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ラングリンド
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二人はそれぞれにさまざまな思いで胸をいっぱいにしながら、光に満ちたラングリンドの森を女王の待つ光の城を目指して歩いた。アデライデの目にはすべてが切ないほどに懐かしく、そしてフロイントの目にはすべてが新鮮に輝いて映った。
森を進んでいくうちにアデライデの胸は次第に強くかき乱されていき、その一足一足からは落ち着きが失われていった。心臓は早鐘のように打っていたが、アデライデは今にも大声を上げて駆けだしたい気持ちをぐっとこらえ、フロイントの手をしっかりと握りしめながら歩いていた。
普段ならばこうしたアデライデの様子の変化にすぐに気がついたはずだったが、このときフロイントはいつにない高揚感にとらわれ、ただひたすら美しく驚嘆すべき自然の営みにあふれた森のあちこちに、尽きることのない関心と喜びのまま視線をめぐらせていた。やがて、かすかだが見覚えのある場所に来たフロイントは、そこがアデライデを初めて見つけた場所だということに思い至って感慨深いため息を吐き、傍らを歩くアデライデを見た。そこでようやくアデライデの顔に浮かぶ痛々しいほど苦しげな表情に気がついた。青ざめながらも熱を帯びた瞳で唇を噛み、一心に木立の向こうに目を凝らしているアデライデに驚き、フロイントは歩調を落として気遣わしく声を掛けた。
「アデライデ、どうしたのだ?」
アデライデは俄かに我に返ったようにフロイントを見上げたが、その瞳には涙が溜まって揺らめいていた。思わず足を止めたフロイントに、アデライデは素早く一瞬瞳を伏せたあと、すぐに微笑を作ってフロイントを見た。だがその微笑みはどこか寂しげで、無理をしているように見えた。フロイントの瞳に心配の色が浮き上がったのを見て、アデライデは口を開いた。
「……ごめんなさい。またここに帰って来られるなんて思ってもいなかったから、少し気持ちが高ぶりすぎてしまったようです……。あなたのそばにいられさえすればいいと思っていたけれど、こうしていざ帰って来てみると、なんだか心が落ち着かなくて……。でももう大丈夫です。さぁ、女王様のお城に行きましょう」
「いや、アデライデ、おまえの様子はあまりに切なそうだ。いったい何がおまえの胸をそんなにも締め付けているのだ?」
アデライデは作り浮かべた微笑を静かに顔から引かせると、秋の色に変わりつつある木々の向こうに視線を向けた。
「……この小径の向こう──そこに小さな家があるのです。その小屋は、あなたと出逢うまでのわたしが暮らした家です……。──今もそこにはわたしの父が……」
アデライデは込み上げる涙をのみ込むために、そこで言葉を切って唇を噛みしめた。
フロイトははっと目を見開いた。迂闊にもつい自分の喜びと興奮だけにかまけていたが、ここはアデライデの故郷の森なのだ。この森には光の精霊たちや動物たちや美しい草花だけでなく、アデライデの父が──娘であるアデライデの記憶を魔物であった自分によって奪われた一人の父親がいるのだ。
「……すまない……」
目を伏せたフロイントに、アデライデは急いで視線を戻した。もしも父の話を口にすれば、今のようにフロイントが気に病むだろうことがわかっていたために、アデライデはほんとうならば一番に父の様子を見に行きたいという思いを心の底にしまい込んで堪えてきたのだ。フロイントの晴れやかな新しい人生の一日目に黒い染みを作るようなことはしたくないと、アデライデは明るい声を作って言った。
「謝らないで、フロイント。すべてはわたしが自分で決めたことです。わたしは何も後悔なんてしていません。わたしは今、ほんとうに幸福の只中にいるのですから……」
俄かに血の気の失せたフロイントの顔を下から見上げ、その罪悪感をなんとか取り除こうとにっこりと微笑みかけた。だがアデライデの意に反し、笑った拍子に思わず涙が一粒こぼれてしまった。
アデライデは慌てて目元を拭うと、今度こそにっこりと、小首を傾げて微笑んだ。
「先を進みましょう、フロイント。女王様がお待ちのはずですから──」
アデライデはそっとフロイントの手を引いたが、うつむき加減に顎を引いて目を伏せたフロイントは、美しい顔に影を落としたまま歩き出そうとはしなかった。フロイントは低い声で言った。
「……俺は人間の親子の絆やそこに通う情愛というものは知らない。しかし誰かを愛しく思う気持ちと言う意味では、俺がおまえを想うことと親と子の愛情との間にそれほどの差異はないのかもしれない。そう考えれば、俺はほんとうに残酷な決断をおまえにさせた……」
「フロイント、あのときあなたがおっしゃった通り、わたしが父から自分の記憶をなくしてほしいと願ったのは、けっして自己犠牲などではなく、父を心から想う愛の気持ちゆえだったのです。そんなわたしの気持ちがわかると、あなたもおっしゃってくれたではありませんか。だからどうかもう自分を責めないでください。わたしはほんとうに何も後悔していません。あなたとこうしていられるだけで、わたしには充分すぎる幸せなのです」
フロイントは自分の手を、両手で抱きかかえるようにして握るアデライデを見た。アデライデの美しく澄んだ青い瞳に、自分の姿が映っていた。人間の姿の自分を見つめるうちに、フロイントの口からはぽつりと言葉が漏れていた。
「……行ってみなければ」
「え?」
「おまえの家に……おまえの父がいる家に……」
アデライデは思わず息を呑んで目を見張った。
森を進んでいくうちにアデライデの胸は次第に強くかき乱されていき、その一足一足からは落ち着きが失われていった。心臓は早鐘のように打っていたが、アデライデは今にも大声を上げて駆けだしたい気持ちをぐっとこらえ、フロイントの手をしっかりと握りしめながら歩いていた。
普段ならばこうしたアデライデの様子の変化にすぐに気がついたはずだったが、このときフロイントはいつにない高揚感にとらわれ、ただひたすら美しく驚嘆すべき自然の営みにあふれた森のあちこちに、尽きることのない関心と喜びのまま視線をめぐらせていた。やがて、かすかだが見覚えのある場所に来たフロイントは、そこがアデライデを初めて見つけた場所だということに思い至って感慨深いため息を吐き、傍らを歩くアデライデを見た。そこでようやくアデライデの顔に浮かぶ痛々しいほど苦しげな表情に気がついた。青ざめながらも熱を帯びた瞳で唇を噛み、一心に木立の向こうに目を凝らしているアデライデに驚き、フロイントは歩調を落として気遣わしく声を掛けた。
「アデライデ、どうしたのだ?」
アデライデは俄かに我に返ったようにフロイントを見上げたが、その瞳には涙が溜まって揺らめいていた。思わず足を止めたフロイントに、アデライデは素早く一瞬瞳を伏せたあと、すぐに微笑を作ってフロイントを見た。だがその微笑みはどこか寂しげで、無理をしているように見えた。フロイントの瞳に心配の色が浮き上がったのを見て、アデライデは口を開いた。
「……ごめんなさい。またここに帰って来られるなんて思ってもいなかったから、少し気持ちが高ぶりすぎてしまったようです……。あなたのそばにいられさえすればいいと思っていたけれど、こうしていざ帰って来てみると、なんだか心が落ち着かなくて……。でももう大丈夫です。さぁ、女王様のお城に行きましょう」
「いや、アデライデ、おまえの様子はあまりに切なそうだ。いったい何がおまえの胸をそんなにも締め付けているのだ?」
アデライデは作り浮かべた微笑を静かに顔から引かせると、秋の色に変わりつつある木々の向こうに視線を向けた。
「……この小径の向こう──そこに小さな家があるのです。その小屋は、あなたと出逢うまでのわたしが暮らした家です……。──今もそこにはわたしの父が……」
アデライデは込み上げる涙をのみ込むために、そこで言葉を切って唇を噛みしめた。
フロイトははっと目を見開いた。迂闊にもつい自分の喜びと興奮だけにかまけていたが、ここはアデライデの故郷の森なのだ。この森には光の精霊たちや動物たちや美しい草花だけでなく、アデライデの父が──娘であるアデライデの記憶を魔物であった自分によって奪われた一人の父親がいるのだ。
「……すまない……」
目を伏せたフロイントに、アデライデは急いで視線を戻した。もしも父の話を口にすれば、今のようにフロイントが気に病むだろうことがわかっていたために、アデライデはほんとうならば一番に父の様子を見に行きたいという思いを心の底にしまい込んで堪えてきたのだ。フロイントの晴れやかな新しい人生の一日目に黒い染みを作るようなことはしたくないと、アデライデは明るい声を作って言った。
「謝らないで、フロイント。すべてはわたしが自分で決めたことです。わたしは何も後悔なんてしていません。わたしは今、ほんとうに幸福の只中にいるのですから……」
俄かに血の気の失せたフロイントの顔を下から見上げ、その罪悪感をなんとか取り除こうとにっこりと微笑みかけた。だがアデライデの意に反し、笑った拍子に思わず涙が一粒こぼれてしまった。
アデライデは慌てて目元を拭うと、今度こそにっこりと、小首を傾げて微笑んだ。
「先を進みましょう、フロイント。女王様がお待ちのはずですから──」
アデライデはそっとフロイントの手を引いたが、うつむき加減に顎を引いて目を伏せたフロイントは、美しい顔に影を落としたまま歩き出そうとはしなかった。フロイントは低い声で言った。
「……俺は人間の親子の絆やそこに通う情愛というものは知らない。しかし誰かを愛しく思う気持ちと言う意味では、俺がおまえを想うことと親と子の愛情との間にそれほどの差異はないのかもしれない。そう考えれば、俺はほんとうに残酷な決断をおまえにさせた……」
「フロイント、あのときあなたがおっしゃった通り、わたしが父から自分の記憶をなくしてほしいと願ったのは、けっして自己犠牲などではなく、父を心から想う愛の気持ちゆえだったのです。そんなわたしの気持ちがわかると、あなたもおっしゃってくれたではありませんか。だからどうかもう自分を責めないでください。わたしはほんとうに何も後悔していません。あなたとこうしていられるだけで、わたしには充分すぎる幸せなのです」
フロイントは自分の手を、両手で抱きかかえるようにして握るアデライデを見た。アデライデの美しく澄んだ青い瞳に、自分の姿が映っていた。人間の姿の自分を見つめるうちに、フロイントの口からはぽつりと言葉が漏れていた。
「……行ってみなければ」
「え?」
「おまえの家に……おまえの父がいる家に……」
アデライデは思わず息を呑んで目を見張った。
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