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 何も無い、男がいた。
 家族も国籍も名前、そして両眼の視力さえなかった。
 アイスピックが、間隔を置いて開かれた左手の五本の指に振り下ろされた。
 鮮血が流れた。
 左手の中指から、その切っ先が抜かれて再び指の間を順番に突いていく。
 その速度が次第に増していった。
 文字通り、血の滲むような努力が重ねられた。

  新宿・歌舞伎町。
 裏と表の風俗街を中心とした不夜城である。
 通りのネオンきらめくパチンコ屋とは対照的に、薄暗い路地にその景品換金所
があった。
 左手の中指に傷痕を持つ一人の盲目の青年が、換金所のオヤジからICレコー
ダーと札束を受け取った。
 チャイニーズ・レストラン。
 そこは、日本人が滅多に利用しない在留中国人御用達、中国人租界の店だった。
 黒社会の幹部達が、静かに会食していた。
 数人のいかついボディガード達が、遠巻きに囲むように警戒している。
 入口の自動ドアが開いた。
 ロビーに、手袋をして杖をつきながらサングラス姿の盲目の青年が、おぼつか
ない足取りで入って来た。
「お客様」
 タキシードを着用した受付係が北京語で声をかけた瞬間、青年が係の男の腹を
杖で突いた。
「ぐっ」
 係の男が、その場に倒れ込んだ。
〝チッ、チッ、チッ〟
 青年は、舌を鳴らした。
 舌打ちの反響音によって、周囲の凹凸が手に取るように判った。
 コウモリが超音波を発して、戻ってくる波長を耳で受け取りながら暗闇でも自
由に空を飛べるのと同様だった。
 盲目の青年は、幹部達のいるテーブルに向かった。
「おい」
  ボディガードの一人が広東語で話しかけ、青年に触れようとした時だった。
 杖の仕込み刀が抜かれ、アッという間に三人のボディガードが斬られた。
 その返り血が、近くにいたウエイトレスのチャイナドレスに飛び散った。
「キャーッッッ!」
 ウエイトレスは、悲鳴を上げながら恐怖に立ちすくんだ。
「どこの鉄砲玉だ!」
 幹部の一人が、広東語で怒鳴った。
 青年が、耳をそばだてた。
 その声は、パチンコ屋の換金所から入手したICレコーダーの会話音と同じ人
物のモノだった。
 倒れたはずのボディガードの一人が、血まみれになりながらも拳銃を構えた。
 その気配を感じた青年が、懐から銃を抜きざまにボディガードを撃った。
「うわっ」
 銃撃戦に備えて、一般客達がそれぞれのテーブルに伏せた。
 幹部達も腹這いになりながら身を隠す場所を求めた。
「や、やめろっ」
 嘆願する間もなく、頭と心臓に一発ずつ浴びて、声の主は射殺された。
 盲目の青年は問答無用のまま一言も発せずに、悠然と逃走した。

 大久保通り一角に、窓のない要塞のようなビルがあった。
 オフィスの電話から、ある男が台湾語で何事か指示を出している。
 台湾語を操る男が、会話の途中で首を手の平で切るしぐさをした。

 遠くに聳え立つ都庁舎が見える安マンションに、杖をついた青年が帰宅した。
 居住空間は、昼だというのにブラインドが降ろされている。
 傍らに携帯電話の置かれたベッドが一つあるだけの、生活感の無い部屋だった。
 青年は、杖を置いて上着を脱いだ。
 拳銃の入ったショルダーとヒップの各ホルスター、そして、予備のマガジンを
取り去った。
 手榴弾を数個とサバイバルナイフの付けられたベルトを外し、右足首にテーピ
ングしたバタフライナイフをベッドに置いた。
 特殊部隊並の重装備である。青年は全裸になり、バスルームに向かった。
 シャワーを浴びる間も、右手にはバタフライナイフが握られていた。
 カラスの行水のごとく数分で身体を洗い、ベッドに戻った。
 脚をマッサージした後、右足首にナイフを付けたまま横になり、やがて浅い眠
りに落ちた。
   *   *   *
 香港には、昔から和同楽・和合桃・新義安という三つの組織があった。
 その他に中国本土から流れて来た14K等を総称して、黒社会(チャイニーズ
・マフィア)と言う。
 1997年にイギリスから中国に返還される直前、街の浄化令の下に九龍城が
爆破され、暴力追放キャンペーンが実施された。
 これに対して、黒社会は無益な組織内抗争に終止符を打ち政府との癒着を画策
した。
 そして、組織を合法化する事により、裏と表の顔を巧みにすり替えたのである。
 しかし、時流に乗れずに淘汰された弱小マフィアも多かった。
 これらは、竹聯幇・四海幇・天道盟の三大勢力となって、台湾に拠点を移して
根付いた。
 その男の子は、そんな時代に生を受けた。
 漢字の羅列する台北の歓楽街に、日本の中年男の買春客と安ホテルに入る年端
もいかない街娼の姿があった。
 売春で生計を立てる少女達は、出産すると商売にならなかったので、まだへそ
の緒も取れていない嬰児がコインロッカーに捨てられた。
 遺棄されたまま亡くなる児が多い中、生き長らえた子供はスラム街でストリー
トチルドレンと呼ばれる浮浪児として、カラスを追い払いながらゴミ箱をアサッ
て日々を凌いでいた。
 ニキビ面になるまでに成長したその男の子は、夜の繁華街でポン引きを生業と
した。
 それぞれ三つの組織は、台北の限られたパイを争奪し合って、激しい抗争を繰
り返す頃には少年は路地裏でドラッグを売りさばくイッパシのチンピラとなって
いた。
 市街で派手な銃撃戦を演じるマフィア同士の激化する抗争に、市民にも多大な
死傷者が出た。
 時の政府は【一清専案】というスローガンのもとに武装警官を使って、マフィ
アを次々に逮捕し、強硬な撲滅運動を展開した。
 行き場を失った台湾マフィアは海を渡り、裕福な日本にマーケットを求めたの
は必然だった。
 狭くて汚く暗い貨物船に身一つで痩せてはいるが、眼光だけはギラつかせた密
入国者達がじっと息をひそめている。
 その中に、その青年も混じっていた。
 日本に密入国した青年は、中央に孔を開けて五百円玉と同じ重さに変造された
ウォン硬貨を次々に自販機に投入させ、その釣銭を詐取して暮らしていた。
 手先が器用だった事から、拳銃の密造を手伝っていた時だった。突然、暴発事
故が起こったのだ。
「うわああああああああぁ―っっっ」
 青年が、両眼を押さえながら悶えた。
 目の前が、真っ赤に染まった。
 この瞬間に、視力を完全に失った。
   *   *   *
 ガバッと、ベッドから青年が起き上がった。
 悪夢な過去のフラッシュバックだった。
 全身びっしょりと寝汗をかき、額から玉のような汗が流れ落ちた。
 顔面の汗をぬぐう手の間から、瞳のない白目の両眼が見える。
 目覚めても、盲目の青年には現実そのものが悪夢だった。

 一台のバンが、停まった。
 車内時計が、深夜3時を回っている。
 数人の暗視ゴーグルを装着した男達が、バンから降りた。
 特殊部隊のような服装の、その男達の向かう先は盲目の青年の住居だった。
 男達が辺りをうかがうようにして、表札の無いドアの前に忍び寄った。
 一人が、ノブを特殊な工具で開けようとしていた。
 ドア裏には何重にも鍵が取り付けられていたので、容易には開かなかった。
 開錠に手間取るのにシビレを切らした別の男が、サブマシンガンを構えた。
〝ガガガガガガガ!〟
 ノブが蜂の巣になり、ドアはブチ破られた。
 ゴーグルの赤外線ライトが部屋を照らした瞬間、男達の二人が中から狙撃され
て倒れた。
 残った男達は暗闇の室内に向かって、機銃掃射で応戦した。
「何の騒ぎだ」
「何時だと、思ってんのよ。こんな夜中に」
 隣室の夫妻が、パジャマのまま起き出して来た。
 隣に誰が住んでいるかも分からないという都市部にありがちな無関心状態でも、
さすがにクレームを言わなければいけない状況ではあった。
 現実に数年来住んでいながらも火事の時、初めて隣近所の住人の顔を見たとい
うのは、都会生活においては決して珍しくはない。
 頻繁な引っ越し等で常にその居住者が変わり、オートロックなどの設備により
部屋の一歩外はもう公道と同じ感覚で皆生きている。
 表札も出さない無名性ゆえ、隣室のピアノ音を消す替わりに隣人そのものを殺
してしまうという異常な事件が起こったりする。
 だから、たとえ指名手配犯が隣に潜伏していてもなかなか見つからないのだ。
 逃亡犯の隠れ場所には、都会が最も適しているのも事実である。
 リーダー格の男が隣室を促した。部下達が指示通りに入って行く。
「おい、何だ。キミ達は」
  抗議する夫を、部下が何のためらいもなく撃ち殺した。
「な、何すんのよっ!」
 妻も悲鳴を上げる間もなく、背後から頭を一発で仕留められてしまった。
 部下達は、土足のままベランダに乱入して行った。
 裏から挟み撃ちにしようとして、青年の部屋の窓に近づいた時だった。
 ピンの抜かれた手榴弾が転がってきた。
「っ!」
〝ドカーン〟
 それに気づいた頃には、ベランダごと吹き飛んでいた。
 あまり手間取るので、リーダーが時計を見た。
 爆発の煙で周囲が曇ってしまい、思わずマスクを外して腕時計のストップウォ
ッチを確認した。
 その時、ベッド下に隠れていた9歳ぐらいの少女と視線が合った。
 迂闊にも顔を見られたリーダーは、少女に銃口を向けた。
「っ?」
 リーダーが、痛みを覚えた。
 発砲する前に、リーダーの利き腕に銃弾が当たったのだった。
 間一髪の所で、少女の命が救われた。
 パトカーのサイレンが、鳴り響いてきた。
 リーダーの合図の下、男達が素早く撤収して行った。
 赤色灯が両親の無残な亡骸を映し出した。
 それを、ポツンと少女が見ていた。
 ショックで、呆然としていた。
 盲目の青年がそこを立ち去ろうとすると、少女は青年の両足にしがみついた。
 青年は払いのけようとしたが、少女は頑強に無言のまま同伴を主張した。
 いよいよ、警察が近づいて来た。
 青年は、仕方なく少女を連れて外に出た。
 眼が不自由な事に気付いた少女は、青年の手を引いて通りに出ると、右手を上
げてタクシーを呼び止めた。
 少女が先に乗り込み、青年は無言だった。
「どちらまで?」
 運転手は、聞いた。
 少女が、青年を見た。
「どこまでですか?」
 運転手が、後ろを振り返って言った。
「あ、あー。どっか、泊まれるトコ」
 少女が、シドロモドロに答えた。
「お嬢チャンのお父サンなの?」
 深夜の二人連れの乗客に、運転手が不審がった。
「そ、そーよ。お父サン、口が利けないの。目も見えないの」
 少女が、機転をきかせて言った。
「そりゃあ、大変だ」
 運転手は、納得した様子でタクシーを発車させた。
「この近くのホテルで、いいかい?」
 走りながら運転手が、聞いた。
「う、うーん…」
 青年が、遠くを指差した。
「ちょっと、遠くのほうがいい」
 少女が、青年の手振りを見ながら答えた。
「池袋のほうかな」
  運転手が、適当に言った。
 OKの指サインを、青年がした。
「そう」
 少女が、言った。
 タクシーが池袋駅西口のホテル前に、停車した。
 少女は、青年の手を引いて先導しながらロビーに入って行った。
 二人は他に客の出入りのない閑散とした時間に、カウンターでチェックインの
手続きをしていた。
 《姫野 光太郎/姫野 ユカ》と、つたない筆跡で少女が代筆した。
 盲目の身体障害者のためか、丁重にルームキーを渡された。
 ホテル内の通路でも青年は、周囲の気配に注意した。
 部屋に着くと、室内電気のスイッチを切りブラインドを降ろした。
 暗がりの中、少女は非常灯の横でポツンと佇んでいた。
「…オジさん……」
 9歳児くらいには、二十代後半以上の年齢の男は、みなオヤジ扱いである。
 少女の問いかけを全く無視して、青年は身体中にある銃器をベッドに置いた。
「オジさん!」
 さらに大きな声で、少女が呼んだ。
 青年は銃器を点検しながら一つ一つサイドテーブルに、静かに載せていった。
「オ、ジ、さ~んっっっ!」
 半べそで叫ぶ少女の口を、青年がふさいだ。
「目が見えないだけで、耳は聞こえるんだ」
 少女は、目一杯瞳孔を広げて青年を凝視した。
 青年が、パッと手を放した。
「……」
 不安な気持ちの少女との間に、沈黙が流れた。
 青年は、テレビの前のイスに座りナイフを砥ぎ出した。
「ガキは、とうに寝てる時間だ」
 少女が、時計を見た。
 深夜4時半を過ぎていた。
 少女はベッドに入り、頭ごとシーツに潜った。
 やがて、寝返りをうってスヤスヤと眠り込んだ。
 青年のナイフを砥ぐ手が、止まった。
 暗闇の中、ナイフの刃だけが光った。
 青年が、音も立てずにスッと立ち上がり、少女の寝息を手をかざして確かめた。
 少女は、疲れからか熟睡していた。
 少女のノドに、刃が迫った。
 シゴトの性質上、自分の顔を知った人間を生かしておくわけにはいかなかった。
 ノド元に数ミリと近づけた所で、青年の手はゆっくりとナイフを遠ざけた。
 青年は振り向いてイスに座り、そのまま仮眠を取り始めた。
 その時、ベッドで寝ていたはずの少女の眼がカッと開いた。
 実は起きていた少女は、身動き一つせずにまた眼をつぶった。
〝チュンチュン〟
 と、スズメのさえずる声が、外から聞こえてきた。
 ブラインド越しに、明るさも感じられるようになってきた。
 青年が、装備を身体に付けて身支度を整えた。
 寝ている少女をチラッとうかがった後、ドアに向かう。
「オジさん」
 青年の背に、少女が声をかけた。
 青年は、ピタリと歩を止めた。少女が、起き出して来た。
「警察に行け」
 青年が、ブッキラボウに言った。
「その後は?」
 少女が、聞いた。
「親戚にでも、引き取ってもらえ」
「しんせきって?」
 少子化が進む核家族世代では、親戚の概念を説明するのも大変である。
「おじいちゃんやおばあちゃんの事だ」
 まして、家族のいない自分が説明するのに、青年はどこか抵抗を感じていた。
「いないもん」
 訳も分からずに、少女が答えた。
「じゃ、施設送りだな」
「しせつって?」
 オウム返しに、少女が聞き返した。
「タダで、寝る場所とメシをくれる」
「……」
 青年の言葉の意味を、黙って少女が考えている風だった。
「お前の両親は、死んだ」
 いい加減、少女との問答に飽きていた青年は、会話を終わらせる意味合いでズ
バリと言った。
「…………」
 依然として、少女は黙ったままだった。
「殺されたんだ」
 容赦ない言葉が、少女の心に突き刺さった。
「……誰に?」
 意外にも、少女が反応した。
「殺し屋だ」
 青年は、答えた。
「どーして?」
「そ、それは…」
 少女のこの問いかけに、青年が思わず言葉を詰まらせた。
 今、眼前にいる少女の両親が命を落としたのは、襲撃された自分の巻き添えだ
ったからだ。
「ねえ、どーしてよ」
 少女が、畳み掛けるように聞いてきた。
「…………」
 青年は、沈黙した。
「言えないの?」
「親の思い出があるだけ、マシだろう……」
 少女の熱い視線を避けるように、青年が呟きながらドアノブを手探りした。
「あたし、オジさんの目になるよ」
 ドアを開け、通路に出た青年に向かって少女が言った。
「必要ない」
 青年は、素っ気無く答えた。
「だって、杖もないじゃん」
 少女が、青年の前に回り込んで言った。
「公園の木でも折るさ」
 青年は、少女に構わずに歩き出した。
「じゃ、公園まで案内する」
 少女は、なおもしつこく、青年の手をつかんで歩き出した。
「余計な事だ」
 青年が、少女の手を払いのけた時だった。
「っ!」
 青年は、通路に人影を感じて懐の銃を握った。
「おはよう、ございます」
 ホテルのルームサービスだった。
「おはよーございまーす」
 少女が、笑顔で答えながら青年の手を取った。
 ルームサービスが、すれ違いざまにサイレンサー付きの拳銃を抜いた。
 いち早く殺気を感じていた青年は、少女をかばいながら消火器のそばの観葉植
物に身を伏せた。消音された弾丸が消火器に命中した。
 ドッと、泡が噴き出して一瞬周囲が見えなくなった。
 その隙に、青年は少女を小脇に抱えて逃走した。
 盲人とは思えないようなスピードで、青年は少女を抱えたまま階段を駆け降り
た。
「ホントは、目が見えるんじゃないの?」
 そのままロビーを駆け抜けた時、少女が聞いた。
「一度歩いた道は、勘で分かる」
 青年の洞察力は、常人の比ではなかった。
 ロビーの受付係が呆気に取られている間に、少女を連れた青年は、乗車待ちの
タクシーに乗り込んだ。
「早く、出せ!」
 青年が、自分でドアを閉めながら殺気だった様子で言った。
「どちらまで?」
 タクシードライバーは、短気な客のペースをかわすように悠長に聞いた。
「いいから、先に出すんだっ」
 青年がそう言った時、左後部座席のガラスが割れた。
 制服を脱いだルームサービスが、銃撃してきたのだ。
「ひゃ~っ」
 タクシードライバーは、訳も分からずに悲鳴を上げながらクルマから降りた。
 更に銃撃が続き、タクシーのボディに孔が開いた。
 青年が少女を後部座席の下に潜り込ませて、自身は運転席に飛び移った。
 ダッシュボードの下に身を伏せながら一旦銃を抜くが、すぐにしまった。
〝ガガガガガガガ!〟
 ルームサービスに変装していたヒットマンが、サブマシンガンを浴びせてきた。
「どーして、撃ち返さないの?」
 少女は、素朴な疑問から聞いた。
「■クラ撃ちになる」
 青年が、呟いた。
「メク■って?」
 少女は、子供特有の“どうして”攻撃を始めた。
「相手だけに、命中させられないって事だ。プロのやる事じゃない」
 青年が、意外にも面倒臭がらずに答えた。
「オジさんも、人を殺すの?」
 少女の質問が、続いた。
「プロになればなるほど、相手にできるだけ接近して、確実にシゴトをする。標
的以外は絶対に殺らない」
〝ガガガガガガガ!〟
 間合いを計っていたヒットマンが、再び撃ってきた。
 二十発ほど被弾したタクシーは、すでにボコボコになっていた。
「パパやママみたいになるの、あたし…」
 少女のこの言葉を聞いて、青年はギヤを入れて、アクセルを踏み込んだ。
 エンジンはアイドリング状態だったので、急発進した。
「曲がる時は、教えろっ」
 青年が、少女にナビゲートを頼んだ。
 盲人の運手するタクシーは、早速、目の前の花壇にぶつかりそうだった。
「み、右ぃー!」
 少女の声に反応して、青年がステアリングを右に切った。
 タクシーは車体を軋ませながら、通りへと向かった。
 少女が助手席に座って、自分と青年のシートベルトを締めた。
 先の信号が、黄色に変わった。
「え、えーと…」
 少女は、ためらった。
「何だ?」
 青年が、全盲運転しながら聞いた。
「停まれ」
 少女がそう言うと、青年は急ブレーキを踏んだ。
 信号が、赤に変わった。
「赤信号」
 少女が、呟いた。
 青年は、無言で信号を待った。
 この信号待ちの時間は、二人にとってとても長く感じられた。
 まさに、今日をも知れぬ道連れの逃避行になってしまいそうだったからだ。
 少女より、むしろ青年のほうが不安を覚えていた。
 今まで、たった独りで生きてきた。
 一人なら、何とでもなる自信のようなものがあった。
 だが、守るべき者を背負った時の自分の力には不確定要素があった。
 このガキを捨てるのは簡単な事だ。
 青年が、そんな事を逡巡していた時だった。
 隣車線に、黒塗りのベンツが停車した。
 全面スモークガラスのサイドウインドウが下がると同時に、助手席から銃を発
砲してきた。
 青年は、アクセルを踏み込んだ。
「赤だよ!」
 少女が、杓子定規な回答をした。
 信号無視で十字路を突っ込むタクシーを避けるように、青信号側の車両が玉突
き衝突した。
 派手に、抗議のクラクションを鳴らして猛進してきたトラックのバンパーに接
触しながら全盲者の運転するタクシーが直進した。
 黒塗りベンツも、これを追撃した。
「次、カーブ。かる~く、左に曲がるよ」
 少女の指示通りに、青年は運転した。
 コーナーを立ち上がった所で、タクシーの後部ウインドウが銃撃で割れた。
「きゃ~っっっ」
 思わず少女が、両耳を押さえた。
「ハンドルを、頼む」
 と言って、青年が拳銃を抜いて後ろを振り向いた。
 無人運転のため、タクシーがグラついた。
 少女は、小さな手で怖々とハンドルを支えた。
「真後ろに、いるか?」
 青年が、少女に聞いた。
「うん。でも、運転席は外車だから、左だよ」
 少女が、ドアミラーを見ながら答えた。
「でも、こっちから見たら、右かな?」
 少女は、的確な指示を与えた。
 その通りに、青年が銃を構えた。
〝ドキューン〟
 一発必中で、ベンツのドライバーに命中させた。
 ベンツのドライバーは絶命する瞬間にステアリングを大きく切ってしまったた
め、車体がコントロールを失い、横転してしまった。
「やった」
 少女が、ガッツポーズをした。
 しかし、安心するのも束の間、騒ぎを聞きつけた警察がパトカーを緊急手配し
てきた。
 けたたましいサイレンを鳴らしながら警視庁仕様のパトカーが追跡してきた。
「パトカーも、撃つ?」
 少女は、聞いた。
「真っ直ぐで、いいのか?」
 青年が、ハンドルを握り直しながら言った。
「うん」
 少女は、都外に抜ける国道の先を見ながら頷いた。
 背後には、パトカーの数が増えていった。
「これからは、信号は教えなくていい。左か右かだ」
 青年は、冷静に言った。
「はい」
 少女が、素直に返事した。
 青年が、さらにアクセルを踏み込んだ。
 赤信号が、目前になる。
 少女は、言われた通りに無言でいた。
 パトカーのサイレンにより、他の通行車両が道を開けたので、スムーズにタク
シーが走破していった。
「あたし、姫野 ユカ。オジさんの名前は?」
 赤信号を無事通過できたのに、ホッとした少女は自己紹介をはじめた。
「ない」
 青年が、間髪を入れずに答えた。
「ないわけないよ」
 ユカが、食い下がった。
「ただの、流氓だ」
「リュウマン?」
「名乗る資格もない、ロクでもないヤツの事だ」
 青年は、吐き捨てるように言った。
「リュウだね」
 ユカが、青年の名前を確認した時、道路標識が見えてきた。
「あ、この先、T字路。200メートルって、書いてある」
 ユカは、標示板を読み上げた。
「何秒後だ」
 リュウにとって、文字は関係なかった。
「…ええと、」
 ユカが考えている間にも、タクシーはグングンと前のタンクローリーに迫って
いった。
「まず、左に切って、すぐに戻して」
 ユカは、巧みにナビゲートした。
 タクシーは、タンクローリーをかすめるように抜き去った。
 休む間もなく、次にRVが迫った。
「今度は、右に、そして戻して」
 RVの激しいクラクションの中、まさに神風タクシーと化していた。
「もー、リュウの運転は、見てらんない」
 ユカは、シートベルトを外し、リュウの膝の上に乗ってハンドルを握った。
 タクシーは、T字路をキレイに曲がった。
「あー、楽だ。最初から、こうすりゃ良かった」
 リュウは、初めて冗談らしい事を喋った。
「うん、もう」
 ユカが、ふくれっ面で言った。
 後ろからパトカー群に追跡されながらも二人の間に、少しだけ和んだ雰囲気が
流れた。
 タクシーの進路前方に、警察のバリケードが見えてきた。
「ここで、お前は降りろ」
 リュウが、ブレーキを踏んで言った。
 リュウとユカの乗るタクシーが、警察の非常検問に、進路を塞がれて停車した。
「お前じゃなく、ユカ」
 ユカが、リュウに抗議した。
「じゃあ、ユカは降りるんだ」
 リュウは、言い直した。
「いや」
 ユカは、リュウのショルダーホルスターからリボルバーを抜き取って、自身の
こめかみに当てた。
「冗談は、よせ」
 リュウは、静かに言った。
「置いていくなら、あたし、ここで死ぬ」
 ユカが、リボルバーの引き金に触れた。
「弾が入ってるどうかは、シリンダーが回った時の音で分かる」
 リュウは、平然と解説した。
「本気よ」
 回転弾倉の中を覗き込みながらユカが、真剣に言った。
「次は、当たりだ」
 リュウの言葉に、ユカは眉間に皺を寄せながら両目をつぶって、引き金をひい
た。
 弾倉が、回転した。
「できるもんか」
 リュウが、言い切った。
 撃鉄が起き上がった。とっさに、リュウは銃身を持って上向きに変えた。
〝バン!〟
 タクシーの天井に、風穴が開いた。
「マルヒ(被疑者)は、銃を発砲しましたっ!」
 無線で、刑事が捜査本部に連絡した。
 警察は厳重な警戒態勢に入った。
“少女を、解放しなさい!”
 スピーカー越しに、警官が警告した。
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