白の魔女の世界救済譚

月乃彰

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第五章「魔を統べる王」

第百二十三話 演説

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「レイチェル、おはよう」

「おはよう、シノ、アル」

 最近、私の親友のシノとアルフォンスはこの国に帰ってきた。大陸を歩き回るなんて、新婚旅行にしてはあまりにも危険すぎるので、当初私は反対したけど、彼らは強引にも行ってしまった。
 だからこうして無事に帰ってきた時は、とても安心した。

「⋯⋯レイチェル、もう、大丈夫なの?」

「ええ。大丈夫よ」

 シノがそうして心配そうに私の顔を伺うのは、私が唯一の家族、お父さんを失ったからだろう。
 まだ悲しさがなくなったわけではない。でも、シノやアルが居てくれるから、もう泣かないで済む。

「それより、料理の件だったね。どう? できた?」

 シノとアルは結婚している。勿論そこでは家事をしなくてはならないのだけれど、驚くべきことに、この二人、家事全般ができなかった。

「うん」

 そう言って出された朝食を見る。
 ──正直、あまり良いできとは言えない。
 肉は少しばかり焦げているし、スープに入っている具材のうち、野菜は所々皮が残っている。パンももう少し焼くべきだ。
 でも、これでも最初よりはマシ。

「⋯⋯まだまだね。でも、食べられるくらいにはなってる」

「そう? ありがとう」

 低い評価にも関わらずシノが喜んでいるのは、本当に最初が絶望的だったから。この食料が貴重な砂漠において、まさかそれを捨てる羽目になるとは思わなかった。
 食事を始めようと私たちが席についたとき──突然、恐怖を感じた。

「──」

 心臓の鼓動が早くなる。冷や汗が滝のように流れている。痛いところなどない。苦しいことなどない。ただ、怖いという感情だけが私の心に顕現している。
 なぜ怖いと思うのか分からない。いやそれこそが恐怖の源ではないのか。未知への恐怖がこれではないのか。だとしたらどうして今突然そんな感情が芽生えたのか。
 分からない。だが怖い。理解できない。しかし怖い。
 怖くて怖くて堪らない。この場から動くことが、指一本動かすことさえままならない。
 抑圧されている。

「──!」

 耳鳴りが酷い。恐怖という感情が精神だけでなく、心だけでなく、肉体にまで影響し始めたのだろう。
 心臓の鼓動は先程よりずっと早くなっていっている。今にも破裂してしまいそうだ。

「──!」

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて──

 ◆◆◆

「──レイチェル!」

 アルフォンスが何度呼びかけても、レイチェルは頭を抱えたままその場から動こうともしない。
 おそらく原因はこの芽生えてくる感情、恐怖だろう。

「アル、レイチェルは大丈夫なの!?」

「大丈夫じゃない。⋯⋯この恐怖が理由だろうが、そこまで怯えるほどじゃないはず。個人差があるのか⋯⋯?」

 この非現実的な現象は、十中八九魔法的なものだろう。違うとしてもそれに類似、あるいは超える力であるはずだ。
 ともかく、この影響には個人差があるらしく、アルフォンスやシノは比較的軽症──それでも、全身の震えが止まらない──であるが、レイチェルは恐怖に心を支配され、動くことさえできなくなってしまっている。

「クソっ⋯⋯何なんだ、何なんだよ、全く⋯⋯!」

 唐突の出来事に、アルフォンスは現状を理解できないでいた。今は恐怖に耐えることができるか、それも時間の問題である気がする。
 何より、これは明らかな第三者からの精神干渉。もしこれが都市全体に渡っての影響であるならば、その力の主はまさに神話級だ。

「シノ、とりあえず外に出よう。レイチェルはオレが担ぐ」

「わかった」

 アルフォンスはレイチェルをおんぶの形で担ぐ。彼女はそれに全く抵抗する素振り、もしくは自ら乗ろうとする意思が感じられなかった。まるで人形だが、人形は顔を青くして小声で「怖い」と連呼しない。
 シノが家の扉を開き、外を確認する。そこには、

「⋯⋯予想はしたくなかったけど⋯⋯」

 道には多くの人々が居た。何人かは地面に蹲り、頭を抱え、何やらブツブツと言っていて、その他は気を乱し、叫び、どこかへ走り去って行った。

「多分、避難所に行ったな。⋯⋯オレたちもそこへ行くべきか」

 アセルムノは『死者の大地』と隣接する都市であるがために、万が一に備えて街のいたる所には避難所がある。アセルムノの住人であれば、いざという時はすぐにそこへ直行できるように訓練されている。
 本来は危険を知らせる鐘がなるのだが、肝心の鐘を鳴らす人が居なければ意味がない。だが人々は避難所へ自己判断──もとい強迫観念──で向かう人々も少なくない。
 やはりレイチェルの症状はアルやシノ、街の住人と比べても重いらしい。しかし例外というわけでもなく、レイチェル並み、あるいはそれ以上の重症者も少なからず居るようだ。

「分かったわ」

 アルフォンスは一先ず、避難所へ向かうことにした。
 その道中、二人は街の状況を確認していた。
 まず、物理的な被害は恐ろしいことに全く無い。建物は一つ足りとも壊れていないし、死体が転がっているわけでもなかった。いや、死体自体はあった。

「っ⋯⋯」

「うっ⋯⋯」

 道に倒れ伏す男は、全く動かない。震えもしていない。つまり、息をしていない。
 見れば頭は比喩でも何でもなく、文字通りかち割れていた。槌で叩き割られた球体の石みたいだ。
 そこから赤とピンク色の肉が垣間見えていて、鮮血が絶え間なく流れている。脳髄がそこにゴミのようにぶちまけられて、鉄臭さが辺りに充満していた。
 きっと何度も頭を叩きつけたのだろう。死体の近くの家屋の壁には夥しい量の血痕が付着しており、そこは凹んで、割れていた。

「酷い⋯⋯こんなの」

 いくつかの残酷な自殺者や、怯え震えてその場から一ミリたりとも動かぬ者を見てきて、二人はようやく避難所に到着していた。
 勿論、避難所の警備体制はかなりのものだ。昔、アンデッドが壁を乗り越えてくる事件があったのだが、その時もこの避難所があったおかげで死傷者数はゼロで済んだ。
 だがしかし、今度はそんな生温いものではない。物理的でなく精神的な攻撃から守ってくる機能は、この避難所にはない。

「助けてくれ!」「怖い怖い怖い怖い」「嫌だ。死にたくない。死にたくないよ」「どうしてだ。なんでだ。なぜ俺がこんな目に」「お母さん、お父さん⋯⋯」

 阿鼻叫喚。避難所は最早避難所として機能していない。
 
「これは⋯⋯恐怖が伝染している?」

 明らかに避難所に居る人々の精神状態は酷い。自殺者や動けぬ者よりかはマシだが、それでも時間が経過する度に人々の恐怖心は増幅しているようだった。
 他人の恐怖心が己の恐怖心をより強くし、他者の存在が仇となっているのであろう。他の人々の恐怖を聞くことで、覚えていなかったまた別の恐怖を覚えてしまうのだろう。これはこの異常事態を助長しているようなものだ。

「シノ、ここに居ちゃオレたちもああなるかもしれない。今は大丈夫かもしれないが⋯⋯いつまでもそうだという確証はない」

 魔法的な現象であるため、自然的な恐怖と違って、いきなり芽生えるかもしれないのだ、自覚症状なく。ならば少しでも可能性の低い方を選ぶことこそ最善だろう。

「そうね。私たちの家に行きましょう。あそこは人通りが少ないから」

 今の避難所より安全だろう、アルフォンスとシノの自宅へと、二人は向かった。

 ◆◆◆

「──」

 風の音が響き、それが体温を奪っていく。だからマサカズは震えている──わけではなく、それは緊張によるものだ。
 何せ、自分の言葉次第では、下手をすればこの国の大虐殺が始まるからである。そしてマサカズは、そのためだけに『死に戻り』ができるほど精神が屈強なわけでも、狂ってるわけでもない。

「⋯⋯頼む」

 勿論、普通に喋ったって、ルルネーツ遺跡の塔の上から住民には声など届くはずがない。ゆえに、マサカズには魔法的な技術が必要だった。
 隣のピンク髪の──カルテナに一言頼むと、カルテナはある魔法を行使した。

「──あー、あー、聞こえているか?」

 〈拡声ラウドスピーク〉という魔法は、一定時間、対象の声を大きくする魔法だ。自分自身はその効果を実感できないが、カルテナの反応──耳を塞ぐ仕草──を見る限り、魔法は効果を発揮しているようだ。

「⋯⋯まず、皆に謝りたい。すまない。この国がこんなことになったのも、仕方のないことだったんだ」

 マサカズは喋る。予め考えていたことを、一言一句違わずに。

「俺の名前はマサカズ・クロイ。この国を秘密裏に支配していた黒の教団幹部、コクマーを倒した男だ。でも、黒の教団の脅威はまだ去っていなかったんだ」

 これは騙すことになるかもしれない。しかし、そうなっても良いから、セレディナたちの罪を、人々の目から逸らさなくてはならない。

「魔王軍が、この国を襲撃した。しかし彼らは好んでやったわけではないんだ」

 ここから話すことが最も重要かつ、難しい内容だ。予め話すことは考えていたが、必要ならその修正もしつつ、それを悟らせないように話す。

「彼らは黒の教団──もっと言えば黒の魔女に脅迫されていた。さもなくばお前たちを殺すと、命を取られていたんだ。でも、俺がその呪いを解いてやった。もう魔王軍は皆に危害を与えない」

 続ける。汗が酷い。緊張で足は震えっぱなしだし、視界がぼやけてどこに焦点を合わせているのか分からない。

「だからと言って何もなしに許してほしいわけではない。彼らが直接手を下し、殺した住民は居ないだろうが、パニックで死亡した者は少なくないだろう⋯⋯その代償として『死者の大地』のアンデッド掃討を約束する」

 魔王軍は黒の魔女に恐喝されていた、ということで溜飲を下げ、更に対価を提示することで反逆意識を刈り取る。要は同情を誘って、感情的にも、利益的にも悪くないと思わせるのだ。

「皆、これで彼らを非難しないでくれ。彼らと敵対しないでくれ。俺からのお願いだ」

 そこで、マサカズは喋るのをやめる。しかし、まだ演説が終わったわけではない。
 後ろに控えていたセレディナが、今度は喋り始めた。

「⋯⋯すまない」

 謝罪から始めろと言ったのはマサカズだ。名乗ることよりも、謝罪からすることは真摯さを醸し出すことができる。

「私は魔王、セレディナ。この度の愚行は、何度詫ても詫きれない。でも、これだけは本心だ──もう、あなた方に危害を加えないと。私の両親の名に誓う」

 セレディナにとって、両親の名に誓うことはこれ以上にない誓いだ。

「私たちはマサカズ・クロイが言ったように、『死者の大地』のアンデッドの掃討を約束する。勿論これであなた方に償えたとは言えない。これでは全然足りないことも分かっている⋯⋯だから、私たちは黒の魔女に立ち向かうことも──いや、討ち滅ぼすことも約束する」

 全てマサカズが言ってしまえば、それはセレディナが自ずとやったこととは思えなくなってしまう。だから、『死者の大地』のアンデッド掃討とは他に、かつそれ以上の償いの約束が必要だった。

「私たちはもう二度と、こんな愚かだったことはしない。もう二度と、人々を無意味に襲撃しない」

 セレディナは力強く、しかし謝罪感を出しつつ──実際そう思って言葉を発する。

「──すまない。この私を、許して欲しい」

 できることはここまでだ。やれることは全てやった。あとはアセルムノの住民たちに判断が任される。
 その判断によって、魔王軍は人々と友好となるか、人々を壊滅させるかが決定する。セレディナからしてみても、後者は避けたい結果だ。元々、彼女はやりたくてやっているわけではないのだから。

「⋯⋯多分、来るとしたら今日の夜くらいだろうな」

 もし人々が魔王と友好になるなら、それについての会議時間も含めて今日の夜くらいにこちらに来ることになるだろう。その時は快く承諾するし、可能なら人々の要求も飲めるだけ飲むつもりだ。

「だな。⋯⋯クロイ、ありがとう」

「⋯⋯ああ。こんなことは初めてじゃないからな」

 マサカズはエストのことを思い出す。

「初めては誰だったんだ?」

「その言い方だと意味深なんだが、もしかしてそれ素か?」

 自分の発言が色々と危ないことにセレディナは気づくと、コホンと咳払いして「誰か似たようなことをやったのか?」質問し直した。

「お前の大嫌いな相手さ。俺も酷い目に遭わされたが⋯⋯一緒に生活してると仲間意識が芽生えてな。だから一回殺されたけど許したことがあるんだ」

 マサカズはエルフの国でのことを思い出す。やけにあれは鮮明に覚えているのだ。
 当然、その時に言ったあのキザな台詞も覚えていて、少し恥ずかしさも戻ってきた。

「殺⋯⋯? まあいいか⋯⋯そんなことがあったんだな。というかそれでよく『エストは煮るなり焼くなり呪うなりすれば良い』とか言えたな」

「ああ、あれは殺さない程度にボコボコにするなら良いぜって意味だ。殺されるようなら俺もお前たちを本気で殺す手筈を整えなければならなくなるからな」

 それでも仲間の扱いとしては最悪だが、殺されることは流石に嫌とのこと。当たり前といえば当たり前である。

「分かってる。私も協力者の仲間を殺すほど冷酷じゃないからな」

 そこで会話は終了し、マサカズたちは防衛要塞へ戻ることにした。

「そういえば、ガイアはエストが俺を救う的なことを言っていたな。⋯⋯でも、このループは俺だけで脱出できた」

 まさか、神が間違ったわけではないだろう。もしくはエストの身を犠牲にする約束をしたから、という意味での救いなのだろうか。

「⋯⋯はは。終わっていない、のか? ⋯⋯警戒はしておくべきか」
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