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フロイント
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アデライデは思わずフロイントの元に駆け寄ろうとした。だが手首をきつく握ったバルトロークの冷たい手がそれを許さなかった。バルトロークは残忍な光の強まった目で嗤い、フロイントを睥睨した。
「──バルトローク、アデライデを放せ」
低い声で言うフロイントに、氷の声が応じる。
「貴様に渡したのは婚礼の宴への招待状ではなく、死出の旅への旅券だったと思ったがな。いったいどのような芸当だ? わたしの攻撃をまともに受けて無傷でいる上、我が精鋭たる守兵を、貴様ごとき劣等の種が破るなどとは──」
俄かに憤懣の妖気を上騰させるバルトロークの足元に、先ほどフロイントによって勢いよく投げ捨てられた家臣が、体をずるずると床に這わせて近づいた。
「バルトローク様……も、申し訳ありません……。どうかお許しを……」
バルトロークは自分の足に縋って許しを請う家臣に視線一つ落とすことなく、フロイントを黒光りのする目でじっと見据え、
「無能に用はない」
冷たく言い放つと巨大な氷柱を出現させ、足元に這いつくばった家臣の体を貫いた。断末魔の悲鳴を上げる魔物から、アデライデは息を呑んで目を背けた。氷柱は既に息絶えた魔物を貫いたまま宙に浮かび上がって勢いよく大広間を飛んでいたが、すぐに刺し貫いた魔物ごと亜空間へと消えた。
この様子を茫然として見ていた宴の列席者たちは俄かに我に返ると、改めてバルトロークに対峙している魔物を見た。それがかつて自分たちが侮蔑をもって扱い、遂にはその存在を忘却した名を持たぬ下級魔であると改めて認識した魔物たちは、卒然と激怒して荒々しい態度と口調でフロイントを責め立て始めた。
「貴様、何と無礼な!」
「下級の使い魔も同然の貴様が、公爵の城に許可なく侵入するとは!」
「これは重大な犯罪であるぞ!」
「断罪だ! 断罪に処すべきだ!」
「魔王様の前に引っ立てろ!」
大広間はいきり立った魔物たちの怒号で割れんばかりに揺れた。バルトロークは悠然と片手をあげ、黒い唇の端を微笑みの形につり上げながら魔物どもを制したが、ちりちりと緑の髪の表面に走る妖気に内心の激憤が表れていた。
「諸君、そう騒ぎ立てることもなかろう。このような下等の使い魔ごときにそう目くじらを立てては我々の品位にかかわるというもの。それに今宵はめでたき我が婚礼の宴。よい余興と思えばよかろう」
バルトロークはフロイントに向き直ると、毒々しい嗤いを見せた。
「貴様に婚礼の宴に参列する栄誉を与えようではないか。どうだ、アデライデ? そなたにとっても僥倖であろう?」
バルトロークはアデライデの手首に指を食い込ませ、無理に振り向かせた。苦痛の色を顔に滲ませたアデライデを見て、フロイントはカッと目を見開いた。
「アデライデを放せと言っている……!」
バルトロークはうすら嗤いの滲む冷たい声で言った。
「この婚礼は正当にして正式なる契約のもとに執り行われるのだ。何人もこの契約を破ることはできぬ。契約が命よりも重いことは貴様のような下等の魔物でも知っているであろう」
「契約だと?」
バルトロークは凄むように言葉を続けた。
「貴様も随分とアデライデに執心していたようだが、契約書を交わさず自由意思による約束でもってアデライデの魂を手に入れようとしていたとは迂闊の極みであったな。もしも正式な契約を交わしていたとあらば、如何に貴様が取るに足らぬ下級の使い魔同然の輩といえど、そう易々とこの魔界の不文律を破ることはかなわなかったであろうからな。貴様の無能ぶりに感謝するぞ」
バルトロークは不気味な怪鳥を思わす声で嗤った。
「潔く諦めるのだな。アデライデは我がものになったのだ。貴様ごとき下等の魔物にアデライデは不釣り合い。その醜い姿形で契約も交わさずアデライデの魂を手に入れられると本気で信じていたのか? それとも貴様、我らに捨て置かれるうちに魔物であることを諦め、魔族の特権たる契約の流儀すら忘れてしまったとでも?」
たっぷりと毒を含んだ物言いに、大広間には侮蔑と嘲りの冷笑がさざ波のように広がった。
残酷で侮辱的な空気にアデライデの胸は痛み、沈黙を貫いたままのフロイントの元に何度も駆け寄ろうとするが、そのたびにバルトロークの鋭い爪が手首に食い込み妨げた。
「フロイント……」
フロイントに向かって伸ばされる細い指は、むなしく空を掻くだけだった。
「アデライデ……!」
思わず一歩を踏み出しかけたフロイントは、バルトロークの残酷に光る目がアデライデに向けられたのを見て踏みとどまった。無理に突き進めば、どんな危険がアデライデを襲うかもしれない。フロイントは赤々と炎の燃え上がる眼でバルトロークを睨みつけた。
バルトロークはアデライデを乱暴に向き直らせると、その手を無理に高く引き上げ、青白く涙の浮かんだ顔を覗き込んだ。
「そうだ、アデライデ。これが生きているとわかった以上は、そなたとの契約を遵守してこれに名を与えてやろうではないか」
「名だと?」
フロイントに初めて動揺が生じた。驚きに瞠目するフロイントを見て、バルトロークは堪えようのない愉快さを味わうように際どい声を上げて嗤った。
「慈悲深きアデライデは貴様を憐れむあまり可笑しな名をつけてやったようだが、そのようなものがこの魔界で罷り通るものか。人間ごときに名を与えられて喜んでいるなど恥を知るがよい、魔族の面汚しめ」
「何を言っている? アデライデといったいどんな契約を交わしたのだ?」
今にも飛び掛からん勢いで詰問するフロイントに嘲笑を向け、バルトロークはアデライデを乱暴に引っ張った。妖しく光る目をいよいよ残忍にぎらつかせるバルトロークに引っ立てられ、アデライデはよろめいて足をもつれさせ、バルトロークの胸にぶつかった。
「アデライデ……!」
フロイントの全身には瞬間にして凄絶な怒気がみなぎった。居合わせた魔物たちはその烈々たる妖気に一瞬怯むと、呆気に取られたように静まり返った。目の前で赤い目を怒りに吊り上げる巨体の魔物が、もはや自分たちの知る下級魔であるとは信じられず、内心著しく動転していた。だがバルトロークは不敵な嗤いを満面に迸らせたまま、
「高貴なる我が契約の条を貴様ごとき使い魔が耳にする明利に感謝せよ。我らの交わしたる契約はこうだ。アデライデは我が物になる、わたしが貴様に名を与える代わりにな」
「なんだと?」
フロイントは叫び、大きく目を見開いてアデライデを見た。
「──バルトローク、アデライデを放せ」
低い声で言うフロイントに、氷の声が応じる。
「貴様に渡したのは婚礼の宴への招待状ではなく、死出の旅への旅券だったと思ったがな。いったいどのような芸当だ? わたしの攻撃をまともに受けて無傷でいる上、我が精鋭たる守兵を、貴様ごとき劣等の種が破るなどとは──」
俄かに憤懣の妖気を上騰させるバルトロークの足元に、先ほどフロイントによって勢いよく投げ捨てられた家臣が、体をずるずると床に這わせて近づいた。
「バルトローク様……も、申し訳ありません……。どうかお許しを……」
バルトロークは自分の足に縋って許しを請う家臣に視線一つ落とすことなく、フロイントを黒光りのする目でじっと見据え、
「無能に用はない」
冷たく言い放つと巨大な氷柱を出現させ、足元に這いつくばった家臣の体を貫いた。断末魔の悲鳴を上げる魔物から、アデライデは息を呑んで目を背けた。氷柱は既に息絶えた魔物を貫いたまま宙に浮かび上がって勢いよく大広間を飛んでいたが、すぐに刺し貫いた魔物ごと亜空間へと消えた。
この様子を茫然として見ていた宴の列席者たちは俄かに我に返ると、改めてバルトロークに対峙している魔物を見た。それがかつて自分たちが侮蔑をもって扱い、遂にはその存在を忘却した名を持たぬ下級魔であると改めて認識した魔物たちは、卒然と激怒して荒々しい態度と口調でフロイントを責め立て始めた。
「貴様、何と無礼な!」
「下級の使い魔も同然の貴様が、公爵の城に許可なく侵入するとは!」
「これは重大な犯罪であるぞ!」
「断罪だ! 断罪に処すべきだ!」
「魔王様の前に引っ立てろ!」
大広間はいきり立った魔物たちの怒号で割れんばかりに揺れた。バルトロークは悠然と片手をあげ、黒い唇の端を微笑みの形につり上げながら魔物どもを制したが、ちりちりと緑の髪の表面に走る妖気に内心の激憤が表れていた。
「諸君、そう騒ぎ立てることもなかろう。このような下等の使い魔ごときにそう目くじらを立てては我々の品位にかかわるというもの。それに今宵はめでたき我が婚礼の宴。よい余興と思えばよかろう」
バルトロークはフロイントに向き直ると、毒々しい嗤いを見せた。
「貴様に婚礼の宴に参列する栄誉を与えようではないか。どうだ、アデライデ? そなたにとっても僥倖であろう?」
バルトロークはアデライデの手首に指を食い込ませ、無理に振り向かせた。苦痛の色を顔に滲ませたアデライデを見て、フロイントはカッと目を見開いた。
「アデライデを放せと言っている……!」
バルトロークはうすら嗤いの滲む冷たい声で言った。
「この婚礼は正当にして正式なる契約のもとに執り行われるのだ。何人もこの契約を破ることはできぬ。契約が命よりも重いことは貴様のような下等の魔物でも知っているであろう」
「契約だと?」
バルトロークは凄むように言葉を続けた。
「貴様も随分とアデライデに執心していたようだが、契約書を交わさず自由意思による約束でもってアデライデの魂を手に入れようとしていたとは迂闊の極みであったな。もしも正式な契約を交わしていたとあらば、如何に貴様が取るに足らぬ下級の使い魔同然の輩といえど、そう易々とこの魔界の不文律を破ることはかなわなかったであろうからな。貴様の無能ぶりに感謝するぞ」
バルトロークは不気味な怪鳥を思わす声で嗤った。
「潔く諦めるのだな。アデライデは我がものになったのだ。貴様ごとき下等の魔物にアデライデは不釣り合い。その醜い姿形で契約も交わさずアデライデの魂を手に入れられると本気で信じていたのか? それとも貴様、我らに捨て置かれるうちに魔物であることを諦め、魔族の特権たる契約の流儀すら忘れてしまったとでも?」
たっぷりと毒を含んだ物言いに、大広間には侮蔑と嘲りの冷笑がさざ波のように広がった。
残酷で侮辱的な空気にアデライデの胸は痛み、沈黙を貫いたままのフロイントの元に何度も駆け寄ろうとするが、そのたびにバルトロークの鋭い爪が手首に食い込み妨げた。
「フロイント……」
フロイントに向かって伸ばされる細い指は、むなしく空を掻くだけだった。
「アデライデ……!」
思わず一歩を踏み出しかけたフロイントは、バルトロークの残酷に光る目がアデライデに向けられたのを見て踏みとどまった。無理に突き進めば、どんな危険がアデライデを襲うかもしれない。フロイントは赤々と炎の燃え上がる眼でバルトロークを睨みつけた。
バルトロークはアデライデを乱暴に向き直らせると、その手を無理に高く引き上げ、青白く涙の浮かんだ顔を覗き込んだ。
「そうだ、アデライデ。これが生きているとわかった以上は、そなたとの契約を遵守してこれに名を与えてやろうではないか」
「名だと?」
フロイントに初めて動揺が生じた。驚きに瞠目するフロイントを見て、バルトロークは堪えようのない愉快さを味わうように際どい声を上げて嗤った。
「慈悲深きアデライデは貴様を憐れむあまり可笑しな名をつけてやったようだが、そのようなものがこの魔界で罷り通るものか。人間ごときに名を与えられて喜んでいるなど恥を知るがよい、魔族の面汚しめ」
「何を言っている? アデライデといったいどんな契約を交わしたのだ?」
今にも飛び掛からん勢いで詰問するフロイントに嘲笑を向け、バルトロークはアデライデを乱暴に引っ張った。妖しく光る目をいよいよ残忍にぎらつかせるバルトロークに引っ立てられ、アデライデはよろめいて足をもつれさせ、バルトロークの胸にぶつかった。
「アデライデ……!」
フロイントの全身には瞬間にして凄絶な怒気がみなぎった。居合わせた魔物たちはその烈々たる妖気に一瞬怯むと、呆気に取られたように静まり返った。目の前で赤い目を怒りに吊り上げる巨体の魔物が、もはや自分たちの知る下級魔であるとは信じられず、内心著しく動転していた。だがバルトロークは不敵な嗤いを満面に迸らせたまま、
「高貴なる我が契約の条を貴様ごとき使い魔が耳にする明利に感謝せよ。我らの交わしたる契約はこうだ。アデライデは我が物になる、わたしが貴様に名を与える代わりにな」
「なんだと?」
フロイントは叫び、大きく目を見開いてアデライデを見た。
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