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ちかく、とおく、ふたりで、いっしょに

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 どうして看護師になったのか。
 この仕事をしていれば、誰しも一度は聞かれたことがあるだろう。もちろん紗江もその経験があった。しかもそれは一度や二度ではない。

 その時なんて答えたのか。
 
 人を助ける仕事がしたい。誰かの役に立ちたい。そんな事を言った覚えが紗江にはあった。

 けれども、本当はそうではない。

 一人で生きていくにはどうしたらいいのか。と考えた結果、就職にも困らない安定した職業。それが紗江にとっての一番の志望動機だった。
 




「はい。どうしましたか?」

 昨晩、殆ど眠れない夜を過ごした紗江は、いつも通りとはいかないが、仕事に勤しんでいた。ナースコールに応対する声に、張りがないと思いつつも淡々と応対する。

『点滴が終わります』
「はい、伺います!」

 化学療法施行中の患者からのナースコールを受け取り、紗江はナースステーション内の点滴作成場に向かう。
 今コールがあった患者の名前と次の薬剤名を確認し、他スタッフを探す。化学療法の薬剤は、施行時にダブルチェックが必要になるため、一人では交換に行けないためだ。ステーション周りをウロウロするが、先程手術から患者が戻っていたため、そちらに人手を取られ、誰も見当たらない。
 紗江は大きくため息をつくと、手に持つ点滴ボトルをぎゅっと握りしめる。精神的も、身体的にも辛い時に、業務が思った通りに動かないとなるとやはりイライラとしてきてしまう。大きな声を出してスタッフを探せば、品がないと言われる。静かに誰かを必死で探して、患者の所に薬を持って行けば遅いと言われ……。そんなことばかりではなかったが、自身の体調が良くない時にはマイナスの事ばかり紗江は考えてしまった。

「おはようございます」

 どうしようかと途方に暮れていたら、休憩室から遅番の百合子が出てくるのが視界に入る。

「こもりん、っと、小森さん!ちょっと一緒に来て!」
「え?」

 これ幸い、と百合子の腕を引っ張り、病室へと向かう。ドアを開けて患者の点滴ボトルを確認すれば、空になる一歩手前だった。

「よかったー。間に合ったわ~。なくなるって思うとドキドキするわ!」
「すみません!遅くなりました」

 待っていた患者に紗江は一言謝罪をする。その後、看護師二人で薬剤名、量、患者名、投与する順番に間違いが無いかを確認し、パソコンで薬と患者の照合を行う。一致したところで、チェックをしてくれた百合子にお礼を言って、ボトルを交換した。

「今日の担当の者に切り替わったことを伝えておきますね」
「ありがとう~。よろしくね」

 薬が血管外に漏れていない事を確認し、紗江はその場を後にした。
 ガラガラとパソコンを引き連れてステーションに戻ろうとした所、すみません、と声をかけられた。
 何だろう、と思いながらも精一杯の笑顔を浮かべ紗江は振り返った。

「こんにちは」

 そこにいたのは、ついこの間亡くなった前野の娘だった。



 少し話がしたいと言う娘に、申し訳ないが今は時間が取れないと伝えると、待ちますとの返答があった。後三十分ほどで休憩が終わると伝えれば、面会者用のホールで待っていると言い、ステーションから離れて行った。
 待たせるわけにはいかないと、紗江は時間通りに休憩に入るため午前の業務の整理を始めた。

「休憩入ります!」

 残っている業務は後休憩のスタッフに事情を説明して引き継ぐ。他スタッフからの返事は無かった。しかし、引き止められないから問題はないだろう。そう思い、紗江は急いで支度をしてホールに向かった。

「お待たせしました」
「こちらこそすみません……」

 深々と頭を下げる娘に、紗江も同じように頭を下げる。座ってくださいと促され、紗江は隣に腰を下ろした。

「母がお世話になりました」
「いえ、そんな」
「娘の私が言うのも何ですが、手を焼きませんでした?」
「いえいえ。そんな事。前野さんには色々教えてもらいました」

 本当にそう思ったいた紗江は、笑顔を浮かべて言った。しかし、前野の娘はそうは取らなかったようで、すみませんと何度も頭を下げた。

「ホント、娘の私も手を焼くわがままな母で……」
「……前野さん」
「あ、今日はこれを渡しに来たんです」

 そう言って一つの紙袋を差し出そうとする娘さんに、紗江は制止をしようとする。病院内の規定で物をもらってはいけない、ということになっているからだ。

「お菓子類じゃないんです。見てもらっていいですか?」

 そう言われ、紗江は紙袋の中身を一つ取り出した。その中には、三十センチほどの布。よく見ると筒状に縫っており、上部中央からに十センチほど間を開けて二つのスナップボタンが縫い付けられたものだった。

「……これは?」
「これ、おしっこや胃の管が入っている時に繋がれるビニールバッグを覆うカバーなんです」
「……え?」

 母の手作りです。と娘は付け足す。そして、なぜこれを作ったのか、その経緯を娘は話し始めた。

「母の腫瘍が腸を塞いで、腸閉塞になった時のことを覚えていますか?」
「はい」

 その事ならば紗江は今でもよく覚えていた。腫瘍による腸閉塞をおこし、本来ならば下に流れる腸液が逆流していた。それによる嘔気・嘔吐で前野はだいぶ苦しんでいた。一時、鼻から管を入れ、上がって来た腸液を抜いていた時があったが、前野はそれを受け入れることが中々できなかった。結局は人工肛門を作成することになり、作成までの間対応に随分と苦労したことを紗江は覚えていた。


「胃の管を入れた時、出てくる排液の色が汚くて、母はそれを見るのを随分と嫌がっていました」

 母親が作ったというカバーを一つ手に取り、娘は話を続ける。

「その時、信田さんが病棟にあった布でバッグを周りから見えないように隠してくれたと母は言っていました」
「……え?」
「覚えていませんか?面会の人に見られないように、少しでも気にならないようにと。その心遣いに母はとても感謝していました」

 そんなこと、したかな?と紗江は記憶を呼び起こす。考えても一向に思い出せない紗江を置いて、前野は話を続けた。

「私もそれを知ったのは具合が悪くなるちょっと前だったんです。……時間がないと言って、母はこれを作り始めました。自分が居なくなったら信田さんにこの袋ごと渡すようにと託されました」

 話しながら、母親の事を思い出したのか、娘さんはハンカチで目元を拭う仕草を見せる。紗江はその経緯を聞いてもう一度紙袋に視線を合わせた。すると、小さな紙の端が見えてそこに手を伸ばす。『信田看護師様へ』と、前野らしい几帳面な字で書かれた手紙だった。


『こんにちは。私からの贈り物は見ていただけましたか?私と信田看護師様との付き合いはとてもとても長いものだったと思います。新人の頃は業務に手一杯で、患者の気持ちを置き去りにして居た信田看護師さんも、今ではベテラン看護師さんになりましたね』

 相変わらずの前野節に、紗江は思わず苦笑いを浮かべた。そして続きに目を通す。

『貴女の成長を見守るのは私の一つの楽しみでした(偉そうでごめんなさい)時には厳しいこともあったと思いますが、信田看護師様はいつも笑顔で、それは本当に素晴らしい事だと思いました。手術、化学療法、辛い副作用。私が頑張ってこれたのは、家族とそして貴女のおかげだと思います。どうしようもなくて、貴女にイライラをぶつけた時もありました。私の訴えに、笑顔の裏でめんどくさい!と思ったことも多々あると思います。けれども、懸命に働く貴女に私はどれだけ元気をもらったかわかりません。私が一番嬉しかったのは、胃管を入れられた時、ビニールバッグにカバーをかけてくれた時でした。あのただの布切れは、誰にも見られたくないという私の思いも一緒に覆って隠してくれるものでした。ただ、布切れというのは私の美意識にひどく反するのでこれをプレゼントしたいと思います。貴女のその気遣いを他の人にも分けてあげてください。そのお手伝いが出来れば光栄に思います』

 手紙を持つ手が少し震えていることを紗江は自覚する。前野に最後の最後で認めてもらえたという喜びが涙となって溢れ出てくる。

『最後になりましたが、わがままなおばちゃんから逃げずに頑張ってくれてありがとうございました。きっと貴女なら何事も逃げ出さず頑張れると思います。では、あの世で会いましょう』

 正直言ってしまえば、前野との関わりに紗江は嫌になることもあった。けれども、自分の努力が認められた事に紗江は涙する。隣にいる前野の娘が、狼狽えているがそれに構う余裕はいまの紗江には無かった。

 一人で生きてく、逃げる紗江が選んだこの道が間違っていないことを前野が教えてくれた。
 厳しい意見が多い前野だったが、その内はとても思いやりのある人物だったと紗江は今更ながら気がついた。

 見たものが全てではない。見えるものだけで決めつけてきた紗江は、昨晩の百合子の言葉を思い出していた。

 私の周りは本当に優しい人ばかりだ。

 涙に濡れ、ぼやける視界の中、紗江が一番最後に思い出した人は、やはりあのひとだった。
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