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純黒の天使
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マザレスを軍に届ける前に、シアンは、ひとまず姉弟を洗うことにした。
流石に汚れたままなのは可哀想だったし、家が汚れるのも嫌だったからだ。この間、綺麗にしたばかりなのだ。
麻袋に入れられたマザレスを船の柱にぐるぐると縄で念入りに固定し、三人で家の中に入る。
「少し、待って」
とのんびり声をかけながら、シアンは厨房で湯を沸かす。
姉弟は呆気にとられている様子だった。どうやら自分たちが風呂に入れられるらしいということは理解できたが、どうして主人自ら湯を沸かしているのかわからなかったのだ。
「わたくしが湯を沸かします」
少女は慌てて申し出た。そうすることが正しいように感じられたのだ。
「ぼ、僕は薪を持ってきます」
姉に習って、弟の方も申し出る。
「いい。座ってて」
だが、新しいご主人様はそんなことを、ちっとも気にしていない様子だった。
姉弟は恐縮して、示されたテーブルチェアに大人しく座る。
シアンに声をかけた少女は、つい数刻前の出来事を思い返した。
海賊が恐怖で縮こまったとき、好機だと思った。このどうしようもない環境から脱する、好機だと。
だから、勇気を振り絞って声をかけた。声をかけるだけで、こんなにも勇気がいるのは初めてだった。でも姉だから、弟は自分が守らなくてはいけないから、決死の覚悟で口を開いた。
突然現れたその人は、洞窟の入口へ漏れる陽光を後光のように背負った、天使だった。
まるで星空のように輝く黒髪に、一番美しいときの海を思わせる碧い瞳。
この人に賭けようと思った。何者かは分からなかったが、海賊すら畏怖させる、この黒髪の天使に賭けようと思った。
ありったけの勇気を振り絞って掛けた言葉に、天使は微笑む。
そして、涼やかな声で、こう言った。
「気に入った。買おう」
こうしてこの場にいるということは、自分たちが実際にこの天使に売られたことを示していた。
でも、どうしてか現実味がない。自分の願望が見せた夢ではないかと勘繰ってしまう。
「名前は?」
問われて、少女ははっと我に返った。慌てて答える。
「名は捨てましたので、好きにお呼びくださいませ」
真面目に返すと、天使は少し驚いた顔をして首を傾げる。
「―――それでいいのなら、いいか」
ややして、納得したように黒の天使は一人頷いた。
少女は「ああ、この人は人の事情に無遠慮に立ち入ってこないんだな」と、安堵した。
「どんなのがいい?」
「……はい?」
「名前」
どうも、このご主人様は言葉が足らないらしい。いちいち主語が抜けている気がする。もしくは、端的すぎるのか。
少女は少し迷ってから、先程と同じように答えた。
「お好きなように」
「――困る」
「――っ」
きっと、彼は何気なく言ったのだろう。しかし、奴隷として生きる覚悟をした少女には、それが不快の証と写ってしまった。
「……っ申し訳ありません」
さっと青ざめて、謝罪する。少女は、この庇護者を今失ったら、この先自分たちは生きていけないことを直感で知っていた。機嫌を損ねることはよろしくない。捨てられてしまったら、無力というのもおこがましい自分たちは、生きてはいけない。
「!? 大丈夫。名前を考える楽しみができたと思っただけ」
これに焦ったのは、言うまでもなくシアンである。いつになく口数が多くなっていた。
「申し訳ありません、栄えある我らが主人。お気を悪くさせてしまったものと……」
「え、あ……いや。気にしないで」
「申し訳ありません」
「いい、べつに。……でも、ご主人様とは呼んでほしくないな」
シアンは、愉快気だ。恐縮する姉弟とは真反対に、ゆるい雰囲気をまとっている。
そして、少女たちに合わせて丁寧に喋っているようだった。
「では、どうお呼びすればよろしいでしょう」
「……そうだ、な」
彼は真剣に悩んでいるようだった。しばし考え込んで、やっと口を開く。
「頭領、と。名前は―――それは『相棒』に捧げたから」
囁きに近い最後の言葉は少女に一欠片の疑問を残したが、それを追求するほどの興味はこのときの彼女にはなかった。
それにそもそも、彼女たちは主の名を知らない。そのことに、この方は気がついているのだろうかと少女は思った。
だがそれよりも、主様の要望に答えるほうが優先である。
「はい。と、頭領。――ほら、お前も」
「いっ命ある限り、お仕えいたします。頭領」
姉に促され、ずっと押し黙っていた弟も姉とともに跪く。
「ああ。よろしく」
黒い天使――頭領は、ふわりと嬉しそうに微笑んだ。
少女は、この男の正体を掴み損なった。人を見る目は養ってきたつもりだったが、正体を掴む前にこの新しいご主人様はコロコロと表情を変えてしまう。だが、悪い人物でないことは確かな気がした。
流石に汚れたままなのは可哀想だったし、家が汚れるのも嫌だったからだ。この間、綺麗にしたばかりなのだ。
麻袋に入れられたマザレスを船の柱にぐるぐると縄で念入りに固定し、三人で家の中に入る。
「少し、待って」
とのんびり声をかけながら、シアンは厨房で湯を沸かす。
姉弟は呆気にとられている様子だった。どうやら自分たちが風呂に入れられるらしいということは理解できたが、どうして主人自ら湯を沸かしているのかわからなかったのだ。
「わたくしが湯を沸かします」
少女は慌てて申し出た。そうすることが正しいように感じられたのだ。
「ぼ、僕は薪を持ってきます」
姉に習って、弟の方も申し出る。
「いい。座ってて」
だが、新しいご主人様はそんなことを、ちっとも気にしていない様子だった。
姉弟は恐縮して、示されたテーブルチェアに大人しく座る。
シアンに声をかけた少女は、つい数刻前の出来事を思い返した。
海賊が恐怖で縮こまったとき、好機だと思った。このどうしようもない環境から脱する、好機だと。
だから、勇気を振り絞って声をかけた。声をかけるだけで、こんなにも勇気がいるのは初めてだった。でも姉だから、弟は自分が守らなくてはいけないから、決死の覚悟で口を開いた。
突然現れたその人は、洞窟の入口へ漏れる陽光を後光のように背負った、天使だった。
まるで星空のように輝く黒髪に、一番美しいときの海を思わせる碧い瞳。
この人に賭けようと思った。何者かは分からなかったが、海賊すら畏怖させる、この黒髪の天使に賭けようと思った。
ありったけの勇気を振り絞って掛けた言葉に、天使は微笑む。
そして、涼やかな声で、こう言った。
「気に入った。買おう」
こうしてこの場にいるということは、自分たちが実際にこの天使に売られたことを示していた。
でも、どうしてか現実味がない。自分の願望が見せた夢ではないかと勘繰ってしまう。
「名前は?」
問われて、少女ははっと我に返った。慌てて答える。
「名は捨てましたので、好きにお呼びくださいませ」
真面目に返すと、天使は少し驚いた顔をして首を傾げる。
「―――それでいいのなら、いいか」
ややして、納得したように黒の天使は一人頷いた。
少女は「ああ、この人は人の事情に無遠慮に立ち入ってこないんだな」と、安堵した。
「どんなのがいい?」
「……はい?」
「名前」
どうも、このご主人様は言葉が足らないらしい。いちいち主語が抜けている気がする。もしくは、端的すぎるのか。
少女は少し迷ってから、先程と同じように答えた。
「お好きなように」
「――困る」
「――っ」
きっと、彼は何気なく言ったのだろう。しかし、奴隷として生きる覚悟をした少女には、それが不快の証と写ってしまった。
「……っ申し訳ありません」
さっと青ざめて、謝罪する。少女は、この庇護者を今失ったら、この先自分たちは生きていけないことを直感で知っていた。機嫌を損ねることはよろしくない。捨てられてしまったら、無力というのもおこがましい自分たちは、生きてはいけない。
「!? 大丈夫。名前を考える楽しみができたと思っただけ」
これに焦ったのは、言うまでもなくシアンである。いつになく口数が多くなっていた。
「申し訳ありません、栄えある我らが主人。お気を悪くさせてしまったものと……」
「え、あ……いや。気にしないで」
「申し訳ありません」
「いい、べつに。……でも、ご主人様とは呼んでほしくないな」
シアンは、愉快気だ。恐縮する姉弟とは真反対に、ゆるい雰囲気をまとっている。
そして、少女たちに合わせて丁寧に喋っているようだった。
「では、どうお呼びすればよろしいでしょう」
「……そうだ、な」
彼は真剣に悩んでいるようだった。しばし考え込んで、やっと口を開く。
「頭領、と。名前は―――それは『相棒』に捧げたから」
囁きに近い最後の言葉は少女に一欠片の疑問を残したが、それを追求するほどの興味はこのときの彼女にはなかった。
それにそもそも、彼女たちは主の名を知らない。そのことに、この方は気がついているのだろうかと少女は思った。
だがそれよりも、主様の要望に答えるほうが優先である。
「はい。と、頭領。――ほら、お前も」
「いっ命ある限り、お仕えいたします。頭領」
姉に促され、ずっと押し黙っていた弟も姉とともに跪く。
「ああ。よろしく」
黒い天使――頭領は、ふわりと嬉しそうに微笑んだ。
少女は、この男の正体を掴み損なった。人を見る目は養ってきたつもりだったが、正体を掴む前にこの新しいご主人様はコロコロと表情を変えてしまう。だが、悪い人物でないことは確かな気がした。
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