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人生羈旅

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 黒服の人々が、葬祭センターからぱらぱらと出てくる。通夜振舞は終わったらしい。
 儂はそれを横目で見ながら「故白神健一郎儀 式場」の立看板の裏で丸くなっていた。会場には一歩も入れていない。当たり前だ、厳粛な通夜祭に野良猫など混じれるわけがない。結局、今日は何もできず終わってしまった。
 しかし寒い。ここなら風は避けられるが、温暖な九州でも十二月の夜は冷える。やがて、去る人々の足音も途絶え、会場の明かりも落ちた。
 寝るか。寝るしかなかろう。だが、明日はどう樅木神社まで帰ればいいのか。この思慮のなさが、生前猪武者呼ばわりされた由縁だったと、儂は久方ぶりに思い出した。
 震えつつ自分の毛に顔を埋めていると、不意に懐かしい気配があった。

「……忠隆公? もしや忠隆公ではございませんか!?」

 上を向けば、猫の目には何も映らない。だが神としての勘は、よく知った魂を確かに感じ取った。

「健さ……宮司の白神ではないか」

 精一杯厳かに、心の声で言う。この姿で威厳を出すのは逆に滑稽かもしれないが。
 それでも健さんは、儂へうやうやしく頭を下げた。姿なくとも神にはわかる。

「畏れ多いことです。ところで、いかがなさいましたそのお姿」
「そなたこそ、遷霊の儀は終わったのではないのか」
「身体がなくなるまでは、こうして漂うこともできるようです。少し、行きたいところがございまして」

 言いつつ、健さんは何かに気付いたようだった。

「よろしければご一緒にいかがですか。私の行く先には、屋根も暖気もございます」

 断る理由が、なかった。



 健さんの気配についていくと、やがて民家の玄関に来た。猫の目に見えるかぎりだと、築数年程度の二階建てで、脇の物置には小さな自動車も停まっているようだ。健さんは軒下の薄汚れた箱の前で、儂へ向かって一礼した。

「給湯器の室外機でございます。この上であれば暖がとれるかと……敷物の一つもお出しできず申し訳ございませんが」

 ありがたく乗らせてもらおうとした時、儂はかすかな違和感に気付いた。
 樅木神社の霊気を、遠く離れたここで感じる。見れば、玄関にもみの葉でできた輪がかかっていた。松かさや玉飾り、赤い紐が付けられた見目好い飾りだ。

「どうなさいました」
「いまどきの正月飾りは変わった作りだな」
「ああ、クリスマスリースですね。この家の者が作りました」

 全身の毛が、逆立つ。

「そんなはずはない。この葉は樅木の森から取られたものだ、儂には分かる」

 怒りを滲ませれば、健さんはわずかに後ずさった。

「これが『クリスマス』の飾りだとすれば、この家の者は、儂の木を盗んでキリシタンの飾りを作ったことになる。島原の一揆を鎮めた者として、儂はその所業を見逃しはせぬぞ」
「……私です」

 玄関の前、健さんが静かに平伏する。
 地面の冷たさは、霊の身には伝わらぬだろう。それでも、地につけた手が痛々しい。

「私が、この家の者に樅を渡しておりました。何年もずっと」

 返す言葉が見つからない。在りし日の健さんが、森で青葉を取っていたのは――
 立ちつくす儂の前で、健さんは地面に付きそうなほどに頭を下げた。

「ですので罪は私にあります。罰はどうかこの身一つにお与えください」
「なにやら事情がありそうだな」

 健さんは深く頷いた。

「忠隆公、家の中はご覧になれますか」
「この目では難しいな。獣の身を離れれば可能だろうが、そうすれば猫がどこかへ行って――」

 言いかけたところで、強烈な睡魔に襲われた。

「すまんな。少し寝かせてくる」

 室外機とやらの上に乗れば、身を包む暖気に大あくびが出る。猫の意識が眠りに落ちる直前、儂はこの小さな身体を離れた。
 肉の身から抜けた瞬間、壁の向こうの様子が、幕を払ったように視界に広がる。霊の身は家の内外すべてを一度に見られるが、ひとまず、人がいるあたりに意識を凝らす。
 あたたかな光に包まれた、洋風の居間であった。低い机の脇には柔らかそうな布張り椅子が並び、齢三十ほどの黒髪の女が、黒服の上に童女を抱いていた。齢五つほどに見える童女もまた黒服で、背を丸くして、女の膝の上で眠っている。部屋の奥には、洋室に不似合いな真新しい仏壇があった。

「孫娘の美紀子みきこです。抱いておるのは曾孫ひまご香織かおりでございます」

 健さんが目を細める。

「美紀子は昔から草花が好きでしてな。長じてからは花飾りや草木飾りをよく作っております。神社周りの樅は質が良いそうでしてな、持っていくとたいそう喜んでおりました……手先の器用さだけは父に似たようです」

 健さんの声が、ほんの少し低くなった。
 健さんの一人息子は神職を継がず、釜崎市内で自動車整備工になった。三年ほど前に亡くなったと聞いたが、娘がいたとは初耳だ。
 部屋の中の声が聞こえる。

「香織は寝たか」
「お通夜に出るのなんて、生まれてはじめてだしね。疲れちゃったんだと思う」

 夫と思しき男が、童女を部屋まで抱いていく。居間に残った美紀子が、戸棚から小さな箱を取って後を追った。
 意識を凝らして追跡すると、行先は子供部屋だった。小さな寝台の横に、なぜか大きな靴下が吊ってある。男は幼子を寝台に寝かせ、喪服の首元だけを緩めた。後から入ってきた美紀子が、小箱を靴下の傍に置いた。

「あれも『クリスマス』とやらの習わしか」
「はい。クリスマス前日の夜に靴下を飾っておけば、聖者『サンタクロース』が子供に贈り物を届けてくれる、と、かの教えでは信じられております」
「我らの国でもか」
「はい。クリスマスの前夜、多くの日本の子供たちは贈り物を待ちながら眠ります」
「そうか」

 どうしても声に苛立ちが混じる。
 サンタなんとかの名は商店街でも聞いた。あの作り物の老人が聖者だというか。贈り物を撒けば、民はたやすく手なずけられるというのか。
 樅木の社のありようを思えば、腹のあたりに澱みが湧く。

「白神よ。……悔しゅうはないのか」

 できるだけ怒りは抑えたつもりだ。それでもどうしても、なにかが滲む。

「父祖伝来の社は荒れ果て、我らの民を害した宗門の祭が華やかに祝われる。……そなたは島原の一揆を見てはおるまい、だが前の戦で、釜崎の街を焼いた炎は見ておるはずだ」

 健さんは無言で肩を落とす。うつむき、返すべき言葉に惑っているように見えた。
 なぜ迷う。儂は悔しいぞ。儂が軽んじられるのはどうでもよい。だが我らの父祖は、大いなる八百万の神々は。
 さらに言葉をたたみかけようとした時、ふと、眠る童女が目に入った。毛布から覗く頬はふっくらと桃色に染まり、肉付きの良い耳たぶは触れれば心地よさそうだ。
 この子はよく食っておるようだ。……一揆衆の子らとは違って。
 ふと気になって、儂は健さんに訊ねた。

「白神よ。そなたも、子らにクリスマスの贈り物を与えたことはあるのか」

 健さんの答えは、意外にもすぐに返ってきた。

「はい、息子が幼い頃は毎年。車が好きな子でしたので、ささやかながら、ミニカーを靴下に入れてやっておりました。消防車やパトカー、救急車など」

 健さんまでもか。
 返す言葉を見つけられずにいると、健さんは穏やかな、けれど寂しげな笑みを浮かべた。

「神職の家に生まれたことを、恨んでほしくはありませんでしたのでな。彼らの神も八百万やおよろずのひとつと、己に言い聞かせながら……それに」

 健さんは、眠る子を眺めつつ目を細めた。

「子供たちは皆、いつか気付きます。『サンタ』が本当は誰なのか。贈り物を買い、二十四日の夜に枕元に置いてくれたのは誰なのか。それは決して、馴鹿トナカイそりを駆る異教の聖人ではないと」

 そこまで一息に話すと、健さんは大きく息を吐いた。

「……その日のために背中を見せ続けることが、ただひとつの道と思っておりました。神々を敬い、日々の勤めを欠かさず、行いを正し、人々の模範となり……そうしておれば、伝わるものと思っておりました」

 健さんが遠くを見る。その先に意識を向けてみれば、憂いに満ちたまなざしは洋居間に戻り、奥の真新しい仏壇を見つめていた。

「皆、いつか気付く。けれど和幸かずゆきは……息子だけは、小さな車をくれた異教の聖人に、連れていかれたままだったのかもしれませんな」

 そうだな、もう四十年くらい前のことか。
 宮司になりたての健さんが、黒い詰襟姿の息子を連れてきたことは今でも覚えている。学業成就の祈祷を用意する健さんに、息子は目を合わせぬまま言ったのだ。大学へは行かない、機械系の専門学校へ行くと。
 健さんが本気で怒ったところを見たのは、あの時が最初で最後だ。境内で言い争う声が、本殿の儂のところにまで届いたものだ。

 美紀子と夫が居間に戻ってきた。二人は鞄の中身をあらため、明日の告別式に備えて詰め直しているようだった。
 美紀子が席を立ち、仏壇下の引き出しから何かを取り出した。

「これ、一緒に焼いてもらえるかしら」

 出てきたのは、透明な箱に入った小さな自動車だった。赤い箱のような車、上下半分ずつ白と黒に塗り分けられた車、白地に赤い線が入った車……次々と机に並ぶ模型たちを前に、健さんの肩が大きく震えた。

「棺に入れていいのは燃える物だけだぞ。これはちょっと無理だろ」
「やっぱり」

 深く息を吐きながら、美紀子は並べたうちのひとつ、赤い箱状の車を手に取った。

「父さん、これをずっとお守り代わりにしてたの」

 美紀子は、うつむき加減に語り始めた。

「子供の頃、クリスマスにもらったものなんだって。神職の家にサンタが来るのもおかしな話だけど、きっと、生まれの違いで寂しがることがないように気を遣ってくれたんだろう……って、治る見込みがなくなってから教えてくれたの」

 言って、美紀子も仏壇を見た。健さんと孫娘の視線が、同じ方を向いた。

「サンタは俺によくしてくれた、けど俺はなにも返せなかった、って、苦しそうに言うのよ。神職になるには大学を出なきゃならない、けど俺の頭じゃ無理だった。だったらせめて、できることでなんとかしようと思った、でもだめだった……って」

 嗚咽が聞こえてくる。はじめは美紀子かと思った、けれど、それが生者の発する音でないことに、儂はすぐ気付いた。

「お守りは一年経ったら神社へお返しするものだ。だからこれも、サンタのところへ返してきてほしい……そう言って託されたんだけど。結局、切り出せないまま――」

 そこで言葉を切り、美紀子は両手で顔を覆った。丸まる背に、夫がそっと手を置いた。

「……和幸。和幸」

 儂の傍らで、人には聞こえぬ声が、嗚咽混じりにここにはいない者を呼ぶ。
 大きく震える健さんの背に、儂はそっと手を置いた。霊の身同士であっても、温もりは確かに伝わってきた。
 儂と美紀子の夫は、共に何も言わず、ただ隣の者の背を撫で続けた。

 なるほど。確かに、皆気付くのだな。いつか。

 ふと見れば、居間の壁には樅木神社の一陽来復札が掲げてあった。昨年の冬至に儂が分け与えた力は、もう消えかけているようだが。
 健さんの墨文字が踊る札の横で、神社の樅で作られた緑の輪が、洋居間の者たちを静かに見守っていた。
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