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バルトロークの城
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鋭利なナイフで頬を切り付けられたような感覚に、アデライデはハッと目を開けた。途端に視界に飛び込んで来た暗い氷漬けの大地が、足の遥か下方で月に照らされ広がっていることに気がついて、思わず悲鳴を上げそうになった。しかしそれと同時に自分がバルトロークに抱えられて冷たい夜の空を飛んでいるとわかると、叫び声は容赦なくぶつかってくる冷たい風と共に、アデライデの喉の奥へと引き込まれた。
「気がついたかアデライデ」
バルトロークは目を細め、腕に抱えたアデライデを覗き込んだ。アデライデは思わず顔を背けたが、その唇は恐怖と寒さのために激しく戦慄いていた。バルトロークの体が触れている部分はその冷たさでほとんど感覚を失っていた。尖った切っ先のナイフを思わす冷たい風がアデライデの口を塞ぎ、肺を凍り付かせるようだったが、何より館の床に崩れ落ちたフロイントの姿が目の前の暗い虚空に大きく浮かび上がり、アデライデを絶望と恐怖の谷底に引きずり下ろして身を震わせた。
眼下には次第に切り立った氷山の連なりが姿を現し、満月の光を鈍く反射していた。
「なかなかに美しい眺めだとは思わぬか、アデライデ? そなたを楽しませるため、わざわざこうして飛んでいるのだ。そなたの気に入ればいいのだがな」
バルトロークはアデライデの耳に黒い唇を寄せ、氷のような息を吹きかけ囁いた。アデライデの全身には寒気が走ったが、それはこの生あるものの血を凍らせる冷気のためではなかった。
やがて険しい氷山の一角に、金、銀、白金の冷たい光を放つ豪奢な宮殿が聳立しているのが見えた。バルトロークはその城を目指して一直線に進んでいくと、壮麗な大門の前に降り、アデライデを氷の大地に立たせた。足元から這い上がる冷気に血は凍り、息をすると氷のナイフで肺や喉を突き刺されるようだった。
「我が居城にようこそ、アデライデ」
バルトロークが優雅に腕を広げて城を指すのと同時に城の巨大な門が重々しい音を立てて開き、恐ろしい異形の魔物たちが主人であるバルトロークを出迎えるために隊列を組んで出てきた。召使い達はバルトロークの前に平伏しながらも、ぎらぎらと血走った眼でアデライデに興味深い視線を注いだ。
アデライデは尋常ならざる恐怖と寒さの中、気を失わずにいようと唇を噛みしめて耐えた。その気高い精神が、アデライデの魂から輝きが失われることを防いでいた。しかしかえってそのことが、バルトロークや召使い達の関心と欲望を更に掻き立てるということをアデライデは知らなかった。
バルトロークはアデライデの肩を抱いて促し、居並んだ気味の悪い魔物たちの前を通って城の門をくぐった。城に向かって氷の大地を歩くアデライデの足が震えのためにうまく動かないのを見ると、バルトロークはアデライデの耳に唇を寄せ、
「寒くて歩けぬか、アデライデ? それともその震えは恐ろしさのためか? 案ずるな、わたしに任せていれば悪いようにはせぬ」
アデライデは懸命に涙をこらえたが、最後に目にしたフロイントの痛ましい姿が思い出されるたびに気持ちは狂騒し、平静を保つのもやっとだった。
城の中に入り、金の柱が立ち並ぶ長い驕奢な回廊を半ば強引に歩かされていたアデライデは、クジャクの羽根と妖しくきらめく宝石とで飾られた大広間を通り抜け、いくつもの部屋を過ぎたところに設けられた豪華な一室に連れて来られた。
濃いグリーンのベルベットが壁に貼られた部屋に入ると、バルトロークは隅の暖炉に向かって息を吹いた。ぼっと青い炎が勢いよく燃え上がり、バルトロークは部屋の中央で青ざめ、震えているアデライデを振り向くと、蠱惑的な微笑を浮かべて言った。
「これでその震えも止まるだろう。だが体をあたためるにはこれの方が良い」
バルトロークはそばにあった飾り棚から優美な金のボトルと杯を取り出すと、高く掲げるようにしてボトルの中身を杯に注ぎ入れた。その液体はアデライデの目には滴る血のように映り、いやます恐怖で体は更に震えた。
バルトロークは赤い液体が並々と注がれた杯をアデライデに差し出した。だが当然受け取る気になどなれず、アデライデは部屋の隅まで震える体で後退った。深くドレープの入った濃い緑のタフタのカーテンの前まで来ると、それ以上退がることができなくなったアデライデは、恐ろしさに耐えるように唇を噛みしめ、身を固くして立っていた。
バルトロークはアデライデが動かないのを見ると、
「心配には及ばぬ。ただの葡萄酒だ。わたしがそなたに毒を勧めるとでも?」
しかしアデライデがカーテンの前で身を固くしたまま動こうとしないのを見ると、ふっと黒い唇を吊り上げ、一息に杯の中身を煽った。空になった杯を傍らの卓の上に置き、片手でもう一つの杯を弄びながら、バルトロークは手近の長椅子に横たわると、薄い笑みを浮かべながらしげしげとアデライデを眺めまわした。その射るような目に、アデライデの身は竦んだ。
「気がついたかアデライデ」
バルトロークは目を細め、腕に抱えたアデライデを覗き込んだ。アデライデは思わず顔を背けたが、その唇は恐怖と寒さのために激しく戦慄いていた。バルトロークの体が触れている部分はその冷たさでほとんど感覚を失っていた。尖った切っ先のナイフを思わす冷たい風がアデライデの口を塞ぎ、肺を凍り付かせるようだったが、何より館の床に崩れ落ちたフロイントの姿が目の前の暗い虚空に大きく浮かび上がり、アデライデを絶望と恐怖の谷底に引きずり下ろして身を震わせた。
眼下には次第に切り立った氷山の連なりが姿を現し、満月の光を鈍く反射していた。
「なかなかに美しい眺めだとは思わぬか、アデライデ? そなたを楽しませるため、わざわざこうして飛んでいるのだ。そなたの気に入ればいいのだがな」
バルトロークはアデライデの耳に黒い唇を寄せ、氷のような息を吹きかけ囁いた。アデライデの全身には寒気が走ったが、それはこの生あるものの血を凍らせる冷気のためではなかった。
やがて険しい氷山の一角に、金、銀、白金の冷たい光を放つ豪奢な宮殿が聳立しているのが見えた。バルトロークはその城を目指して一直線に進んでいくと、壮麗な大門の前に降り、アデライデを氷の大地に立たせた。足元から這い上がる冷気に血は凍り、息をすると氷のナイフで肺や喉を突き刺されるようだった。
「我が居城にようこそ、アデライデ」
バルトロークが優雅に腕を広げて城を指すのと同時に城の巨大な門が重々しい音を立てて開き、恐ろしい異形の魔物たちが主人であるバルトロークを出迎えるために隊列を組んで出てきた。召使い達はバルトロークの前に平伏しながらも、ぎらぎらと血走った眼でアデライデに興味深い視線を注いだ。
アデライデは尋常ならざる恐怖と寒さの中、気を失わずにいようと唇を噛みしめて耐えた。その気高い精神が、アデライデの魂から輝きが失われることを防いでいた。しかしかえってそのことが、バルトロークや召使い達の関心と欲望を更に掻き立てるということをアデライデは知らなかった。
バルトロークはアデライデの肩を抱いて促し、居並んだ気味の悪い魔物たちの前を通って城の門をくぐった。城に向かって氷の大地を歩くアデライデの足が震えのためにうまく動かないのを見ると、バルトロークはアデライデの耳に唇を寄せ、
「寒くて歩けぬか、アデライデ? それともその震えは恐ろしさのためか? 案ずるな、わたしに任せていれば悪いようにはせぬ」
アデライデは懸命に涙をこらえたが、最後に目にしたフロイントの痛ましい姿が思い出されるたびに気持ちは狂騒し、平静を保つのもやっとだった。
城の中に入り、金の柱が立ち並ぶ長い驕奢な回廊を半ば強引に歩かされていたアデライデは、クジャクの羽根と妖しくきらめく宝石とで飾られた大広間を通り抜け、いくつもの部屋を過ぎたところに設けられた豪華な一室に連れて来られた。
濃いグリーンのベルベットが壁に貼られた部屋に入ると、バルトロークは隅の暖炉に向かって息を吹いた。ぼっと青い炎が勢いよく燃え上がり、バルトロークは部屋の中央で青ざめ、震えているアデライデを振り向くと、蠱惑的な微笑を浮かべて言った。
「これでその震えも止まるだろう。だが体をあたためるにはこれの方が良い」
バルトロークはそばにあった飾り棚から優美な金のボトルと杯を取り出すと、高く掲げるようにしてボトルの中身を杯に注ぎ入れた。その液体はアデライデの目には滴る血のように映り、いやます恐怖で体は更に震えた。
バルトロークは赤い液体が並々と注がれた杯をアデライデに差し出した。だが当然受け取る気になどなれず、アデライデは部屋の隅まで震える体で後退った。深くドレープの入った濃い緑のタフタのカーテンの前まで来ると、それ以上退がることができなくなったアデライデは、恐ろしさに耐えるように唇を噛みしめ、身を固くして立っていた。
バルトロークはアデライデが動かないのを見ると、
「心配には及ばぬ。ただの葡萄酒だ。わたしがそなたに毒を勧めるとでも?」
しかしアデライデがカーテンの前で身を固くしたまま動こうとしないのを見ると、ふっと黒い唇を吊り上げ、一息に杯の中身を煽った。空になった杯を傍らの卓の上に置き、片手でもう一つの杯を弄びながら、バルトロークは手近の長椅子に横たわると、薄い笑みを浮かべながらしげしげとアデライデを眺めまわした。その射るような目に、アデライデの身は竦んだ。
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