フロイント

ねこうさぎしゃ

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フロイント

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 フロイントは暗闇の中にいた。全身は鎖でがんじがらめにされ、指の一本を動かす自由もない。物音ひとつしない息苦しいほどの黒い闇が、フロイントに重くのしかかっている。だが体の自由と一緒に思考の働きも押さえつけられているのか、頭にはぼんやりと靄がかかっているようで、心に感じるものも何もなかった。ただ頭の片隅、意識のどこか遠いところで、これが魂なき者の命ついえた後に待つという無の世界なのだろうか……と思うともなしに思った。しかしそれが何かしらの感情を湧かせることはやはりなかった。
 不意に、フロイントの耳が、かすかなすすり泣きを捉えた。その声に、停滞した理性や感情よりも先に、フロイントの体が反応した。声はやがて細い糸ほどではあるが、明確な思考をフロイントの体の奥の方から引き出した。

 ────アデライデが、泣いている……。
 
 永劫に続くかに思われる暗闇の中、フロイントの意識はゆっくりと覚醒への道を辿り始めた。

 ……アデライデが、俺を呼んでいる────……。

 自分の体さえ見えない暗黒の世界に、アデライデの自分を呼ぶ声だけが響いている。

 ────行かなければ────…………。

 そう思った瞬間、フロイントの閉じた瞼が開いた。だがフロイントの赤い目はかすみ、すぐ近くの景色さえよく見ることができず、意識はまだ混濁していた。フロイントのかすんだ視界に、窓の外に浮かぶ満月のぼやけた輪郭が映った。にじむ月の光を見つめるうちに、脳裏にはこの正餐室で起こった惨事がまざまざと甦り、フロイントに苦い息を吐き出させた。

 ……アデライデ……。

 フロイントは既に微弱になった息を更に殺して耳を澄ました。しかし暗黒の世界に沈み込んでいたフロイントの耳に届いたと思ったアデライデの声はおろか、まるで世界から一切の音が消えてしまったかのように、何も聞こえては来なかった。そこにはただ静寂だけがあった。バルトロークの攻撃で耳をやられてしまったのだろうかと考えていると、ばちっと暖炉で薪がはぜる音がした。耳の機能は失われてはいないようだった。
 体を動かそうと試みるが、指の先すら動かせない。しかし激しい火傷を負って黒い皮膚のただれた肉体に、苦痛は感じなかった──と言うよりも、体の感覚は、既に失くなっているようだった。
 フロイントの意識は再び混濁し始めた。まるで水底を揺蕩たゆたうような意識の中、ぼんやりと窓を見つめていたフロイントは、そのときふと静寂の所以ゆえんに気がついた。風が止んでいたのだ。この荒野に居を構えてからの二百年、一度たりとも吹き止むことのなかった風が、今はすっかりなりをひそめているのだった。
 思えば、アデライデと心を通わせるうちに、館の周囲を吹き荒れる風が徐々に凪いでいくような気がしていたが、今となってはそれも己の死の予兆だったのかもしれないという考えが浮かび、フロイントはつくづく自分の愚昧ぐまいさを滑稽に思った。
 目を開けていようと努力はするが、フロイントの瞼は意思に反して閉じていく。だが静寂のうちに死ぬのは悪くない、とフロイントは思った。この二百年という間、常にさざめき通しだった心までが静かに凪いでいるような感覚は、フロイントに不可思議な感慨を与えた。

 ──肉体の苦しみはない……。死がこんなにも静かなものだとは思いもしなかった……。

 そう思う一方で、混濁と覚醒の間を行き来する意識がフロイントを冷酷に罵った。

 ……だが無様な死に様だな──……。

 フロイントの閉じた瞼の裏にアデライデの姿が浮かび上がった。やさしく可憐なアデライデの瞳が、フロイントに向かって微笑みかける。

 ──アデライデ……。

 フロイントは思わずアデライデの幻に手を伸ばそうとしたが、やはり腕はまったく動かなかった。
 今頃アデライデがどんな目に遭っているかと想像しかけ、フロイントは頭に浮かびかけたそのイメージを無理に打ち消した。今まさに命を終えようとしているフロイントには、バルトロークに連れ去られたアデライデの姿を想像する事は死以上の苦しみをもって苛むものに他ならなかった。アデライデを守ることができなかった悔恨と絶望が、朽ち果てようとしているフロイントを冷たい奈落の底に突き落とす。
 フロイントの生涯において、初めてにして唯一の望みだったアデライデ──。残酷にもラングリンドから連れ去り、父親との永劫の別離をさせたフロイントを恨むことも憎むこともせず、いつも寄り添い続けてくれたアデライデ……。名前のなかった自分にフロイントという名まで与えてくれたアデライデ──。何よりも大切に想っていた。それなのに──……。
 自分の無力が情けなかった。愚かさが憎かった。どんなに自分を罵倒しても足りないくらいだった。フロイントは激しい胸の痛みに呻いた。


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