顔をして立っている。あいつ、ここの子供だったのか。今の今まで知らなかった・・・・・・。店内の数カ所に吊られたハエ取りリボンが扇風機の風に揺れている。薄茶色のリボンのそれぞれにハエの黒が点々と続いている。
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