R18 短編集

上島治麻

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新学期が始まって一週間ほどが経った。休み時間になっても教室が一向に賑やかにならない春特有の空気感に呑まれながら、野原はひとり退部届、入部届それぞれにちまちまと自らの氏名を記入していた。2年1組19番、と一新された個人情報を順に書き込んで、将棋部から男子バスケットボール部への転部を目論んでいるのが見え見えである2枚のザラ紙を持って意気揚々と、野原は職員室の薄汚い扉を開いたのであった。
 野原は数学の先生である森野先生を愛するように、ちゃんと数学のことだって愛していた。でも本当に好きなのは化学と国語。本当は立川くんのことだって憎いし、まだ女の子にはモテたいなと思っているし、森野先生への愛がどれだけ確固たるものかを確かめたくってベイビーポータブルロックの「この恋が本当の恋ならいいと思わない?」のところを半永久的にリピート再生し続ける日だってある。これは一生さめることのないはずの恋で、それをわかっているからこそ野原は環境を一新することを決めたのだった。きっと運動部に入ってしまえば五体満足で家に帰ることなどできないだろう。成績だって落ちるかもしれない。でも、それでもいい。たった一年半ぽっちでもきっと冷めやらぬ百年の恋の毒気は幾分か抜けるだろう。そうして最終的に得体のしれない立川くんの、森野先生を惹きつける力を凌駕するほどの偉業を成し遂げれば良いだけだ。野原は職員室の中で学年主任の畑中先生の判子をもらいながら、森野先生おれが6完決めたらどんな顔するだろう、と密かに野望を燻らせたのであった。

2年生になったばかりの頃に一度だけ、野原は森野先生と一緒に帰ったことがある。まだ春の真ん中で、桜が吹雪いていて、鼻や目が痒かった。通学路には小さな冠水橋があって、川をまたいでしばらく歩くと寂れたバスロータリーが見える。そこから2階へ上がると駅の改札口がある。学校から駅までは大体25分くらいで、たったそれだけの小旅行でも野原にとっては身に余る幸せだった。

新入部員として激しい練習をこなしている時に突如として意識が途切れてしまったのは記憶に新しい。何せ今日の昼の話だ。まだそれほど茹だるような気温でもない体育館の中でイルカの鳴き声を真似るみたいにシューズが音を立てる。バスケットボールが地を鳴らす。だんだん息がし辛くなる感覚が次第に大きくなって、倒れたのは多分そのときだろう。目を覚ますと、硬いベッドに横たわる野原の横で森野先生が本を読んでいた。
 先生とは昨年度をもって仲を違えてしまった。というよりかは単に野原との関係がなくなってしまった。それだけのこと。ただ森野先生が総合学科の組の担任を持つようになってからは本当に話す機会がなくて、心底寂しい思いをしていた野原にとって、この保健室での立川をはじめとするいかなるものの邪魔も入らない時間は、彼が何よりも欲していたものだった。

「あ。野原君あれ見て」
 自転車を押しながら橋を渡る先生が川の向こうを指差した。つられて野原が指さされた方角に目をやると、ちょうど太陽が木の後ろに沈んでいくところだった。際が赤く滲むように光って目を焼く。大きな夕焼けだった。「これ学級通信載せようかな」と言いながら携帯電話で夕焼けの写真を撮る森野先生の方を振り返ってみたけれど、目に夕焼けが焼き付いてしばらく視界も悪くって、先生の顔なんてまともに見えない。黒い痣のようなものをかいくぐるみたいにして目を凝らす。森野先生が楽しそうに、ひとつの濁りもない綺麗な顔で笑っている。こんなに綺麗なのに、目の前にいるのに。野原は思った。どうしておれのこと好きになんかなる気もないくせにそんな顔するんだ。それならいっそ。
 夕陽が完全に沈んでしまって辺りは紫を帯び始めて、何にも言わずに森野先生の後を追うだけで、このひとときは終わってしまった。

高槻保という人がいた。背は高い。頭が良くて運動ができて、流行りのものは好きだけど流行りじゃないニッチな趣味もいくつかもっている。さらさらの髪は刈り上げるでもなく無難に整えられて、決して派手じゃあないけれどどことなく上品で洒落ている。野原が2年生になってから初めてできた友達だった。
「今日って部活ある?」
「え?ああそっか、先生休みか。一緒に職員室聞きに行こか」
 高槻はバスケットボール部で、同じ2年1組の、出席番号が16番で、野原の隣人である。
 休みの日には野原はよく高槻と一緒に遊びに出かける。高槻には友達がたくさんいたが、こんなにもたくさんのラーメン屋を一緒に巡ったり、温泉に出かけたりした相手は野原が初めてだった。高槻は十分に野原のことを大切にしていたし、だからこそ少しでも野原の調子が平時と違った時には相談に乗るように心がけていた。
 高槻はいい人で、野原にとっても、他の人にとってもかけがえのない、いい友達である。ある日野原は高槻に、立川に関する話をしたことがあった。高槻ほどの人格者がもし仮に立川を貶すようなことがあれば文句なしに立川を絶対悪だと決めつけることができる。軽薄な承認欲求の偽物みたいな感情に突き動かされてのことである。
 駅のホームに電車が来る気配はない。次の区急は10分後。ふたりでカルピスを飲みながら野原はそれとなくぼやっと言った。
「おれ、好きな人とられちゃった。こないだ」
「野原の?誰」
「森野っていう先生」
「あぁー…なんかおるなあ。数学の先生やっけ?取られたって、誰に」
「9組のさ、オタクっぽいちょっと太ってる人。見たことある?」
「…たち…タチカワ君?やっけ」
「たてかわ君な。立川達朗」
 向かいのホームに各停が来た。ちらほらと同じ学校の人が乗り込んでいるのが見える。でも野原たちと同じ方向へ帰る生徒が圧倒的に多い。ホームの端っこの方でカルピスをちびっと口に含む高槻の柔らかい髪が風に靡いた。額に沿って汗が落ちていく。電車はあと5分ほどでやってくる。未だ姿の見えない区急をのぞみながら、大好きな先生に質問してたら割り込まれちゃったから悲しいの、と呟く。
「それはお前…ちょっと…」
「ちょっと?」
「ちょっとだけ大人気ないよ。9組の子やろ?」
「うん」
「9組の子に腹立てるのは大人気ない。」
「やっぱりそっかぁ」
「でもわかるよ。なんとなく、その理不尽さっていうのは…でも」
 高槻が手ぬぐいを取り出して汗を拭く。一口カルピスを飲んで続けた。
「でも眼中にない人のことまで気にしてたらキリないからなあ。許せることって大事やし、一回アーメンして立川くん許してみたら?楽になるかも」
 とっくに空になってしまったカルピスのペットボトルをゴミ箱に投げ入れる。綺麗な山なりの二次曲線を描いて捨てられたボトルに比べて野原のそれは幾分も減っていなかった。乾いた喉が気持ち悪いなと思って大きめの一口でぶどう味のカルピスを飲んだ時、ちょうど電車がやってきた。高槻が野原を振り返って言う。
「ていうか森野先生って男の人やけど」


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