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四つめの願い
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それから次の満月の晩を迎えるまで、フロイントは甘い夢にまどろむような日々を過ごした。アデライデはいつも隣に寄り添うように立っていて、ふとしたときにやわらかな手で腕や背中にそっと触れた。そのたびに、フロイントは自分の魔物の体がアデライデに宿る光によって清められていくように感じた。夜は毎晩踊った。夜ごとダンスを繰り返したおかげで、最初はアデライデに預けていたリードを取れるようにもなった。
フロイントはやさしくあたたかなアデライデの手や瞳の中に、言葉以上の何かを受け取るようになっていた。それが日ごとにフロイントの胸に切ない期待の種を植えつけていく。「友」という名を与えられはしたが、今となっては友として以上の意義をもってアデライデの心に存在しているのではないだろうかという考えが、フロイントに生きる勇気と自信を与えた。
しかし一方で、そう思うのは愚かしいうぬぼれや、とんでもない思い違いであるかもしれないという不安も拭いきれなかった。フロイントは常に期待と不安の間を行ったり来たりして、ともすればアデライデに直接自分をどう思っているのかを尋ねてみたい衝動に駆られた。たが、もしそうすることで今の甘美な切なさに満ちた愉しい日々が崩れ去ってしまうなら、何も聞かずにいる方がよいという思いが、いつもフロイントを引き留めるのだった。
昼となく夜となくフロイントのそばにいることで、アデライデは人生のきらめきや華やぎを感じていた。フロイントの赤い目には、それまであった思いやりややさしさに加え、落ち着きや自信といったものも見え隠れするようになっていた。しかしアデライデはそんなフロイントの瞳に見つめられると、奇妙な胸のざわめきを感じるようにもなっていた。それはときにかすかな痛みを伴うもので、アデライデは戸惑わずにはいられなかった。
ラングリンドにいた頃、アデライデは他の人たちほど踊ることが好きという訳ではなかった。町の人たちの輪に混じって軽快な音楽に合わせて足を動かしていると、背中に羽が生えてどこまでも高く飛んでいけそうな気になることは楽しかったが、同じ年頃の娘たちが貪欲に結婚の相手をさがす様子を見たり、或いはまたあからさまな男性からのアプローチを受けたりすると、途端にそれまでの楽しく愉快な気分は消失してしまうのだった。祝祭の期間中あちこちに設けられた会場でダンスに興じる人々の笑い声が明るい空に響くのを、アデライデ自身は心から楽しんで聞いていたわけではなかった。
それが今はフロイントと踊る夜の時間が来るのをそわそわしながら待っている。荒野の灰色の雲の向こうで薄く照っている太陽が沈み、館の壁に揺れる蝋燭の炎の影がだんだん長く伸びてくるのを見ると、アデライデの鼓動はときめきのために速まった。それなのに、いざフロイントと踊り始めると、アデライデはただ無邪気な喜びだけに浸っていられなくなるのだ。フロイントの目が自分の髪や手や足先に向けられるたびに、喜びであふれていた心にはかすかな不安が忍び寄る。以前は真摯な赤い目でじっと覗き込むように見つめられると、不思議と心が落ち着くのを感じたが、今はまったく正反対の気持ちに揺さぶられるようになっていた。
アデライデはこれまで他人の容姿というものに特別の注意を向けたことがなかった。人の見た目というものは変わるものだ。アデライデはそういう不確かなものに価値を見出だす娘ではなかった。それは自分自身についても同様だった。アデライデは町の娘たちのように、自分の容色を過剰に気にしたり、思い悩んだりするという経験をしたことがなかった。だが今は、フロイントの目に自分がどう映っているのかがひどく気になるのだった。ともすればアデライデは朝の身支度の最中や、夜ベッドに入る前などに、鏡に映る自分をしげしげと眺めてはため息を吐くようになった。
フロイントが自分の見た目を愛でているということはわかっていた。だがもしフロイントが自分の価値をそこだけに見出しているのなら、いずれフロイントの関心を失うかもしれない。そんな考えがふっと浮かぶと、アデライデは冷たい水の中に沈んでいくような気持ちになった。そもそも、フロイントが自分をこの館に連れ去ったのは、ただ自分の外見がフロイントの好みにかなったためだけだったのではという疑問がふつふつと湧き、そういう疑問が無意識のうちに芽生えたことにもショックを受けた。
──いいえ、フロイントはそんな方じゃないわ……と首を振ってすぐに打ち消そうとするが、一度浮かんだ考えはアデライデの頭のどこかにこびりつき、そう簡単には消えなかった。アデライデの中でフロイントの存在がかけがえのないものになっていけばいくほど、純粋だった自分の心が消えていくような気がした。それでもアデライデはフロイントと過ごす今と言う時間を大切に思い、繊細な気遣いを浮かべて自分を見つめる赤い目をただひたすら見つめ返すのだった。
フロイントはやさしくあたたかなアデライデの手や瞳の中に、言葉以上の何かを受け取るようになっていた。それが日ごとにフロイントの胸に切ない期待の種を植えつけていく。「友」という名を与えられはしたが、今となっては友として以上の意義をもってアデライデの心に存在しているのではないだろうかという考えが、フロイントに生きる勇気と自信を与えた。
しかし一方で、そう思うのは愚かしいうぬぼれや、とんでもない思い違いであるかもしれないという不安も拭いきれなかった。フロイントは常に期待と不安の間を行ったり来たりして、ともすればアデライデに直接自分をどう思っているのかを尋ねてみたい衝動に駆られた。たが、もしそうすることで今の甘美な切なさに満ちた愉しい日々が崩れ去ってしまうなら、何も聞かずにいる方がよいという思いが、いつもフロイントを引き留めるのだった。
昼となく夜となくフロイントのそばにいることで、アデライデは人生のきらめきや華やぎを感じていた。フロイントの赤い目には、それまであった思いやりややさしさに加え、落ち着きや自信といったものも見え隠れするようになっていた。しかしアデライデはそんなフロイントの瞳に見つめられると、奇妙な胸のざわめきを感じるようにもなっていた。それはときにかすかな痛みを伴うもので、アデライデは戸惑わずにはいられなかった。
ラングリンドにいた頃、アデライデは他の人たちほど踊ることが好きという訳ではなかった。町の人たちの輪に混じって軽快な音楽に合わせて足を動かしていると、背中に羽が生えてどこまでも高く飛んでいけそうな気になることは楽しかったが、同じ年頃の娘たちが貪欲に結婚の相手をさがす様子を見たり、或いはまたあからさまな男性からのアプローチを受けたりすると、途端にそれまでの楽しく愉快な気分は消失してしまうのだった。祝祭の期間中あちこちに設けられた会場でダンスに興じる人々の笑い声が明るい空に響くのを、アデライデ自身は心から楽しんで聞いていたわけではなかった。
それが今はフロイントと踊る夜の時間が来るのをそわそわしながら待っている。荒野の灰色の雲の向こうで薄く照っている太陽が沈み、館の壁に揺れる蝋燭の炎の影がだんだん長く伸びてくるのを見ると、アデライデの鼓動はときめきのために速まった。それなのに、いざフロイントと踊り始めると、アデライデはただ無邪気な喜びだけに浸っていられなくなるのだ。フロイントの目が自分の髪や手や足先に向けられるたびに、喜びであふれていた心にはかすかな不安が忍び寄る。以前は真摯な赤い目でじっと覗き込むように見つめられると、不思議と心が落ち着くのを感じたが、今はまったく正反対の気持ちに揺さぶられるようになっていた。
アデライデはこれまで他人の容姿というものに特別の注意を向けたことがなかった。人の見た目というものは変わるものだ。アデライデはそういう不確かなものに価値を見出だす娘ではなかった。それは自分自身についても同様だった。アデライデは町の娘たちのように、自分の容色を過剰に気にしたり、思い悩んだりするという経験をしたことがなかった。だが今は、フロイントの目に自分がどう映っているのかがひどく気になるのだった。ともすればアデライデは朝の身支度の最中や、夜ベッドに入る前などに、鏡に映る自分をしげしげと眺めてはため息を吐くようになった。
フロイントが自分の見た目を愛でているということはわかっていた。だがもしフロイントが自分の価値をそこだけに見出しているのなら、いずれフロイントの関心を失うかもしれない。そんな考えがふっと浮かぶと、アデライデは冷たい水の中に沈んでいくような気持ちになった。そもそも、フロイントが自分をこの館に連れ去ったのは、ただ自分の外見がフロイントの好みにかなったためだけだったのではという疑問がふつふつと湧き、そういう疑問が無意識のうちに芽生えたことにもショックを受けた。
──いいえ、フロイントはそんな方じゃないわ……と首を振ってすぐに打ち消そうとするが、一度浮かんだ考えはアデライデの頭のどこかにこびりつき、そう簡単には消えなかった。アデライデの中でフロイントの存在がかけがえのないものになっていけばいくほど、純粋だった自分の心が消えていくような気がした。それでもアデライデはフロイントと過ごす今と言う時間を大切に思い、繊細な気遣いを浮かべて自分を見つめる赤い目をただひたすら見つめ返すのだった。
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