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第八章 女帝
第八章 女帝 十三
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妻に鼓舞された楊堅は、まず、幼帝の正妃である皇后司馬令姫を廃することにした。
この皇后はまだ幼い少女であったが、その父も尉遅迥に篭絡されて反旗を翻した。
このことを理由としたのだ。
その後臣下一同で幼帝に迫りに迫ったところ、やっと軍を動かす『勅』を引き出すことに成功した。
乱暴なやり方ではあるが、もう時間が無いのだ。
さて、将兵の数だけなら正規軍の方が圧倒的に多い。
皇帝には信用を置いていなくとも楊堅個人には信用を置いている将軍も多かった。
楊堅、尉遅迥共、各自有能な将軍を味方に引き込もうと工作を続けていたが、これには最終的に楊堅が勝った。
悪皇帝のもとで必死に政務をこなし、皇太后麗華の父でありながら、豪奢に溺れず謙虚であったことを心ある者たちは見つめ続けていたのである。
さて夜もふけた頃、楊堅はまた久しぶりに館へと戻ってきた。
「伽羅よ。陛下を廃する準備は整った。
かつてあれほど宇文護を憎んだ私が、強引に『勅』をもぎ取り、年端も行かない陛下を廃することになるとはの。
いまだ信じがたい心地じゃ。
皇后であった司馬氏はすでに廃され、今は皇宮の一室にて監視下に置かれながらお暮らしである。
もちろん、丁重にお預かりしているのでご不自由なく過されておられるが、いずれ仏尼となって俗世から離れていただくことになるだろう。
さて、将兵であるが、我が陣営の方がはるかに多い。
しかしそれだけに、出撃する将兵に持たせる兵糧が少なすぎる。
短期に決着をつけるにしても足らぬのだ。
史書を紐解いても、数に勝る軍が必ず勝つとは言えず、三千の兵が四十二万の兵を破ったことがあるほどだ。
まして敵軍は尉遅将軍が総指揮を取っている。
最低限の備蓄さえ投入して兵糧とするべきか、不測の事態に備えていくらかは王都に残すべきか宮廷内でも意見が割れておる。
そなたの考えを聞かせて欲しい」
楊堅は悩ましげにそう話した。
「官庫をすっかり空にしてでも投入するべきでございます」
伽羅は涼やかに言った。
「早期に決着をつけねばならぬ『背水の陣』であると、各将軍に心構えを説いて下さいませ。
尉遅将軍の調練した軍は、その十倍の数を倒すと言われておりまする。
兵糧も十分でない兵士たちが、どうして勝てましょうか。
また、今後も奢らぬと天に誓いを立てて戦に挑んで下さいませ。そうすれば、天だけではなく、その姿を将兵たちも見るでしょう。あなたさまは必ず勝ちまする。
そして、国都を踏み荒らされることが無ければ、天帝さまのご加護により、穀物は豊穣に実りましょうぞ」
伽羅の励ましに楊堅はうなずいた。
そこで伽羅は、髪から全てのかんざしを引き抜いた。
「しかし、我が家は質素に暮らしてきたので相当な財がございます。
まずはわが身を切って吐き出して、将兵を鼓舞なさいませ。
その昔、蜀の諸葛丞相は、在職のままその命を終えられました。
しかし個人の財は桑八百株、薄田十五頃しか持っておられなかったそうでございます。
墓も棺を入れる大きさがあるだけのものをあらかじめ指定し、副葬品を入れることは決して許さなかったそうでございます。
あなたさまも同じく『丞相』でございますれば、我が家の財は吐き出して、人民のためにお使いくださいませ。
さすれば、あなたさまに続いて私財を差し出す朝臣が必ず現れます。
戦の助けになりましょうぞ」
そう言って、伽羅は引き抜いたかんざしを楊堅の手に握らせた。
「おなごは戦に出ても足手まといでございましょうが、外に出て行けぬなら、かんざしも庭木から削り出したものでも間に合いましょう。
衣裳も質素なものが数枚ありましたら間に合いますので、残りは全てまとめてございます。どうぞお持ちくださいませ。
使い道にもし口を挟んでもよろしければ、換金して并州刺史『李将軍』の部隊に差し上げるのがよろしかろうと思いまする」
そう言って伽羅は、まとめたものをかんざしとともに楊堅に持ち帰らせた。
伽羅は元々質素を好むので、持ち帰らせた数はそう多いわけではない。豪華絢爛なわけでもなかった。
だが、楊堅はその意を汲んで、黙って持ち帰ることにした。
さて、伽羅に名指しされた并州刺史『李将軍』とは何者であろう。
李将軍こと李穆は優れた将で 、彼のもとには天下の精鋭が揃っていると評判であった。
この李将軍は元々楊堅と懇意であったが、尉遅迥は、この将軍こそ最大の難敵と見て、まずはその子息に近づいて篭絡を成し遂げた。
しかし李将軍はかえって息子を説得し、楊堅の側につかせたと史書にある。
そうして、自身は使者を楊堅のもとに送って『とあるもの』を内々に届けさせた。
その『とあるもの』とは『十三環金帯』であったと記されている。
これは皇帝だけが纏うことを許された腰帯であり、楊堅を皇帝に擁立したいとの意をこめたものであった。
さて楊堅は、多くの優秀な味方を得、兵糧の心配も緩和された。
そうして敵軍を各個撃破しながら、たちまちのうちに抵抗勢力を鎮圧していった。
それすら、弓矢の軌跡の半ばに過ぎず、鎮圧完了後は『左大丞相』から『大丞相』となって確固たる地位を築き、次には相国、総百揆、都督内外諸軍事、隋王となった。
翌、大定元年。西暦にして五八一年二月。
伽羅の放った矢は、ついに北周王朝の眉間を射抜く。
楊堅は幼帝に禅譲を迫り、新帝として即位したのだ。
これが、後の世に有名な『隋王朝』の始まりであり、日本ではこの頃、敏達天皇の時代であった。
次に立った用明天皇、崇峻天皇を経て日本初の女性天皇となった推古女帝の時代には、隋王朝に数回の使節団を送っている。
第一回目の『遣隋使』は楊堅や伽羅が存命の頃に来ているが、有名なのは二回目だ。
『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す』
という国書の文面は聖徳太子が考えたものと伝えられている。
それを小野妹子ら遣隋使が隋朝二代目の皇帝―――つまり伽羅の次男・楊広(煬帝)に宛てて携えたものである。
隋王朝を開いた楊堅はその後、北周の皇族、つまり宇文一族を粛清していった。
悪皇帝が、自分になびかぬ清廉な宗族は粛清していたのでかなり数を減らしていたが、宇文家は前王朝の皇族である。いつその子孫、または子孫を御輿に乗せた者たちが反乱を起こすかわからないのだ。
例えば三国志で有名な劉備玄徳。
彼は紀元前二百二年――――隋建国時より約八百年程昔に建った漢皇室の末裔である。
それをもって名乗りを上げたのだが、系譜をたどってみると、いささか薄い。
漢の始祖『劉邦』から下って九代目の皇帝・劉啓(おくり名としては景帝)の庶子の末裔だと言うのだ。
景帝は確かに名君で、祖先として担ぎ出すには都合が良かろう。
しかしながら、彼には二十人弱の子供がおり、劉備はその第九子、中山靖王・劉勝の筋であると言う。
残念ながら劉勝は、景帝の覚えめでたき寵児でも、才人でもなく、ただの庶子の一人であった。
また子だくさんで、彼には男女合わせて五十人程の子供がいる。
この数から察しが付くやもしれぬが、彼は、ありていに言えば酒色に溺れたロクデナシであった。
同腹の兄からも乱行を諫められたが、全く反省せず、かえって兄の勤勉さについて、
「そんな一生では楽しくもなんともないだろう」
と、言い放ち、絶句する兄を横目にそのまま遊び続けて病没した。
このように、先祖がろくでなしであろうが、子孫が貧しいむしろ売りであろうが、主たる系譜を残していては、尊い血筋を旗印にして人が集まり、大規模な反乱を起こす可能性があったのだ。
もちろん、新王朝が民に広く受け入れられ、反乱軍の門戸を叩く者が居ないほど安定した治世であれば別である。
しかし隋王朝は、負の遺産を引き継ぎ、満身創痍で船出している。
また『禅譲』の形を取ってはいるが、実質は『簒奪』であることを多くの者が知っていた。
反乱の芽は速やかに摘まねば『早急な国の立て直し』は難しい。
楊堅は歴史に見られる多くの例に従って、まずは最大の内憂を絶った。
そして彼が幼き日に夢見た通り、血の滴る赤き道を選び、屍を踏み越えて帝位に就いたのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第六章はこれで終わりです。
お読みくださりありがとうございます!!
今回のおまけ話は伽羅の長女、楊麗華についてです。
個人的推測ですが『麗華』という名は『陰 麗華』の影響を持ってつけられたのではとにらんでおります。
『陰 麗華』って誰やねん!! と思われたかもしれませんね。全然有名ではないので。(伽羅もだけど)
彼女は漢王朝の再興を成し遂げた英傑、光武帝(劉秀)の皇后です。
光武帝はあまり有名とは言えませんが教科書に出てくるのでご存知の方は多いと思います。
その光武帝が「妻を娶らば陰麗華」と言っていたほどの美人さんだったようです。
この方は身分は豪族の娘程度でしたが考えが深く、美人ですが、謙虚で質素を好んだことで有名です。
そのためでしょうか、中国史上で最も優れた皇后の一人とされています。
いかにも伽羅や楊堅が好みそうで、史書好きな二人は影響されたのではないかと思うのですが、さて、真相はどなのでしょうね(^^♪
あと、今回出てきた幼帝の皇后『司馬令姫』という幼い少女ですが、殺されること無く史実でも生き延びております。
この幼さなので幼帝との夫婦生活は無かったでしょうね。隋の時代には司隸刺史李丹の妻となっています。刺史は州の長官です。
司隸は州ではありませんが複数の郡をかかえているので州のようなもの。辺境の貧しい州ではなかったので、まずまず豊かな暮らしぶりだったのでは?
生没年は不明ですが、唐の貞観年間まで生存していたようなので、そこそこ長生きしたと思われます。良かった!!
この『司馬令姫』は元をたどると西晋皇帝・司馬炎の血を引く名家なため皇后に立つことが出来たようです。(司馬炎は三国志で有名な司馬仲達の孫でもあります)
賢帝だった皇帝邕の皇后様(阿史那皇后)もご無事です。
隋建国二年目で亡くなりましたが、皇帝楊堅は礼をもって彼女を葬るよう命じ、皇帝邕の眠る帝陵・孝陵に合葬されました。
伽羅はそれとは別に、彼女の冥福のために寺を建てさせたとの記録が残っています。
この皇后はまだ幼い少女であったが、その父も尉遅迥に篭絡されて反旗を翻した。
このことを理由としたのだ。
その後臣下一同で幼帝に迫りに迫ったところ、やっと軍を動かす『勅』を引き出すことに成功した。
乱暴なやり方ではあるが、もう時間が無いのだ。
さて、将兵の数だけなら正規軍の方が圧倒的に多い。
皇帝には信用を置いていなくとも楊堅個人には信用を置いている将軍も多かった。
楊堅、尉遅迥共、各自有能な将軍を味方に引き込もうと工作を続けていたが、これには最終的に楊堅が勝った。
悪皇帝のもとで必死に政務をこなし、皇太后麗華の父でありながら、豪奢に溺れず謙虚であったことを心ある者たちは見つめ続けていたのである。
さて夜もふけた頃、楊堅はまた久しぶりに館へと戻ってきた。
「伽羅よ。陛下を廃する準備は整った。
かつてあれほど宇文護を憎んだ私が、強引に『勅』をもぎ取り、年端も行かない陛下を廃することになるとはの。
いまだ信じがたい心地じゃ。
皇后であった司馬氏はすでに廃され、今は皇宮の一室にて監視下に置かれながらお暮らしである。
もちろん、丁重にお預かりしているのでご不自由なく過されておられるが、いずれ仏尼となって俗世から離れていただくことになるだろう。
さて、将兵であるが、我が陣営の方がはるかに多い。
しかしそれだけに、出撃する将兵に持たせる兵糧が少なすぎる。
短期に決着をつけるにしても足らぬのだ。
史書を紐解いても、数に勝る軍が必ず勝つとは言えず、三千の兵が四十二万の兵を破ったことがあるほどだ。
まして敵軍は尉遅将軍が総指揮を取っている。
最低限の備蓄さえ投入して兵糧とするべきか、不測の事態に備えていくらかは王都に残すべきか宮廷内でも意見が割れておる。
そなたの考えを聞かせて欲しい」
楊堅は悩ましげにそう話した。
「官庫をすっかり空にしてでも投入するべきでございます」
伽羅は涼やかに言った。
「早期に決着をつけねばならぬ『背水の陣』であると、各将軍に心構えを説いて下さいませ。
尉遅将軍の調練した軍は、その十倍の数を倒すと言われておりまする。
兵糧も十分でない兵士たちが、どうして勝てましょうか。
また、今後も奢らぬと天に誓いを立てて戦に挑んで下さいませ。そうすれば、天だけではなく、その姿を将兵たちも見るでしょう。あなたさまは必ず勝ちまする。
そして、国都を踏み荒らされることが無ければ、天帝さまのご加護により、穀物は豊穣に実りましょうぞ」
伽羅の励ましに楊堅はうなずいた。
そこで伽羅は、髪から全てのかんざしを引き抜いた。
「しかし、我が家は質素に暮らしてきたので相当な財がございます。
まずはわが身を切って吐き出して、将兵を鼓舞なさいませ。
その昔、蜀の諸葛丞相は、在職のままその命を終えられました。
しかし個人の財は桑八百株、薄田十五頃しか持っておられなかったそうでございます。
墓も棺を入れる大きさがあるだけのものをあらかじめ指定し、副葬品を入れることは決して許さなかったそうでございます。
あなたさまも同じく『丞相』でございますれば、我が家の財は吐き出して、人民のためにお使いくださいませ。
さすれば、あなたさまに続いて私財を差し出す朝臣が必ず現れます。
戦の助けになりましょうぞ」
そう言って、伽羅は引き抜いたかんざしを楊堅の手に握らせた。
「おなごは戦に出ても足手まといでございましょうが、外に出て行けぬなら、かんざしも庭木から削り出したものでも間に合いましょう。
衣裳も質素なものが数枚ありましたら間に合いますので、残りは全てまとめてございます。どうぞお持ちくださいませ。
使い道にもし口を挟んでもよろしければ、換金して并州刺史『李将軍』の部隊に差し上げるのがよろしかろうと思いまする」
そう言って伽羅は、まとめたものをかんざしとともに楊堅に持ち帰らせた。
伽羅は元々質素を好むので、持ち帰らせた数はそう多いわけではない。豪華絢爛なわけでもなかった。
だが、楊堅はその意を汲んで、黙って持ち帰ることにした。
さて、伽羅に名指しされた并州刺史『李将軍』とは何者であろう。
李将軍こと李穆は優れた将で 、彼のもとには天下の精鋭が揃っていると評判であった。
この李将軍は元々楊堅と懇意であったが、尉遅迥は、この将軍こそ最大の難敵と見て、まずはその子息に近づいて篭絡を成し遂げた。
しかし李将軍はかえって息子を説得し、楊堅の側につかせたと史書にある。
そうして、自身は使者を楊堅のもとに送って『とあるもの』を内々に届けさせた。
その『とあるもの』とは『十三環金帯』であったと記されている。
これは皇帝だけが纏うことを許された腰帯であり、楊堅を皇帝に擁立したいとの意をこめたものであった。
さて楊堅は、多くの優秀な味方を得、兵糧の心配も緩和された。
そうして敵軍を各個撃破しながら、たちまちのうちに抵抗勢力を鎮圧していった。
それすら、弓矢の軌跡の半ばに過ぎず、鎮圧完了後は『左大丞相』から『大丞相』となって確固たる地位を築き、次には相国、総百揆、都督内外諸軍事、隋王となった。
翌、大定元年。西暦にして五八一年二月。
伽羅の放った矢は、ついに北周王朝の眉間を射抜く。
楊堅は幼帝に禅譲を迫り、新帝として即位したのだ。
これが、後の世に有名な『隋王朝』の始まりであり、日本ではこの頃、敏達天皇の時代であった。
次に立った用明天皇、崇峻天皇を経て日本初の女性天皇となった推古女帝の時代には、隋王朝に数回の使節団を送っている。
第一回目の『遣隋使』は楊堅や伽羅が存命の頃に来ているが、有名なのは二回目だ。
『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す』
という国書の文面は聖徳太子が考えたものと伝えられている。
それを小野妹子ら遣隋使が隋朝二代目の皇帝―――つまり伽羅の次男・楊広(煬帝)に宛てて携えたものである。
隋王朝を開いた楊堅はその後、北周の皇族、つまり宇文一族を粛清していった。
悪皇帝が、自分になびかぬ清廉な宗族は粛清していたのでかなり数を減らしていたが、宇文家は前王朝の皇族である。いつその子孫、または子孫を御輿に乗せた者たちが反乱を起こすかわからないのだ。
例えば三国志で有名な劉備玄徳。
彼は紀元前二百二年――――隋建国時より約八百年程昔に建った漢皇室の末裔である。
それをもって名乗りを上げたのだが、系譜をたどってみると、いささか薄い。
漢の始祖『劉邦』から下って九代目の皇帝・劉啓(おくり名としては景帝)の庶子の末裔だと言うのだ。
景帝は確かに名君で、祖先として担ぎ出すには都合が良かろう。
しかしながら、彼には二十人弱の子供がおり、劉備はその第九子、中山靖王・劉勝の筋であると言う。
残念ながら劉勝は、景帝の覚えめでたき寵児でも、才人でもなく、ただの庶子の一人であった。
また子だくさんで、彼には男女合わせて五十人程の子供がいる。
この数から察しが付くやもしれぬが、彼は、ありていに言えば酒色に溺れたロクデナシであった。
同腹の兄からも乱行を諫められたが、全く反省せず、かえって兄の勤勉さについて、
「そんな一生では楽しくもなんともないだろう」
と、言い放ち、絶句する兄を横目にそのまま遊び続けて病没した。
このように、先祖がろくでなしであろうが、子孫が貧しいむしろ売りであろうが、主たる系譜を残していては、尊い血筋を旗印にして人が集まり、大規模な反乱を起こす可能性があったのだ。
もちろん、新王朝が民に広く受け入れられ、反乱軍の門戸を叩く者が居ないほど安定した治世であれば別である。
しかし隋王朝は、負の遺産を引き継ぎ、満身創痍で船出している。
また『禅譲』の形を取ってはいるが、実質は『簒奪』であることを多くの者が知っていた。
反乱の芽は速やかに摘まねば『早急な国の立て直し』は難しい。
楊堅は歴史に見られる多くの例に従って、まずは最大の内憂を絶った。
そして彼が幼き日に夢見た通り、血の滴る赤き道を選び、屍を踏み越えて帝位に就いたのである。
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第六章はこれで終わりです。
お読みくださりありがとうございます!!
今回のおまけ話は伽羅の長女、楊麗華についてです。
個人的推測ですが『麗華』という名は『陰 麗華』の影響を持ってつけられたのではとにらんでおります。
『陰 麗華』って誰やねん!! と思われたかもしれませんね。全然有名ではないので。(伽羅もだけど)
彼女は漢王朝の再興を成し遂げた英傑、光武帝(劉秀)の皇后です。
光武帝はあまり有名とは言えませんが教科書に出てくるのでご存知の方は多いと思います。
その光武帝が「妻を娶らば陰麗華」と言っていたほどの美人さんだったようです。
この方は身分は豪族の娘程度でしたが考えが深く、美人ですが、謙虚で質素を好んだことで有名です。
そのためでしょうか、中国史上で最も優れた皇后の一人とされています。
いかにも伽羅や楊堅が好みそうで、史書好きな二人は影響されたのではないかと思うのですが、さて、真相はどなのでしょうね(^^♪
あと、今回出てきた幼帝の皇后『司馬令姫』という幼い少女ですが、殺されること無く史実でも生き延びております。
この幼さなので幼帝との夫婦生活は無かったでしょうね。隋の時代には司隸刺史李丹の妻となっています。刺史は州の長官です。
司隸は州ではありませんが複数の郡をかかえているので州のようなもの。辺境の貧しい州ではなかったので、まずまず豊かな暮らしぶりだったのでは?
生没年は不明ですが、唐の貞観年間まで生存していたようなので、そこそこ長生きしたと思われます。良かった!!
この『司馬令姫』は元をたどると西晋皇帝・司馬炎の血を引く名家なため皇后に立つことが出来たようです。(司馬炎は三国志で有名な司馬仲達の孫でもあります)
賢帝だった皇帝邕の皇后様(阿史那皇后)もご無事です。
隋建国二年目で亡くなりましたが、皇帝楊堅は礼をもって彼女を葬るよう命じ、皇帝邕の眠る帝陵・孝陵に合葬されました。
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