4 / 11
皇太后、語りて曰く
北行
しおりを挟む
雪がやみ、春色が漂い始める頃、捕らえられた多くの女たちの腹は大きくなっておりました。冬のうちに、世に在る辛酸は舐め尽くしたと、私たちは思っておりました。
けれどそれは誤りでした。春と共に訪れたのは、さらなる苦難でした。
金人は二帝を――我が主上たる宣和の太上皇と、廃帝となった靖康の帝とを庶人に堕とし、北方の彼らの土地へ遷すと告げました。のみならず皇族も后妃も、武官も文官も、兵も民も、貴賤を問わず随行せよと。既に奪い尽くしていた財貨と併せ、彼らは東京開封府のすべてを、北へと奪い去る心積もりだったのです。
春も終わりに近づいた頃、私たちは開封府を出立しました。すべての門は焼け落ち、街路は瓦礫と灰に埋もれておりましたが、それでも皆、もちろん私も、留まることを望んでおりました。軍民、百官、皆が泣いておりました。それは郷愁のみならず、先に待つ旅路の辛苦をも思っていたのでしょう。
……ええ、とても、長く惨めな道行きでした。
出立したのが三月の末。金国の都城たる会寧府へ至った頃は、八月も半ばを過ぎておりました。小さな足の女たちは、もちろん長くは歩けませんから、ほとんどの者は騎乗でした。ですが五ヶ月もの間、馬の背で揺られ、風雨に晒され続けるのは壮健の士でも耐え難いこと。加えて、金人からの辱めは道中でも変わらず続いておりました。力尽きて落馬し、胎に宿した金人の子と、己が体とを共に損なう者が後を絶ちませんでした。
馬に乗れなくなった女たちは、沿道に棄て去られました。精根尽きた身で、歩けぬ足で、見知らぬ土地に打ち捨てられれば、先に待つさだめは明らかです。
幾人もの女たちが、車に縋って泣き叫んでおりました。
貴人の車は望まない、荷車の隅でいい、せめて傷が癒えるまで、どうか、どうか――
車輪に取りつく手を、兵士たちは羽虫でも払うように、矛や槍で叩き落としていきました。続く車列にも顧みられることなく、ただ遠くなっていく慟哭は、聞くたびに耳に取りついて、長く離れませんでした。
道中、寺に逗留した折、朱皇后と話す機会がありました。お顔はやつれ果て、目の下には隈がありましたが、それでも生来の容貌は損なわれておらず、微笑みは相変わらず美しいものでした。
「難に遭った時にこそ、徳は顕れるものです」
そう言って朱皇后は、周りの帝姫たちに声をかけて回っておりました。中に、和福帝姫と寧福帝姫がおりました。二人とも、衣の裾が赤く濡れておりました。朱皇后は自らの衣を裂くと、各々の脚を伝う血を丁寧に拭いました。
幼い帝姫ふたりは、朱皇后に抱きついて泣きました。励ますようにゆっくりと、優しく背を撫でてやる手は、まさに、慈母のものでした。
八月の末頃、会寧府へと至った私たちは、兵たちの手で天幕から連れ出されました。集められた先は、彼らの祖廟でした。服を剥がれ、上体を裸にされ、羊の毛皮を掛けられました。見れば、諸王も后妃も帝姫も皆、同じなりをしておりました。
我が主上――宣和の太上皇と太上皇后陛下、靖康の帝と皇后陛下も、同じ御姿のままに、殿中へと通されました。聞いたことのない音階の、耳障りな楽が奏でられる中、金人の主が羊を二頭、牽いてくるのが見えました。
古《いにしえ》の「牛耳を執る」儀式と似たものであろうとは、想像ができました。春秋の昔、諸侯の盟約の儀においては、盟主となる者が牛の耳を裂いたといいます。犠牲の羊は、牛耳のようなものなのでしょう。
哀れな獣の鳴声が、堂内に響きました。血の臭いが、私のところにまでも微かに漂いました。
犠牲の羊の遺骸を前に、太上皇陛下は膝を折り、深く頭を下げられました。靖康の帝も、お二人の后も倣いました。離れて居並ぶ私たち、大宋の者もまた。
すすり泣きが聞こえた気がしました。誰のものかは、分かりませんでした。
夕刻、私を含めた后妃や帝姫たちに、宮殿での沐浴が与えられました。旅の間に垢を落とす機会などありませんでしたから、幼い姫の中には喜ぶ者もおりました。和福帝姫と寧福帝姫が、疲れ果てた笑顔で呟きあっておりました。
「やっと……体、きれいにできるね」
けれど大半の者は、疲れの中に諦めの色を浮かべておりました。虜囚の女にあえて身を清めさせる意図は、明らかでしたから。
浴場に重苦しい水音が響く中、ひとり朱皇后だけが、双眸に強い光を湛えておられました。靖康の帝の后として、共に金人の祖廟を拝まされたばかりであるのに、なんともお強い方だと思いました。
隣で水を浴びていると、不意に、朱皇后が私の方を向きました。
「徳のありかたについて、長く考えておりました」
微笑みは、どことなく寂しげであるようにも見えました。
「危難の時に遭って、帝の后として、どうあるべきか。女としての名節を汚さぬようにするには、どうすればよいか。長く、……長く、考えてまいりました」
真摯な瞳が、私をじっと正面から見つめてきました。
「答えは、おわかりになりましたか」
「はい。そして……私は率先して皆の範となります。高貴な女たちが、これより先に待つ困難の犠牲とならぬように。名を、汚さぬように」
気圧されるほどの、力強いまなざしでした。
その夜、朱皇后は首を吊りました。
けれど、与えられていた胡服の帯は脆かった。皇后の、旅にやつれた体さえ支えきれず、無残にも切れ落ちたと聞きました。伝聞ですので、本当にそうだったのかは知りません。確かめる術も、もうありません。
確かなのは、朱皇后が自害に失敗し、金人たちに助け出され……翌朝、宮殿周りの濠で遺骸となって浮かんだこと。ただ、それだけです。
けれどそれは誤りでした。春と共に訪れたのは、さらなる苦難でした。
金人は二帝を――我が主上たる宣和の太上皇と、廃帝となった靖康の帝とを庶人に堕とし、北方の彼らの土地へ遷すと告げました。のみならず皇族も后妃も、武官も文官も、兵も民も、貴賤を問わず随行せよと。既に奪い尽くしていた財貨と併せ、彼らは東京開封府のすべてを、北へと奪い去る心積もりだったのです。
春も終わりに近づいた頃、私たちは開封府を出立しました。すべての門は焼け落ち、街路は瓦礫と灰に埋もれておりましたが、それでも皆、もちろん私も、留まることを望んでおりました。軍民、百官、皆が泣いておりました。それは郷愁のみならず、先に待つ旅路の辛苦をも思っていたのでしょう。
……ええ、とても、長く惨めな道行きでした。
出立したのが三月の末。金国の都城たる会寧府へ至った頃は、八月も半ばを過ぎておりました。小さな足の女たちは、もちろん長くは歩けませんから、ほとんどの者は騎乗でした。ですが五ヶ月もの間、馬の背で揺られ、風雨に晒され続けるのは壮健の士でも耐え難いこと。加えて、金人からの辱めは道中でも変わらず続いておりました。力尽きて落馬し、胎に宿した金人の子と、己が体とを共に損なう者が後を絶ちませんでした。
馬に乗れなくなった女たちは、沿道に棄て去られました。精根尽きた身で、歩けぬ足で、見知らぬ土地に打ち捨てられれば、先に待つさだめは明らかです。
幾人もの女たちが、車に縋って泣き叫んでおりました。
貴人の車は望まない、荷車の隅でいい、せめて傷が癒えるまで、どうか、どうか――
車輪に取りつく手を、兵士たちは羽虫でも払うように、矛や槍で叩き落としていきました。続く車列にも顧みられることなく、ただ遠くなっていく慟哭は、聞くたびに耳に取りついて、長く離れませんでした。
道中、寺に逗留した折、朱皇后と話す機会がありました。お顔はやつれ果て、目の下には隈がありましたが、それでも生来の容貌は損なわれておらず、微笑みは相変わらず美しいものでした。
「難に遭った時にこそ、徳は顕れるものです」
そう言って朱皇后は、周りの帝姫たちに声をかけて回っておりました。中に、和福帝姫と寧福帝姫がおりました。二人とも、衣の裾が赤く濡れておりました。朱皇后は自らの衣を裂くと、各々の脚を伝う血を丁寧に拭いました。
幼い帝姫ふたりは、朱皇后に抱きついて泣きました。励ますようにゆっくりと、優しく背を撫でてやる手は、まさに、慈母のものでした。
八月の末頃、会寧府へと至った私たちは、兵たちの手で天幕から連れ出されました。集められた先は、彼らの祖廟でした。服を剥がれ、上体を裸にされ、羊の毛皮を掛けられました。見れば、諸王も后妃も帝姫も皆、同じなりをしておりました。
我が主上――宣和の太上皇と太上皇后陛下、靖康の帝と皇后陛下も、同じ御姿のままに、殿中へと通されました。聞いたことのない音階の、耳障りな楽が奏でられる中、金人の主が羊を二頭、牽いてくるのが見えました。
古《いにしえ》の「牛耳を執る」儀式と似たものであろうとは、想像ができました。春秋の昔、諸侯の盟約の儀においては、盟主となる者が牛の耳を裂いたといいます。犠牲の羊は、牛耳のようなものなのでしょう。
哀れな獣の鳴声が、堂内に響きました。血の臭いが、私のところにまでも微かに漂いました。
犠牲の羊の遺骸を前に、太上皇陛下は膝を折り、深く頭を下げられました。靖康の帝も、お二人の后も倣いました。離れて居並ぶ私たち、大宋の者もまた。
すすり泣きが聞こえた気がしました。誰のものかは、分かりませんでした。
夕刻、私を含めた后妃や帝姫たちに、宮殿での沐浴が与えられました。旅の間に垢を落とす機会などありませんでしたから、幼い姫の中には喜ぶ者もおりました。和福帝姫と寧福帝姫が、疲れ果てた笑顔で呟きあっておりました。
「やっと……体、きれいにできるね」
けれど大半の者は、疲れの中に諦めの色を浮かべておりました。虜囚の女にあえて身を清めさせる意図は、明らかでしたから。
浴場に重苦しい水音が響く中、ひとり朱皇后だけが、双眸に強い光を湛えておられました。靖康の帝の后として、共に金人の祖廟を拝まされたばかりであるのに、なんともお強い方だと思いました。
隣で水を浴びていると、不意に、朱皇后が私の方を向きました。
「徳のありかたについて、長く考えておりました」
微笑みは、どことなく寂しげであるようにも見えました。
「危難の時に遭って、帝の后として、どうあるべきか。女としての名節を汚さぬようにするには、どうすればよいか。長く、……長く、考えてまいりました」
真摯な瞳が、私をじっと正面から見つめてきました。
「答えは、おわかりになりましたか」
「はい。そして……私は率先して皆の範となります。高貴な女たちが、これより先に待つ困難の犠牲とならぬように。名を、汚さぬように」
気圧されるほどの、力強いまなざしでした。
その夜、朱皇后は首を吊りました。
けれど、与えられていた胡服の帯は脆かった。皇后の、旅にやつれた体さえ支えきれず、無残にも切れ落ちたと聞きました。伝聞ですので、本当にそうだったのかは知りません。確かめる術も、もうありません。
確かなのは、朱皇后が自害に失敗し、金人たちに助け出され……翌朝、宮殿周りの濠で遺骸となって浮かんだこと。ただ、それだけです。
2
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
浮雲の譜
神尾 宥人
歴史・時代
時は天正。織田の侵攻によって落城した高遠城にて、武田家家臣・飯島善十郎は蔦と名乗る透波の手によって九死に一生を得る。主家を失って流浪の身となったふたりは、流れ着くように訪れた富山の城下で、ひょんなことから長瀬小太郎という若侍、そして尾上備前守氏綱という男と出会う。そして善十郎は氏綱の誘いにより、かの者の主家である飛州帰雲城主・内ヶ島兵庫頭氏理のもとに仕官することとする。
峻厳な山々に守られ、四代百二十年の歴史を築いてきた内ヶ島家。その元で善十郎は、若武者たちに槍を指南しながら、穏やかな日々を過ごす。しかしそんな辺境の小国にも、乱世の荒波はひたひたと忍び寄ってきていた……
要塞少女
水城洋臣
歴史・時代
蛮族に包囲され孤立した城を守り抜いた指揮官は、十四歳の少女であった。
三国時代を統一によって終わらせた西晋王朝の末期。
かつて南中と呼ばれた寧州で、蛮族の反乱によって孤立した州城。今は国中が内紛の只中にあり援軍も望めない。絶体絶命と思われた城を救ったのは、名将である父から兵法・武芸を学んだ弱冠十四歳の少女・李秀であった……。
かの『三國志』で、劉備たちが治めた蜀の地。そんな蜀漢が滅びた後、蜀がどんな歴史を辿ったのか。
東晋時代に編纂された史書『華陽國志』(巴蜀の地方史)に記された史実を元にした伝奇フィクションです。
お狐長屋の両隣り [完結]
BBやっこ
歴史・時代
四軒の長屋がポツンとある。そこには大家さんと、一人暮らしの娘っ子がいて、二つの空いた部屋を貸し出すが、なかなか居付かない。なぜだろうと思いつつのんびり過ごしている人情もの
海怪
五十鈴りく
歴史・時代
これは花のお江戸にて『海怪(うみのばけもの)』と呼ばれた生き物と、それに深く関わることになった少年のお話。
※小説家になろう様(一部のみノベルアッププラス様)にて同時掲載中です。
【完結】月よりきれい
悠井すみれ
歴史・時代
職人の若者・清吾は、吉原に売られた幼馴染を探している。登楼もせずに見世の内情を探ったことで袋叩きにあった彼は、美貌に加えて慈悲深いと評判の花魁・唐織に助けられる。
清吾の事情を聞いた唐織は、彼女の情人の振りをして吉原に入り込めば良い、と提案する。客の嫉妬を煽って通わせるため、形ばかりの恋人を置くのは唐織にとっても好都合なのだという。
純心な清吾にとっては、唐織の計算高さは遠い世界のもの──その、はずだった。
嘘を重ねる花魁と、幼馴染を探す一途な若者の交流と愛憎。愛よりも真実よりも美しいものとは。
第9回歴史・時代小説大賞参加作品です。楽しんでいただけましたら投票お願いいたします。
表紙画像はぱくたそ(www.pakutaso.com)より。かんたん表紙メーカー(https://sscard.monokakitools.net/covermaker.html)で作成しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる