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アザマロ譚
六 謀
しおりを挟む奥州街道。
路傍に咲き乱れるリンドウやナナカマドを、無数の軍靴が踏み潰していく。
青紫色の花と紅葉した赤い実が押し潰されて流れ出る汁は、虐げられた陸奥の
民の血を想起させた。
平城京。
勿来の関を抜け、解任された藤原継縄と共に約一月を要して陰陽師が帰京した
のは朝方に霜が降りる、まさに霜月の頃であった。
その足で所属する陰陽寮に行き、陰陽博士にかの地における状況を報告した。
個人的に、アザマロに襲われた事までは言わなかった。
長い旅路の末、病や流れ矢に当たって死に至る危険のある陸奥から生還した事
に対して、労いの言葉一つも無かった。
それどころか、博士は三度、陸奥への下京をニベも無く促した。
大内裏から出る事もなく、実際に現地で矢面に立つのは自分なのだ。
博士に都合よく手足のように扱われる事に対して、以前から不満を持っていた。
政治的野心を持つ博士は、己の後任人事を血縁関係の者に決めていて、陰陽寮
における院政を敷こうと画策していた。
在籍する六名の陰陽師の中で、自分だけが都落ちを命ぜられ、冷遇されている。
部下の仕事は上役の手柄を立てる事と承知はしているものの、文句も言わず粉
骨砕身に仕えた、その結果はどうだ。
博士の人となりからは予想された事とはいえ、陰陽師は腸が煮え繰り返る思い
にひたすら耐えた。
再び、陸奥に派遣されれば、アザマロとの一件から自身の命が危うい。
ぞんざいに扱われた末、ボロ切れを捨てるように辺境に追いやるなど、まるで
流刑も同じだ。
出世街道から外れて、遥か北の果てで朽ち果てる事など、到底受け入れられる
ものではない。
陰陽師は、決意した。
このままでは、終われない。
そして、その陰陽師は、博士暗殺のある企てを練った。
寝て待っていると、やっと月が昇ってくるというほどに月の出が遅いので、そ
の呼び名が付いている寝待月の晩だった。
陰陽師は、二本の瓶子を持参して、無類の酒好きで好々爺然とした暦博士の屋
敷を訪ねた。
陰陽博士と共に陰陽寮に在籍する暦博士は、日月運行の度数を測り、暦を作る
暦数の技術官として暦学を司っていた。
正確無比な暦を朝廷に奏上するのが暦博士の仕事であり、その暦を元に様々な
年中行事が組まれる。
永らく江戸時代まで使われた太陰暦は、月の満ち欠けを基準に作られていた。
呪術や祈祷を生業とする陰陽道に必要不可欠な星々の動きを観るには、天体に
おける専門知識が要求される。
暦を作る天文記録は門外不出であり、一介の陰陽師には入手困難であった。
「さ、一献。陸奥土産です」
陰陽師が、盃に濁酒を並々と注いで勧めた。
「かたじけない」
酒に目の無い暦博士は、遠慮なく呑み干した。
陰陽師は、別の瓶子から手酌で呑んだ。
「これは、またうまい。しかし、遠路遥々陸奥まで、そちも大変よのう」
暦博士は、北方の酒の味に満足した様子である。
「いえ、務めに御座りますれば」
陰陽師は、暦博士に続けて酌をした。
「陸奥と言えば、いつもの年とは異なり、この秋の十五夜は月が僅かながら欠け
ておりました。月蝕の影響でしょうか」
「五年に二度、月余りの閏年は知っておろう」
「はい」
「蝕で欠けるは、その不足分を調整しているのだ」
「なるほど。さすがは、暦博士」
陰陽師は、おだてた。
「何、それがワシの仕事である」
誉められて満更でも無いといった風で、暦博士はほろ酔い加減から酩酊状態に
なっていた。
「では、日も月と同様と考えてよろしいのですか」
「さよう。今年は月蝕。次は、日蝕だ」
「それはいつの事で」
更に、酒を勧めながら陰陽師は催眠術を使って聞いた。
「再来年、十五夜の明けじゃ」
陰陽師の誘導尋問に、暦博士は他言無用の事柄についてもつい口を滑らせた。
陰陽師は、序列上自分の上官である陰陽博士に聞く事が憚られる日蝕に関する
正確な日時を、暦博士から聞き出す事に成功した。
酒に強い筈の暦博士は、短時間で泥酔して意識朦朧となり、強い催眠効果に襲
われた。
一方の陰陽師は、素面だった。彼が呑んでいたのは、水であった。
暦博士が呑む瓶子には、椎茸のカサの裏に付着している粉末が混ぜられていた。
椎茸の粉は、酔いを急激に増幅させる酵母作用がある。
今、話した事を忘れるように術をかけた後、昏睡した暦博士を置いて、静かに
陰陽師は立ち上がった。
国府多賀城。
いつもは落ち着きがある坊さん(師)でも、この時期は非常に忙しくて走ると
いう師走のさなか、朝廷において参議を務めていた古老の藤原小黒麻呂が新しく
将軍の座に就いた。
度重なる将軍の首のすげ替えにより、御鉢が回ってきたのだった。
盛りを過ぎた齢五十にして、小黒麻呂は人生最後の大勝負に出た。
同じ藤原姓として、継縄のようなブザマな家系と一緒にされて没落する訳には
いかない。
陸奥下向における手柄の土産を足がかりにして、最高官位である太政大臣に登
りつめるつもりだった。
そして、人事権を握った後は身内の者を内裏に推挙して、次世代にも影響力を
残しつつ一族の派閥を磐石なものとしたかった。
付随して任官された四人の副将軍の中には、本人の強い希望もあり、引き続い
て紀古佐美も名を連ねていた。
まるで、アザマロは鬼のようであったと、副将紀古佐美は伝えた。
「胆沢から先の日高見は、鬼の棲む国と噂されるが、まことさような事があろう
か」
新将軍小黒麻呂は、言った。
「鬼とは大袈裟な。畜生にも劣る獣の一匹や二匹に怖気づくなど、私がその陸奥
の夷狄を退治してみせましょうぞ」
新任の渡来系副将軍、百済王俊哲が自身ありげに言った。
当てつけがましく言う俊哲を、古株の古佐美は睨んだ。
「何か、策でもあるのか」
ムッとしている古佐美を一瞥しながら将軍が、俊哲の方に顔を向けた。
「はい、兵の数を頼むより質が大事。夷を以って夷を征す。噛ませ犬を使います
る」
京言葉を端々に響かせて、俊哲は皮肉交じりに吹聴した。
「この北国では、春までは戦など不可能です。陸奥の地形を熟知し、妖刀を使う
アザマロは侮れませぬ。まず、出城を造って橋頭堡を築いた後に、じっくりと攻
めるのが肝要かと。アザマロを他のエミシから孤立させて、燻り出すのです」
古佐美が、進言した。
「将軍。アザマロとやらを見せしめに討つのが先決です。そやつがエミシを束ね
でもしたら、それこそ手を焼く事に」
俊哲は、持論を主張した。
「どちらも一理ある。俊哲には、手勢を率いて討伐へ。古佐美は、夷俘を集めて
築城の手配に取り掛かれ」
将軍が、下知をした。
「はは」
副将達は、返答した。
独裁的な紀広純、事勿れ主義の藤原継縄らの前任の将軍達とは異なり、小黒麻
呂は人を使う調整型の大将であった。
小黒麻呂が折衷案を取ったのは、副将同士の不協和音を避けるという単純な事
ではなく、それなりの訳があった。
新たに城を築くには、その周辺の敵を遠ざけておかなければならない。
俊哲にアザマロを狩り出させている間、他のエミシにも睨みが利く。
注意を逸らしている間に、着々と築城していくというものだった。
随行者として、陰陽師がとんぼ返りのように陸奥に舞い戻される事になった。
アザマロとナギは、夏の間は高地の木の上に、鳥の巣のような物を作って暑さ
を凌いだ。
夏バテ対策には、体の大きさが20㎝にも達し、牛に似た太い声で鳴くウシガ
エルや蛇の皮を剥いで滋養をとった。
カエルや蛇は鶏肉に近い味がするとされ、貴重なタンパク源であった。
秋には鮭を燻製にして、冬の保存食とした。
更に、アナグマを捕まえた。
クマという名が付いてはいるが、イタチの仲間である。
日本のアナグマはタヌキに似ていて、自然の中でちょっと外形を見るだけでは
見分けがつかない。
よく、タヌキ汁の話を聞くが、本当に美味しいタヌキ汁はアナグマだそうだ。
冬は洞窟に潜って、雪から逃れた。
洞窟内に流れている清水には、大山椒魚がいたので、それを焼いて食べた。
現在では天然記念物に指定され、絶滅が危惧されているが、かつては相当数棲
息していた。
味は牛肉に似て、大変美味であるという。
地下道の奥には冬眠中のコウモリも無数にいるので、それも潰して食べた。
蝦夷と呼ばれたアザマロのような山の民にとって、生きる事とは常に食べ物を
探す作業の連続であり、人との殺し合いは本来無用なものであった。
しかし、食べる事と同様に身を守るためには、戦わなくてはいけない時がある。
執拗に武装して京から攻めて来る朝廷軍は、動物界における縄張り争いと同じ
種類のものだった。
ただ、動物達と異なる点は、ヤツラの欲望には際限が無いという事だ。
叩いても叩いても、後から後から蛆虫のように湧き出てくる。
逃げて身を隠すだけでは、解決しない。
自分の居場所を確保するには、ヤツラを近付けてはいけない。
そのためには、ヤツラよりも強い者がいる事を知らしめなければならない。
弱い者や抵抗する者を殺し、それでも足りずに鬼術を操って、獣に貶めたりも
する。
ミヤコと呼ぶ場所から襲って来る兇暴な魔物を滅ぼさなくては、この日高見に
未来は無い。
アザマロは、雪に閉ざされた冬の間中、暗い穴倉で考えを巡らせていった。
狼は、決して人に近付かない。
夜になると、アザマロは外に出て行った。
昼の間、鷹として空を舞っていたナギは、狼と入れ替わるようにして洞窟に戻
った。
一人きりで何もする事もないナギは、夜なべをして着る物を編んだりして過ご
した。
当然ながら獣でいる時は裸でいられるが、ヒトに戻った時には、たまらなく寒
い。
氷点下の気温に耐えるには、厚着をしなければならなかった。
焚き木を節約するためにも、防寒用の上着として自分とアザマロの二人分を拵
えた。
アザマロは食糧を、ナギは衣類を担当する分業が、いつのまにか二人の間に成
立していた。
平城京。
一向にはかどらない蝦夷征伐を苦慮した帝は、陰陽博士に吉凶を占わせた。
その結果、鬼の影響が強いと出た。
六十日の内、一六日間は天一天上にあり、その他は巡行して東・西・南・北に
各五日間ずつ、北東・南東・南西・北西にそれぞれ滞留する神を、陰陽道におい
ては天一神と言う。
この神がいる方角は、“方塞がり”であるとして、その方角に向かって行く事
を嫌った。
帝は魔を祓う意味で、陰陽博士から勧められた物忌みを行なって年を越した。
中国の古い言い伝えによれば、革命が起きる辛酉の年であった。
帝位在位中、十一度目の年が明けて四方拝を執り行なった後、次期皇位につい
て急激な動きがあった。
光仁帝の皇后は、皇室の先祖を祀る伊勢神宮に奉仕する伊勢斎宮を務めた経歴
があり、聖武天皇の皇女時代には井上内親王と名乗っていた。
その実子である他戸部親王は、血統的にも皇太子として申し分無い存在である。
しかし、帝を呪詛していたとして皇后・皇太子共に、突然廃される事件が起こ
った。
更に、難波内親王をも呪ったとして、人質に捕られるように母子二人は幽閉さ
れた。
政変が起きたのである。
皇位の継承儀式である践祚が行なわれ、年号である宝龜を一二年(781)で
終わらせて天応元年と改元された。
帝の足元は揺らぎ始め、陸奥の蝦夷征伐どころではなくなっていた。
冬の間に凍った北国の土も柔らかくなり、白い卯の花が咲き乱れる卯月になっ
た。
副将古佐美は、新たなる進出拠点としての出城の場所選定に取り掛かっていた。
それに際して、江刺の実力者である蝦夷を伊治城に呼んだ。
イサセコ(伊佐西古)と名乗る大柄な男に、交易権と共に吉弥候と賜姓を与え
て爵位も授け、江刺地方における俘囚長に任じた。
既にこの地を実質上治めていて、何ら失うものの無いイサセコにとっては、朝
廷からの申し出を断わる理由も無かった。
「江刺より下った処に、小さな柵を設けたい」
イサセコとの関係を築いてから、古佐美は本来の目的の話を切り出した。
「サク?」
イサセコが、聞き直した。
「我等が休憩する場所だ。そちらの家々を借りる訳にもいかぬであろう」
古佐美は、軽い調子で続けた。
「そこで、何をする」
「帝が望む金を採るための準備だ」
「ミカド?」
江刺において金は無用の長物だったが、ミカドという言葉にイサセコは反応し
た。
「神とお呼びしても良い」
「お主等のカミであろう」
「お前も既に臣下ぞ。とにかく、早急に柵を造らせてもらう」
「どのくらいの広さだ」
「何、ほんの数十名程が寝泊りするぐらいだ」
「その程度なら、好きにするがいい」
イサセコは、武力を持って自分達の家屋に上がり込まれるよりマシだと思い、
柵の造営の許可を出したのだった。
無駄に争わず、柵造りの材料と京の絹織物等を物々交換して、双方が富めれば
それに越した事は無いと考えたからだ。
この時はまだ、イサセコ自身、紀古佐美を結果的に謀る事になろうとは、夢に
も考えていなかった。
陰陽師が、地面を踏みならして反閇をしながら立位礼拝をしていた。
伊治城より北の胆沢側に、覚べつ城と名付けられた柵の建築に当たり、陰陽師
が土地の神を鎮める地鎮祭を行なうべく、その儀式が行なわれた。
将軍と四人の副将の内、二名が国府に残り、古佐美と俊哲の二名が地鎮祭に出
席した。
「陰陽師殿」
清めの儀式の後で、俊哲が陰陽師を呼び止めた。
「アザマロとやらが狼にされたというのは、まことでござるか」
中務省陰陽寮は、帝が重用する役所でもあったので、そこに所属する陰陽師に
対して俊哲は丁寧な口調で応対した。
「……」
陰陽師は、俊哲の質問の真意を考えあぐねた。
「連れの女は鷹になったとも。であれば、鷹を追えば狼に辿り着く道理」
俊哲は宮中に居た時に、アザマロの血で塗れたナギの髪で呪術をかけたという
話を小黒麻呂から聞き及んでいた。
呪詛に用いた血塗れの髪を陸奥から持ち帰ったのが、目の前にいる陰陽師であ
るという事も突き止めた。
朝廷における処世術として、耳聡い情報力を持っていたのだった。
「何を、聞きたい」
「以前、アザマロらしき者に前将軍が襲撃された折り、鷹の羽毛を拾われてござ
らぬか」
「……」
俊哲が何を考えているのかが見当もつかなかったので、陰陽師は即答を避けた。
「ヤツを狩るのに、是非お力をお借りしたい。詳細は伊治城に戻ってから、改め
て伺いまする」
そう言い残すと、周囲を憚るように俊哲が踵を返した。
古佐美の方は、柵に必要な木材とそれを繋げる木釘の材料の卯木を、イサセコ
を通じて大量に確保し、夷俘を掻き集めて昼夜を通じて築城の突貫工事を行なう
ように指示した。
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