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皇太后、語りて曰く

北行

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 雪がやみ、春色が漂い始める頃、捕らえられた多くの女たちの腹は大きくなっておりました。冬のうちに、世に在る辛酸は舐め尽くしたと、私たちは思っておりました。
 けれどそれは誤りでした。春と共に訪れたのは、さらなる苦難でした。
 金人は二帝を――我が主上たる宣和の太上皇と、廃帝となった靖康の帝とを庶人に堕とし、北方の彼らの土地へ遷すと告げました。のみならず皇族も后妃も、武官も文官も、兵も民も、貴賤を問わず随行せよと。既に奪い尽くしていた財貨と併せ、彼らは東京開封府のすべてを、北へと奪い去る心積もりだったのです。
 春も終わりに近づいた頃、私たちは開封府を出立しました。すべての門は焼け落ち、街路は瓦礫と灰に埋もれておりましたが、それでも皆、もちろん私も、留まることを望んでおりました。軍民、百官、皆が泣いておりました。それは郷愁のみならず、先に待つ旅路の辛苦をも思っていたのでしょう。
 ……ええ、とても、長く惨めな道行きでした。
 出立したのが三月の末。金国の都城たる会寧府かいねいふへ至った頃は、八月も半ばを過ぎておりました。小さな足の女たちは、もちろん長くは歩けませんから、ほとんどの者は騎乗でした。ですが五ヶ月もの間、馬の背で揺られ、風雨に晒され続けるのは壮健の士でも耐え難いこと。加えて、金人からの辱めは道中でも変わらず続いておりました。力尽きて落馬し、胎に宿した金人の子と、己が体とを共に損なう者が後を絶ちませんでした。
 馬に乗れなくなった女たちは、沿道に棄て去られました。精根尽きた身で、歩けぬ足で、見知らぬ土地に打ち捨てられれば、先に待つさだめは明らかです。
 幾人もの女たちが、車に縋って泣き叫んでおりました。
 貴人の車は望まない、荷車の隅でいい、せめて傷が癒えるまで、どうか、どうか――
 車輪に取りつく手を、兵士たちは羽虫でも払うように、矛や槍で叩き落としていきました。続く車列にも顧みられることなく、ただ遠くなっていく慟哭は、聞くたびに耳に取りついて、長く離れませんでした。
 道中、寺に逗留した折、朱皇后と話す機会がありました。お顔はやつれ果て、目の下には隈がありましたが、それでも生来の容貌は損なわれておらず、微笑みは相変わらず美しいものでした。

「難に遭った時にこそ、徳は顕れるものです」

 そう言って朱皇后は、周りの帝姫たちに声をかけて回っておりました。中に、和福帝姫と寧福帝姫がおりました。二人とも、衣の裾が赤く濡れておりました。朱皇后は自らの衣を裂くと、各々の脚を伝う血を丁寧に拭いました。
 幼い帝姫ふたりは、朱皇后に抱きついて泣きました。励ますようにゆっくりと、優しく背を撫でてやる手は、まさに、慈母のものでした。



 八月の末頃、会寧府へと至った私たちは、兵たちの手で天幕から連れ出されました。集められた先は、彼らの祖廟でした。服を剥がれ、上体を裸にされ、羊の毛皮を掛けられました。見れば、諸王も后妃も帝姫も皆、同じなりをしておりました。
 我が主上――宣和の太上皇と太上皇后陛下、靖康の帝と皇后陛下も、同じ御姿のままに、殿中へと通されました。聞いたことのない音階の、耳障りな楽が奏でられる中、金人の主が羊を二頭、牽いてくるのが見えました。
 古《いにしえ》の「牛耳を執る」儀式と似たものであろうとは、想像ができました。春秋の昔、諸侯の盟約の儀においては、盟主となる者が牛の耳を裂いたといいます。犠牲の羊は、牛耳のようなものなのでしょう。
 哀れな獣の鳴声が、堂内に響きました。血の臭いが、私のところにまでも微かに漂いました。
 犠牲の羊の遺骸を前に、太上皇陛下は膝を折り、深く頭を下げられました。靖康の帝も、お二人の后も倣いました。離れて居並ぶ私たち、大宋の者もまた。
 すすり泣きが聞こえた気がしました。誰のものかは、分かりませんでした。



 夕刻、私を含めた后妃や帝姫たちに、宮殿での沐浴が与えられました。旅の間に垢を落とす機会などありませんでしたから、幼い姫の中には喜ぶ者もおりました。和福帝姫と寧福帝姫が、疲れ果てた笑顔で呟きあっておりました。

「やっと……体、きれいにできるね」

 けれど大半の者は、疲れの中に諦めの色を浮かべておりました。虜囚の女にあえて身を清めさせる意図は、明らかでしたから。
 浴場に重苦しい水音が響く中、ひとり朱皇后だけが、双眸に強い光を湛えておられました。靖康の帝の后として、共に金人の祖廟を拝まされたばかりであるのに、なんともお強い方だと思いました。
 隣で水を浴びていると、不意に、朱皇后が私の方を向きました。

「徳のありかたについて、長く考えておりました」

 微笑みは、どことなく寂しげであるようにも見えました。

「危難の時に遭って、帝の后として、どうあるべきか。女としての名節を汚さぬようにするには、どうすればよいか。長く、……長く、考えてまいりました」

 真摯な瞳が、私をじっと正面から見つめてきました。

「答えは、おわかりになりましたか」
「はい。そして……私は率先して皆の範となります。高貴な女たちが、これより先に待つ困難の犠牲とならぬように。名を、汚さぬように」

 気圧されるほどの、力強いまなざしでした。



 その夜、朱皇后は首を吊りました。
 けれど、与えられていた胡服の帯は脆かった。皇后の、旅にやつれた体さえ支えきれず、無残にも切れ落ちたと聞きました。伝聞ですので、本当にそうだったのかは知りません。確かめる術も、もうありません。
 確かなのは、朱皇后が自害に失敗し、金人たちに助け出され……翌朝、宮殿周りの濠で遺骸となって浮かんだこと。ただ、それだけです。
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