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第七章「暁に至る時」
第二百五十三話 レッド・シティ
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アインドルフは『ミルヴァン校』に登校し、勉強してから家に帰る。それから家族団欒を楽しみ、明日に備えて眠りにつく。これまでと同じ生活を繰り返していた。しかしそんな日々に一つ変化が生まれた。それが養子のエルトアという少女だ。
彼女はどんな分野にも高度な技能と知識を有しており、どんなことをやらせてもクラストップは当たり前。世界でも一番なんじゃないかと思うほどだ。特に魔法に関しては、いつもどこか乗り気でないというか、やる気がなさそうな彼女が唯一興味を示し、楽しそうに行う授業であった。アインドルフも魔法の才がないわけではないし、嫌いでもないが、彼女のそれは正に規格外だった。教師の組み上げた独自魔法を「無駄が多い」としてその場で構築し、行使したときは本当にアインドルフは驚いたものだ。強いて欠点を挙げるとすれば、彼女は自分ができるからと言って他人もできると思っているのか、それとも単に興味がないのか、人のことを深く考えない所がある。しかしそれを補って余りある程の才能と能力があるから、誰もその欠点を指摘できたものではない。そして、彼女の美貌に関しては筆舌に尽くし難い。どれだけ美しいのかは、直接見た方が分かりやすいだろう。敢えて形容するならば神の如き美しさだ。
正に才色兼備という言葉が相応しい少女、エルトア。そんな彼女にアインドルフはある想いを持っていた。
「⋯⋯どうした、アイン?」
休日、屋敷の食卓でアインドルフと父親、ローゼンヴェルフは食事をしていた。どうやらアインドルフは呆けていたようで、食事の手が止まってしまっていた。何か悩みでもあるのかと心配してローゼンヴェルフは息子に話しかけたのだ。
「え? な、何も」
「⋯⋯もしかして、エルトアのことを考えていたか?」
養子として迎えた子供に言うのもどうかと思うが、彼女は大変美しくて可愛い人だった。成長すれば引く手数多なのは分かりきった人物。むしろ今でさえそうだろう。
思春期男子にはさぞ刺激が強いだろう。妻子持ちの男でさえ魅力的に思うのだ。同年代ともなれば自制心が働き者になってしまうことだろう。
「⋯⋯⋯⋯」
「顔に出ているぞ、アイン。まあなんだ⋯⋯実際に血が繋がっているわけじゃないから、法律上結婚はできるぞ」
「それ言います? 父様?」
会話はこれで終わり、食事も終えると各々自室に戻った。ローゼンヴェルフは書斎で読書。アインドルフは自室で勉強する。
貴族は何もせず、その土地を貸すことによる不労所得で生活することが美徳であるのだが、何もしないことは精神衛生上よろしくない。だからアインドルフは勉強をしているし、これには目的があった。
アインドルフの将来の夢は騎士になることだ。前線を引っ張り、国の英雄となる強くて勇敢なる戦士。物語に登場するような勇者。そういうものになりたいと思っている。だがノトーリス家に次男、三男はなかなか生まれなくて、かつ長男である彼がなれるのは名目騎士だ。職業騎士──戦闘集団としての騎士になろうものなら、いつ死ぬかも分からない。よって、当主になるには相応しくないだろう。
「⋯⋯それでも、僕は騎士になりたい」
そのためにはどうすれば良いかをずっと考えてきた。勿論、十三歳の子供に答えは出なかった。しかし、つい最近、その問題の解決策が現れたのだ。それこそ、エルトアの存在だ。彼女が養子であるならば、彼女に家を継がせることができる。いや、最初から当主になってもらうことで、自分は自由になることができる。
「でも、彼女がそれを拒否したなら? いやそもそも、女性の貴族は過去に例が少なすぎる。数少ない例も、長男が居なかったからなっただけ。それに、彼女は当主になるよりもどこかの家に嫁いだ方が良い」
貴族といえば男性だ。そして貴族である以上、外聞を気にして生きなければならない。自分たちの領地、財産を維持し、成長させるには情報が全て。貴族の仕事は土地経営ではなく情報収集と言って過言ではない。
また、貴族間でも政略結婚はよくある話だ。貴族間の結びつきが強くなればなるほど力はつく。絶世の美女にして文武両道、その上大貴族ノトーリス家の令嬢という肩書は、養子というマイナスイメージを塗り潰して有り余る力がある。これほどの逸材を政略結婚に使わないでどうするのか。そして彼女が嫁いだ場合、家督を継ぐのはアインドルフに今度こそ確定する。
感情的な方面からも、己の夢からも、エルトアを嫁がせるわけにはいかない。これが彼に結婚の意識を自覚させ、強める要因となっていた。
「僕が勉強しているのは、将来のため」
国語は言わずもがな。計算力も科学も歴史も魔法学も、学校で習う何もかもは自分の価値を高めるだけのものではなく、自分がやりたいことをやれるようにするためのものだ。作法を学ぶ以外において、最初から不労所得で生活をするならばあんな学校に行く必要はない。
「⋯⋯よし、今夜、皆に打ち明けよう。僕は騎士になるんだ、って。エルトアのことは⋯⋯まだ、いいや」
アインドルフは今日もまた勉強をする。そして剣の稽古も、毎日欠かさずやっていた。
◆◆◆
その日の夜。夕食の用意をシェフがやろうとし始めていた時のことだった。突然、屋敷の扉が四度叩かれる。執事の一人が向かい、扉を開けるとそこには兵士が立っていた。何やら焦っている様子だ。
「どうなさいました、兵士様。こんな時間に?」
「失礼。しかし、緊急の連絡がありまして。執事殿、これを当主様に。要件だけを伝えると、今すぐ国外に避難してください」
「国外に? ⋯⋯何があったかはここに?」
「はい。では」
執事はすぐさまローゼンヴェルフの元へ向かった。そして彼に兵士が持って来た手紙を開封し、渡す。彼がそれを読むにつれて顔が険しくなり、読み終えた頃には絶望か、もしくは困惑、あるいはそれらどちらも含んだような表情をしながら執事に伝えた。
「⋯⋯今すぐにこの家に居る全員に伝えなさい。屋敷を出る準備をすると。日持ちする食料と水を持ち、全員が逃げられるように馬車を出しなさい。私も準備に関わる」
冗談でもローゼンヴェルフはこんなことを言わない。彼自身が避難準備を手伝うと言うほど、事態は深刻であるらしい。
「⋯⋯一体何が?」
「今から一時間前、首都モルディンが何者かに襲撃された。被害は不明。分かっていることは現地の守護兵は全滅。この連絡を最後に一切連絡が不通になったとのことだ」
「なっ⋯⋯承知しました。避難の準備を即刻行います」
「ああ、頼む。アインには私から伝えておく。⋯⋯いいか? 全員だ。この屋敷に居る全員を避難させろ。誰一人として残すな」
「はっ!」
首都モルディン──現在、ノトーリス家が居住している都市ウィンズの北方数十キロメートル先にある近場の都市だ。そこが襲撃されたとなれば、ウィンズは安全だとは言えない。だから避難勧告がされた。そして首都は当然のことだが警備が万全だし、戦力も十二分にある。そこが連絡が機能しなくなるほどの被害を受けたとなれば、敵の戦力は少なくとも首都戦力を超える。それも、一瞬で壊滅させられるほど圧倒的であるということだ。
「アインドルフ!」
ローゼンヴェルフは息子の部屋の扉を開き、名前を叫ぶ。そこには勉強していたのか椅子に座って、突然入ってきた父親に困惑している彼が居た。
「どうしましたか、御父様」
「首都が襲撃された。ここも安全ではない。逃げるぞ」
「!? ⋯⋯御母様とエルトアは!?」
二人は外に遊びに行ってくるとだけ行って外出したはずだ。母親がエルトアを連れ出す形で。どこへ行くかは言っていなかった。
「⋯⋯二人の帰りがやけに遅い。普通ならもうそろそろ帰ってきてもおかしくないはずだ。もう逃げたか、あるいは──」
──とてつもない爆発音と共に、部屋の窓が音を立てて揺らいだ。もう少しで割れるんじゃないかと思うほどの衝撃が走ったのだ。
「っ⋯⋯」
予想していた中で最悪の事態が起こった。──ウィンズにも襲撃された。何が起こっているかを把握する必要はない。ただ死が迫っていることだけを理解すればそれで今は十分だ。
「逃げるぞ!」
二人の心配をするよりも自分たちの心配をすべきだ。アインドルフは置手紙だけを書いてその場を立ち去る。
彼らはこの短期間で用意されていた馬車に乗る。屋敷の全員がここに居るから馬車はいくつもあり、アインドルフたちが乗ったのは中央付近のものだ。
そして一斉に走り出す。加速する最中にアインドルフは後方に目を向けた。
──炎が立ち昇っている。不自然なまでに整った炎だった。数秒経てば炎の柱は消えるが、一本が消える前に二本、三本、四本と立っていく。正しく地獄絵図。少なくとも襲撃者はどこかの国の軍隊では無さそうだ。この惨劇の主犯はきっと⋯⋯化物だ。
「⋯⋯何だ、あれ。何なんだよ、あれ!」
そこに眠っていたのか。まるで起き上がるように巨人が現れる。夜だからか、炎があるとはいえその全容を映すにはあまりにも火が足りなかったようだ。全長にして目算三十五メートルの巨人。色は僅かに分かっている範囲では血がない死人のようである。
「どうして⋯⋯こんなことに」
巨人は町を荒らす。腕を一振りするだけで家など簡単にごみ屑になってしまう。何より恐ろしいのは、巨体にあるまじきスピードだ。自分たちが小人になったように感じる。
炎の柱は幾本も立ち、巨人は町を荒らし回す。しかしそれだけでは終わらない。これではまだ、始まりでしかなかった。更なる脅威がアインドルフの目に映る。
「⋯⋯っ!?」
こちらに走ってくる人影があった。逃げてきた人間ではない。人が出して良い速さじゃない。近づくにつれて、その正体が分かった。化物だ。暗闇で薄黒くて赤い双眸を輝かせ、馬車に追いつく速度で迫ってくる怪物。その外見的特徴から判断するに、正体は死体喰いだ。
「な⋯⋯」
最後尾の馬車にグールが侵入し、内側から血がぶちまけられる。そしてグールたちは殺戮を終えた。馬車の上に現れると、次の馬車に飛び乗った。
「クソッ!」
「アインドルフ!?」
「アインドルフ様!? 危険です!」
同乗者のローゼンヴェルフとメイドの静止を聞かずに彼は馬車から身を乗り出す。右手の平をグールの方に向け、詠唱する。
「〈火球〉!」
アインドルフは一瞬だけ倦怠感を覚える。魔力が失われる感覚だ。これに慣れるほど魔法を行使したことがないとはいえ、彼の狙いは精確だ。三体居た内の一体に直撃する軌道を描いていた。が、発射の瞬間を見て、グールは至近距離で避けた。
グールの姿は軍人のような服装に黒のボロボロのローブを羽織ったものだ。グールは本来、知能は並の動物程度で本能に従うだけの低俗な化物。服なんて着ないし、魔法を予測して回避するなんてしない。
「危険。殺さなければ」
何より驚くべきことに、そのグールは喋った。手には短剣を持っている。血と脂が付着していた。その一員に自分も成るのかと思えば頭が真っ白になった。怖い。死にたくない。あの剣で殺されたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。
「アイン!」
グールが馬車に乗り込んできて、アインドルフに斬りかかった。しかし、彼にその刃が届くことはなかった。
「⋯⋯え」
──ローゼンヴェルフの、彼の父親の腹に短剣が突き刺さっていた。
「アイン⋯⋯ドルフ⋯⋯逃げ、ろ」
「御父様っ!」
アインドルフは魔法を使おうとした。今すぐにでもグールを殺せば、父親は助かる。今すぐに、早急に、この思考をしている間にでも助けないと、彼の父親は死んでしまう。
けれど、それはただの思い込みだ。グールはこの一体だけではない。まだ居る。まだまだ敵は存在する。仮にこの憎むべき化物を殺そうとも、残りも殺せるはずがない。
「う、ああああああっ!」
メイドが護衛用に持っていた短剣を持って、ローゼンヴェルフを突き刺したグールの頭を切り裂く。そして、それからアインドルフに叫んだ。
「アインドルフ様! 早く逃げてくださいっ!」
しかしメイドの言葉もあって、アインドルフは正気を取り戻した。逃げなくてはならない。父親と小さい頃から良くしてくれたメイドの犠牲を無駄にしてはならない。逃亡しないといけない。
「────」
馬車を引く馬にアインドルフは跨る。そして轅を魔法で焼き切って外した。後ろを振り返ると、グールを押さえ付けるメイドがいた。彼女はアインドルフに微笑んだ。それ以上のことはしなかった。する必要がなかった。それが最高の送り出しの作法だったのだ。
「⋯⋯ありがとう」
聞こえているかは分からない。でも、聞こえていて欲しい。
アインドルフは馬を走らせ、逃げた。他を犠牲に。全員を犠牲に。自分以外を生贄にし、自分だけ逃げた。しかしそれは奇跡だった。何せ、グールの一人も彼を追いかけなかった、できなかったのだから。いやあるいは、必然だったのかもしれない。
「──僕がこの国を救う。だから、安心して」
少年は決心した、この愛すべき国に悲劇を齎した化物共を蹂躙すると──。
彼女はどんな分野にも高度な技能と知識を有しており、どんなことをやらせてもクラストップは当たり前。世界でも一番なんじゃないかと思うほどだ。特に魔法に関しては、いつもどこか乗り気でないというか、やる気がなさそうな彼女が唯一興味を示し、楽しそうに行う授業であった。アインドルフも魔法の才がないわけではないし、嫌いでもないが、彼女のそれは正に規格外だった。教師の組み上げた独自魔法を「無駄が多い」としてその場で構築し、行使したときは本当にアインドルフは驚いたものだ。強いて欠点を挙げるとすれば、彼女は自分ができるからと言って他人もできると思っているのか、それとも単に興味がないのか、人のことを深く考えない所がある。しかしそれを補って余りある程の才能と能力があるから、誰もその欠点を指摘できたものではない。そして、彼女の美貌に関しては筆舌に尽くし難い。どれだけ美しいのかは、直接見た方が分かりやすいだろう。敢えて形容するならば神の如き美しさだ。
正に才色兼備という言葉が相応しい少女、エルトア。そんな彼女にアインドルフはある想いを持っていた。
「⋯⋯どうした、アイン?」
休日、屋敷の食卓でアインドルフと父親、ローゼンヴェルフは食事をしていた。どうやらアインドルフは呆けていたようで、食事の手が止まってしまっていた。何か悩みでもあるのかと心配してローゼンヴェルフは息子に話しかけたのだ。
「え? な、何も」
「⋯⋯もしかして、エルトアのことを考えていたか?」
養子として迎えた子供に言うのもどうかと思うが、彼女は大変美しくて可愛い人だった。成長すれば引く手数多なのは分かりきった人物。むしろ今でさえそうだろう。
思春期男子にはさぞ刺激が強いだろう。妻子持ちの男でさえ魅力的に思うのだ。同年代ともなれば自制心が働き者になってしまうことだろう。
「⋯⋯⋯⋯」
「顔に出ているぞ、アイン。まあなんだ⋯⋯実際に血が繋がっているわけじゃないから、法律上結婚はできるぞ」
「それ言います? 父様?」
会話はこれで終わり、食事も終えると各々自室に戻った。ローゼンヴェルフは書斎で読書。アインドルフは自室で勉強する。
貴族は何もせず、その土地を貸すことによる不労所得で生活することが美徳であるのだが、何もしないことは精神衛生上よろしくない。だからアインドルフは勉強をしているし、これには目的があった。
アインドルフの将来の夢は騎士になることだ。前線を引っ張り、国の英雄となる強くて勇敢なる戦士。物語に登場するような勇者。そういうものになりたいと思っている。だがノトーリス家に次男、三男はなかなか生まれなくて、かつ長男である彼がなれるのは名目騎士だ。職業騎士──戦闘集団としての騎士になろうものなら、いつ死ぬかも分からない。よって、当主になるには相応しくないだろう。
「⋯⋯それでも、僕は騎士になりたい」
そのためにはどうすれば良いかをずっと考えてきた。勿論、十三歳の子供に答えは出なかった。しかし、つい最近、その問題の解決策が現れたのだ。それこそ、エルトアの存在だ。彼女が養子であるならば、彼女に家を継がせることができる。いや、最初から当主になってもらうことで、自分は自由になることができる。
「でも、彼女がそれを拒否したなら? いやそもそも、女性の貴族は過去に例が少なすぎる。数少ない例も、長男が居なかったからなっただけ。それに、彼女は当主になるよりもどこかの家に嫁いだ方が良い」
貴族といえば男性だ。そして貴族である以上、外聞を気にして生きなければならない。自分たちの領地、財産を維持し、成長させるには情報が全て。貴族の仕事は土地経営ではなく情報収集と言って過言ではない。
また、貴族間でも政略結婚はよくある話だ。貴族間の結びつきが強くなればなるほど力はつく。絶世の美女にして文武両道、その上大貴族ノトーリス家の令嬢という肩書は、養子というマイナスイメージを塗り潰して有り余る力がある。これほどの逸材を政略結婚に使わないでどうするのか。そして彼女が嫁いだ場合、家督を継ぐのはアインドルフに今度こそ確定する。
感情的な方面からも、己の夢からも、エルトアを嫁がせるわけにはいかない。これが彼に結婚の意識を自覚させ、強める要因となっていた。
「僕が勉強しているのは、将来のため」
国語は言わずもがな。計算力も科学も歴史も魔法学も、学校で習う何もかもは自分の価値を高めるだけのものではなく、自分がやりたいことをやれるようにするためのものだ。作法を学ぶ以外において、最初から不労所得で生活をするならばあんな学校に行く必要はない。
「⋯⋯よし、今夜、皆に打ち明けよう。僕は騎士になるんだ、って。エルトアのことは⋯⋯まだ、いいや」
アインドルフは今日もまた勉強をする。そして剣の稽古も、毎日欠かさずやっていた。
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「どうなさいました、兵士様。こんな時間に?」
「失礼。しかし、緊急の連絡がありまして。執事殿、これを当主様に。要件だけを伝えると、今すぐ国外に避難してください」
「国外に? ⋯⋯何があったかはここに?」
「はい。では」
執事はすぐさまローゼンヴェルフの元へ向かった。そして彼に兵士が持って来た手紙を開封し、渡す。彼がそれを読むにつれて顔が険しくなり、読み終えた頃には絶望か、もしくは困惑、あるいはそれらどちらも含んだような表情をしながら執事に伝えた。
「⋯⋯今すぐにこの家に居る全員に伝えなさい。屋敷を出る準備をすると。日持ちする食料と水を持ち、全員が逃げられるように馬車を出しなさい。私も準備に関わる」
冗談でもローゼンヴェルフはこんなことを言わない。彼自身が避難準備を手伝うと言うほど、事態は深刻であるらしい。
「⋯⋯一体何が?」
「今から一時間前、首都モルディンが何者かに襲撃された。被害は不明。分かっていることは現地の守護兵は全滅。この連絡を最後に一切連絡が不通になったとのことだ」
「なっ⋯⋯承知しました。避難の準備を即刻行います」
「ああ、頼む。アインには私から伝えておく。⋯⋯いいか? 全員だ。この屋敷に居る全員を避難させろ。誰一人として残すな」
「はっ!」
首都モルディン──現在、ノトーリス家が居住している都市ウィンズの北方数十キロメートル先にある近場の都市だ。そこが襲撃されたとなれば、ウィンズは安全だとは言えない。だから避難勧告がされた。そして首都は当然のことだが警備が万全だし、戦力も十二分にある。そこが連絡が機能しなくなるほどの被害を受けたとなれば、敵の戦力は少なくとも首都戦力を超える。それも、一瞬で壊滅させられるほど圧倒的であるということだ。
「アインドルフ!」
ローゼンヴェルフは息子の部屋の扉を開き、名前を叫ぶ。そこには勉強していたのか椅子に座って、突然入ってきた父親に困惑している彼が居た。
「どうしましたか、御父様」
「首都が襲撃された。ここも安全ではない。逃げるぞ」
「!? ⋯⋯御母様とエルトアは!?」
二人は外に遊びに行ってくるとだけ行って外出したはずだ。母親がエルトアを連れ出す形で。どこへ行くかは言っていなかった。
「⋯⋯二人の帰りがやけに遅い。普通ならもうそろそろ帰ってきてもおかしくないはずだ。もう逃げたか、あるいは──」
──とてつもない爆発音と共に、部屋の窓が音を立てて揺らいだ。もう少しで割れるんじゃないかと思うほどの衝撃が走ったのだ。
「っ⋯⋯」
予想していた中で最悪の事態が起こった。──ウィンズにも襲撃された。何が起こっているかを把握する必要はない。ただ死が迫っていることだけを理解すればそれで今は十分だ。
「逃げるぞ!」
二人の心配をするよりも自分たちの心配をすべきだ。アインドルフは置手紙だけを書いてその場を立ち去る。
彼らはこの短期間で用意されていた馬車に乗る。屋敷の全員がここに居るから馬車はいくつもあり、アインドルフたちが乗ったのは中央付近のものだ。
そして一斉に走り出す。加速する最中にアインドルフは後方に目を向けた。
──炎が立ち昇っている。不自然なまでに整った炎だった。数秒経てば炎の柱は消えるが、一本が消える前に二本、三本、四本と立っていく。正しく地獄絵図。少なくとも襲撃者はどこかの国の軍隊では無さそうだ。この惨劇の主犯はきっと⋯⋯化物だ。
「⋯⋯何だ、あれ。何なんだよ、あれ!」
そこに眠っていたのか。まるで起き上がるように巨人が現れる。夜だからか、炎があるとはいえその全容を映すにはあまりにも火が足りなかったようだ。全長にして目算三十五メートルの巨人。色は僅かに分かっている範囲では血がない死人のようである。
「どうして⋯⋯こんなことに」
巨人は町を荒らす。腕を一振りするだけで家など簡単にごみ屑になってしまう。何より恐ろしいのは、巨体にあるまじきスピードだ。自分たちが小人になったように感じる。
炎の柱は幾本も立ち、巨人は町を荒らし回す。しかしそれだけでは終わらない。これではまだ、始まりでしかなかった。更なる脅威がアインドルフの目に映る。
「⋯⋯っ!?」
こちらに走ってくる人影があった。逃げてきた人間ではない。人が出して良い速さじゃない。近づくにつれて、その正体が分かった。化物だ。暗闇で薄黒くて赤い双眸を輝かせ、馬車に追いつく速度で迫ってくる怪物。その外見的特徴から判断するに、正体は死体喰いだ。
「な⋯⋯」
最後尾の馬車にグールが侵入し、内側から血がぶちまけられる。そしてグールたちは殺戮を終えた。馬車の上に現れると、次の馬車に飛び乗った。
「クソッ!」
「アインドルフ!?」
「アインドルフ様!? 危険です!」
同乗者のローゼンヴェルフとメイドの静止を聞かずに彼は馬車から身を乗り出す。右手の平をグールの方に向け、詠唱する。
「〈火球〉!」
アインドルフは一瞬だけ倦怠感を覚える。魔力が失われる感覚だ。これに慣れるほど魔法を行使したことがないとはいえ、彼の狙いは精確だ。三体居た内の一体に直撃する軌道を描いていた。が、発射の瞬間を見て、グールは至近距離で避けた。
グールの姿は軍人のような服装に黒のボロボロのローブを羽織ったものだ。グールは本来、知能は並の動物程度で本能に従うだけの低俗な化物。服なんて着ないし、魔法を予測して回避するなんてしない。
「危険。殺さなければ」
何より驚くべきことに、そのグールは喋った。手には短剣を持っている。血と脂が付着していた。その一員に自分も成るのかと思えば頭が真っ白になった。怖い。死にたくない。あの剣で殺されたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。
「アイン!」
グールが馬車に乗り込んできて、アインドルフに斬りかかった。しかし、彼にその刃が届くことはなかった。
「⋯⋯え」
──ローゼンヴェルフの、彼の父親の腹に短剣が突き刺さっていた。
「アイン⋯⋯ドルフ⋯⋯逃げ、ろ」
「御父様っ!」
アインドルフは魔法を使おうとした。今すぐにでもグールを殺せば、父親は助かる。今すぐに、早急に、この思考をしている間にでも助けないと、彼の父親は死んでしまう。
けれど、それはただの思い込みだ。グールはこの一体だけではない。まだ居る。まだまだ敵は存在する。仮にこの憎むべき化物を殺そうとも、残りも殺せるはずがない。
「う、ああああああっ!」
メイドが護衛用に持っていた短剣を持って、ローゼンヴェルフを突き刺したグールの頭を切り裂く。そして、それからアインドルフに叫んだ。
「アインドルフ様! 早く逃げてくださいっ!」
しかしメイドの言葉もあって、アインドルフは正気を取り戻した。逃げなくてはならない。父親と小さい頃から良くしてくれたメイドの犠牲を無駄にしてはならない。逃亡しないといけない。
「────」
馬車を引く馬にアインドルフは跨る。そして轅を魔法で焼き切って外した。後ろを振り返ると、グールを押さえ付けるメイドがいた。彼女はアインドルフに微笑んだ。それ以上のことはしなかった。する必要がなかった。それが最高の送り出しの作法だったのだ。
「⋯⋯ありがとう」
聞こえているかは分からない。でも、聞こえていて欲しい。
アインドルフは馬を走らせ、逃げた。他を犠牲に。全員を犠牲に。自分以外を生贄にし、自分だけ逃げた。しかしそれは奇跡だった。何せ、グールの一人も彼を追いかけなかった、できなかったのだから。いやあるいは、必然だったのかもしれない。
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少年は決心した、この愛すべき国に悲劇を齎した化物共を蹂躙すると──。
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