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隠れてないで出てこい!
とりあえず、車のれ!
しおりを挟む「あー……っと」
逃げるな、と言ったあとから、天使は本泣きに入ってしまった。涙で濡れた眼鏡は外されていた。ぽろぽろとアスファルトを濡らす涙に、俺は魅入ってしまう。何か声をかけなくてはと思うが、うまい言葉が出てこない。泣き顔も可愛い、別の所で泣かせたい。なんて、不埒な事を考えていた。しかし、随分と涙で濡れているな……と思っていたら、自分も濡れていることに気がつく。
「……あ?」
おかしい、と思い空を仰げば、雨。ゴロゴロと雷の音も聞こえる。夕立だ。
「おい! 雨降ってきたぞ! 走れ!」
「えっ? え?」
「俺の車、スグそこだから! 取り敢えず、乗れ!」
涙の落ちた頬を擦っていた手を取り、俺は走り出す。雨に濡れる事よりも、握った手の柔らかさが気になって仕方がなかった。小村主任を抱いた日、何度も嬲って舐めた、柔らかい手だった。
振りほどかれるかと杞憂したが、思いの外素直に小村主任は俺の後を着いてきた。ぎゅっと、更に力を込めて手を握る。すると、ほんの少しだが、小村主任が俺の手を握り返してきた。たったそれだけだったが、小村主任を探し続けた日々が報われたような気がした。
「……っあー! 濡れた! 大丈夫か?」
「は、はい……」
車はスグそこと言ったが、雨の勢いが勝ったのか、二人共そこそこ濡れてしまっていた。
「蒸すな……」
外の気温のせいか、車の中はジメジメしていて、不快だった。エンジンをかけ、エアコンを付けると冷たい風がすぐに出てきた。すると今度は、その風が濡れた身体に当たり、一気に体温を奪った。何故か、気化熱の原理が頭の中に浮かんだ。唯子が腕をさする仕草を見つけ、俺はすぐにエアコンの出力をよわめた。
「……せんせい、あの」
濡れた髪や顔を手で拭う。そんな俺を見てか、小村主任はバッグからハンカチを取り出し、俺に差し出した。そんな小村主任もビショビショに濡れている。
「俺はいいから。拭けよ」
「でも……」
小村主任のきっちり固められた髪も、雨のせいかほつれている。毛先からは雫が落ち、小村主任の首筋に落ちる。それが一筋の線を描き、豊満な胸元に落ちた。
「……小村、唯子」
「……っ、はい」
緩和ケア病棟、主任。小村唯子。よく知っている名前だった。名前を呼ぶだけで、抱いた夜が蘇る。俺の迫る雰囲気を察したのか、後ずさるように、唯子が助手席のドアに背中を預けた。逃げ道を塞いだ俺は、唯子に身体を寄せる。あの日、俺を虜にした、香り、身体、声……唯子が、居た。
「唯子……」
「せん、せ」
「……違うだろ?」
ゆうし、だろ?唯子の唇が、自分の名を紡ぐのを俺は待てなかった。
「ん、っ……」
「ゆい、……唯子……」
重なる唇が離れた合間に、ずっと知りたかった名前を呟く。その声色は自分でも驚くくらい色づいていた。名前一つでこんなにも違うものかと俺は驚いた。ぷわぷわの唇から漏れる吐息を全て掬いとるように、唇を重ねる。舌をゆっくりと侵入させる。唯子は俺を受け入れた。
助手席のドアに預けていた唯子の身体を引き寄ようとした時だった。
プーーーーーーー……
狭い車内で盛った罰が当たったのだろうか。俺の腕が、クラクションを盛大に鳴らしている。俺も唯子も、固まってしまった。
「締まらねえ……」
「ふ、ふふっ」
肘を外し、クラクションを止める。よっぽど可笑しかったのか、唯子はずっと笑っている。俺はその笑顔を見て、出会った日の花がほころぶような笑顔を思いだした。
「やっと、笑った」
泣き顔も焦った顔も両方可愛いと思った。けれども、やっぱり女は笑顔が一番可愛い。濡れる唯子の頬にそっと手を添える。俺の言葉に反応してか、それとも先ほどのキスのせいかは分からないが、触れた頬は熱かった。そのまま、涙の痕跡が残る目尻を親指で擦る。眼鏡のない唯子は、とても幼く、あどけない表情をしていた。
半分、意地で探していた。勝手に居なくなったことを責めてやりたいとも思っていたら。けれども、今俺の頭の中を占めているのは別のことだった。
「二人きりになりたい」
「……っ」
一瞬の沈黙の後、私も。
感覚を研ぎ澄ませていなければ聞こえない位の声だった。けれども唯子の発するサインに敏感になっていた俺の耳には、きちんと届いた。
「素直だな」
二人きりになれる場所といえば。と考えて真っ先に浮かんだのが、ホテル。けれども、逃げられた事を考えると、その選択肢は無しだ。
「唯子」
「はい?」
「お前、一人暮らしか?」
「…………は、い」
答えるまでたっぷり間があったことが少しだけ気になった。けれども、今は唯子を逃がさないようにする事の方が大切だった。
「じゃ、おまえんちな」
「……え?」
「文句あるか? 前科一犯」
「……あり、ません」
「じゃ、住所」
有無を言わさない態度で、俺はカーナビの画面をタップした。
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