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大学四年・春

ごはんがあれば、だいじょうぶ。

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 ごちそうさまを聞き届けた後、あたしは瞳子に訊いてみた。

「瞳子……よくわかったな」
「なにがー?」
「この焼きそばもどきに、このタレが合うってこと」

 あー、と一声あげて、瞳子は目を細めた。

「ミカちゃんの焼きそば―、焼きそばっていうより野菜炒めになってたから―。わたし、野菜炒めにこのタレ使うの好きなんだ―」
「なるほど……使い慣れてたってわけか」
「そうそうー。わたしも、お料理失敗しちゃうことはいっぱいあったからー。でも食べ物は無駄にできないからー、どうにかする方法もちゃんと知ってるんだよー」

 話す瞳子はすっかり上機嫌だ。
 いろいろあったけど、とりあえず最初の目的――瞳子に元気になってもらうこと――は達成できたんだろうか。
 だとしたら。

(この先に、踏み込んでもいいんだろうか)

 迷う。
 下手をすれば瞳子を、また嫌な記憶へ引きずり戻しちまうかもしれねえ。せっかく気力を取り戻したのに、それじゃ元も子もねえ。
 けれども。

(ここで、手を放すのかよ……瀬川美佳)

 あたしの中の何かが、横っ面をひっぱたいてきた。
 ここまで来ておいて放り出す気かよ。元気も励ましももらうだけもらって、自分は逃げる気かよ。
 せめて、もらっただけのものは返せ。

(そうか……そうだな)

 あたしは、思い切って口を開いた。

「瞳子」
「ん、なあにー」
「瞳子、いろんなこと知ってんだな。失敗した料理を、どうにかする方法とか……さ」
「そだねー。いろいろ、お料理はしてきたからー」
「でもあたしは、そんなこと知らねえし……それは瞳子のすごいとこだ。だから、よ」

 あたしはひとつ深呼吸をして、瞳子の目を真正面から見た。

「瞳子はすごいんだよ。誰に何を言われたってな」

 茶色の大きな目が、きょとんとしている。

「そうかなー?」
「だから、一度や二度の失敗でめげんじゃねえぞ。あたしの焼きそばもどきだって、瞳子はどうにかできたんだ。失敗したって、瞳子だったらどうにかできる」

 瞳子は、目を何度もしばたたかせた。

「あたしは、瞳子の料理で何度も助けられてきた……それだけのもの作れるんだ、自分のことは大事にしろ」
「えっと、ひょっとしてー……ミカちゃん、わたしのことー……」
「あたしは瞳子と違って、まともな料理は作れないけどよ。ほら」

 あたしは、ポケットから一枚のカードを出した。
 瞳子が部屋にこもった後、買い物に行く前に部屋から取ってきていたものだ。あたしたちが就活を始める前、大学の就職課から四年生全員に配られた。学校用の鞄の中でずっと放置してたせいで、ちょっと折り皺がついちまってるが。

「労働問題無料相談窓口……?」
「就活でトラブルがあったら遠慮なく相談するように、って言われた。学校の学生課や就職課でもいいけどよ、学校で解決しなさそうなら、そういうところに相談するのもありだ」
「……ミカちゃん」

 瞳子はじっと、カードの内容を読んでいるようだった。瞳子の学校では、こういうのはもらわなかったんだろうか。

「あたしも一応法学部だから、ちょっとなら法律もわかるしな。ちゃんとした専門家みたいなことは言えねえけど、話聞くくらいなら――」

 そこまで言って、あたしは息を呑んだ。
 瞳子が泣いていた。大きな茶色の目にたまった涙が、次から次へぽろぽろ流れて落ちていた。
 しまった、蒸し返しちまった――そう思いかけたあたしに、瞳子はいきなり抱きついてきた。
 背中に胸に、ぎゅうと、瞳子の圧を感じる。

「ありがとー……ね」

 あたしの肩の上で、鼻声で、瞳子は言った。

「そんなふうに言ってくれるの、パパと、ミカちゃんだけだよ」

 そっと背中を抱いてやると、肉の薄い肩はちいさく震えていた。

「だからね、早くパパに恩返ししたいの……自分でお金稼げるようになって、パパに楽させてあげたいの。でも――」

 そこで瞳子の言葉は止まった。
 肩でしゃくりあげる声と、あたしの背を掴む手の震えだけが、伝わってくる。
 あたしは瞳子の背を撫でた。ゆっくりゆっくり、子供を寝かせる時みたいに、力を入れないように、撫でた。
 しばらくすると、しゃくりあげる声は止まった。けど瞳子は顔を上げずに、ずっとあたしの肩に顔を埋めていた。
 
 
 
 どれだけの間そうしていたか、よくわからない。
 不意に、瞳子が声を出した。

「ミカ、ちゃん」

 ほとんどつぶやきみたいな、声だった。

「ありがとう、ね」

 肩から、瞳子の重みが消えた。目の前に、涙でぐちゃぐちゃの顔が現れた。

「あした、学校で相談してくるから……だめだったら、ここに電話してみるから」

 折れ筋のついた連絡先カードを掲げながら、瞳子は言った。

「ああ、そうするといい。こういうのは、ひとりで悩んでたら絶対だめだからな……あとな」

 ほんの少しためらいながら、あたしは言った。

「暇な時で構わねえが……もし、瞳子さえよかったら、だけどよ」

 瞳子が、不思議そうに首を傾げる。
 口に出すのが恥ずかしい。けど、言わなけりゃ。

「……その。料理、教えてくれねえかな」
「え」

 濡れた瞳が、ぱちぱちとまばたく。

「ミカちゃん、お料理したいの……?」

 こくこくと、頷く。
 顔が熱い。きっと今、あたしの顔は真っ赤だ。

「その……あたしが落ち込んでた時、何度か料理作ってくれたろ。あれ、すごく落ち着くし嬉しかったから……だから」

 あたしは瞳子の手を取った。あたしの背から外されたばかりの掌は、思ってたより固い。これが、料理をする手なんだろうか。

「ほっときたくねえんだ……瞳子が落ち込んでたり、泣いてたりするのを、よ」

 瞳子が、あたしの手を握り返してきた。

「ミカちゃんの手、結構やわらかいー」

 ほんの少し気恥ずかしさを感じつつ、あたしは答えた。

「水仕事とかあんまりやってねえしな……バイトも接客ばっかりだったしよ」
「そうなんだー」

 瞳子が、じっとあたしを見つめてくる。手は相変わらず、あたしの掌を握ったままで。
 わたしの料理の腕は、簡単に身に着けたものじゃないよ――固い肌が、そう言っている気がする。
 それでも、あたしは、瞳子の手をぎゅっと握り返した。

「教えてくれ、瞳子。みんなを……いや、瞳子を元気にできる、料理のやり方を」
「うん、いいよー?」

 風呂の順番を答えるかのような呑気さで、瞳子は言った。

「ミカちゃんさえ大丈夫なら、いつでもー。あ、でも、履歴書とか書く時間もあるから、それがないときねー」
「ん、それなら」

 ふと思いついたことを、あたしは口に出してみた。

「よかったら履歴書とかエントリーシートとか見るぜ。あたしも学生だから大したことは言えねえけど、いっぺん他人の目通した方が誤字とかは減るだろ」
「え、いいのー? だったら、ミカちゃんは履歴書の書き方を教えてくれて、わたしはお料理を教えてあげればいいのかなー?」

 大きく頷く。
 目の前の茶色の瞳が、一気に輝いた。

「やったあ、ありがとー! ミカちゃんのおかげで内定とれたら、とびっきりのごはんでお祝いしようねー?」
「ああ。それまでに、あたしもなんか作れるようにしてくれよ。瞳子先生」
「やだー。先生とか恥ずかしい―」

 頬を染めて、瞳子は笑う。
 さっきまで泣いてたのが嘘みてえな、いや、涙で嫌なもの全部流し切っちまったかのような、キラッキラの笑顔だった。
 
 
 
 おいしいご飯と音楽と家族。
 それだけあれば、生きていけると思っていた。
 
 家族は永遠じゃないかもしれない。
 音楽も、今みたいには聞けなくなる日が来るかもしれない。
 
 けど、ご飯は作れる。
 自分で食べるご飯は作れる。他の誰かを幸せにするご飯も、きっと作れる。
 
 あたしの隣には、それができる子がいるんだから。
 
 食卓に座って待ってるだけじゃ、おいしいご飯は食べられない。
 だからあたしは作るんだ。
 今はできなくても、いつか。
 
 これから先、辛い日は何度も何度も来るだろう。
 けれどそんな日も、幸せのご飯を教われば、きっと生きていける。
 隣の子も、きっと笑っていられる。
 
 できれば、ずっと一緒にいたいけど。
 いつか別の道へ進んでも、教えてもらったあたたかな味は、死ぬ日までずっと忘れないだろう。
 あたしの中の、あの子の証として。
 
 そう、きっと。
 ごはんがあれば、だいじょうぶ。



【完】
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