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 慰労会とは言われても、ひだまりの中はいつも通りの景色。辺りを見回すと、カウンターテーブルに詩織がお気に入りのロイヤルブルーのカップとソーサーが置いてあった。
 自分のために用意してくれたのだと思うと、心がぽかぽかと暖かくなった。

「おいで」

 声に誘われるように、詩織はふらふらとスツールに腰掛けた。マスターはそれを見届けたのか、カウンターの中に戻っていく。

「何が飲みたい?」
「……え?」
「なんでもいいよ。この時間だから、お酒でもいいし」

 なんでもいいよ、と言われても詩織は何も思いつかなかった。どうしようかとしどろもどろしていると、マスターがカウンター越しに手を伸ばしてきた。節々がごつごつとした、男の人の手が額に触れた。

「お疲れだね」
「……っ、ます、たー」
「飲み物はあとにしようか」

 今までにない距離感に詩織は戸惑う。視線がさまよい、言葉が出てこない。飲み物のオーダーを聞かれていたはずなのに、どうして触られているのだろう。そんな疑問が浮かび、頭の中が混乱していた。
 仕事のことならばすぐにどうするべきか思いつくのに、マスターの事になると何も出来なくなってしまう。

「頑張ったね。嫌な役だったんじゃないかな」
「っ、知って、」

――聞かれていたの?

 詩織の心に、恥ずかしさと情けなさが渦巻く。梨花に対して何も出来なかった自分を知られてしまった。どういう顔をしたらいいのか分からず、詩織は俯く。相変わらずマスターの指は詩織の額を撫でている。

「詳しくは知らないよ。梨花ちゃんが勢いよく店を出る音が聞こえた。それに、詩織ちゃんの足音が酷く落ち込んでいたから」

 続いた言葉に、詩織は顔を上げた。マスターと視線がかちりと合った。

「仕事で上手くいった時は、ヒールの音がとても嬉しそうなんだよ」
「……え」
「逆に、上手くいかなかった時は、音がとても悲しそうだ」

 目を合わせたまま、マスターがゆっくりと語る。変わらず額を撫でられており、胸が高鳴る。

「今日は特に『あー、疲れた。悲しい』って足音をしていたよ」
「……っ、」

 マスターは、酷く優しい笑みを浮かべていた。肘をついて、詩織をじっと見つめる瞳には、優しさと労りが詰まっていた。詩織は、そんなマスターに、どうしようもなく甘えたくなってしまった。

「くわ、しくは言えないんですけど」

 言葉を零す度に、涙が一粒零れ落ちる。額に触れていた手が、詩織の前髪を撫でた。話すことを許されたような気がして、詩織は口を開いた。

「もう少し、何とかできたんじゃないかって」
「うん」
「あの子、販売の能力は本当に高かった。センスもいいし……性格にかなり難があったけど」
「うん」
「かんり、ぶって聞いた時には……やっぱり、ショックだった」
 
 話している間、ずっと頭を撫でられていた。その優しさに甘えて、詩織は隠していた後悔を口にした。

「私の下でなければ、もっと……上手くいったのかな」

 自分の下で働いてしまったから、梨花の良いところを伸ばせなかったのでは。センスがよく、客に似合うものを瞬時に見つけられる。それは、梨花の立派な武器だった。本来ならば、そのセンスを磨き、より良いものに導くことが詩織の役割だったはず。押し付けがましく、周りが見えず、自分勝手な行動が多いものの、販売員としては才能があった。それなのに、梨花の才能が全く活かせない場所に異動になってしまった。
 もちろん、間違ったことをしたとは思っていない。後悔もない。
 けれども、割り切った気持ちの奥底に、残っていた燻り。マスターの優しさに甘えて、しまっておくはずだった想いが思わず口から溢れ出てしまった。

「……私が、ダメだったから」

 こんなことを言っても、マスターを困らせるだけだと分かっていた。けれども、溢れ出した嘆きは留まることを知らない。

「いい子ぶってるって分かってます。それでも……」

 自分を正当化するために、泣いているのかもしれない。周りから、「そんなことないよ」
と言って欲しいのだ。浅ましい考えと共に流れる涙に、詩織は心底嫌気がさす。

「そんなことないよ」

 望んでいたけれども、聞きたくなかった言葉が聞こえてきた。マスターは変わらず、優しく微笑んでいる。

「……そう言っても、詩織ちゃんは満足しないでしょう?」
「……っ」

 詩織の単純で浅ましい考えなどとっくの昔に見抜かれていた。柔らかく前髪を撫でてくれていた優しい手を避けるように、詩織は顔を背けた。

「人間って不思議だよね」

 ぽつりと落とされた言葉は、酷く重たく聞こえる。詩織は恐る恐るマスターの方へ顔を向ける。

「僕は元来冷たい人間なんだよ」
「……そんな! マスターはいつも優しいです!」

 詩織の返答などお見通しなのだろう。マスターは変わらず笑顔だ。避けた手がまた伸ばされた。今度は額ではなく、頬に。
 先程よりも親密な触れ合いに、詩織は驚きのあまり固まってしまった。

「……優しくしたいと思うのは君だけだよ」

 この意味、分かる?

 続けられた言葉の意味を正しく理解することは、今の詩織には無理だった。
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