フロイント

ねこうさぎしゃ

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二つめの願い

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 ある日、魔物はまた人間の世界に赴いて、ラベンダーの花を摘んで来た。それは館の中を甘く穏やかな香りで満たし、アデライデの心にもくつろぎをもたらした。アデライデはこの香りで砂糖に風味付けしたものを作ろうと、ラベンダーの花を丁寧に洗った。魔物はアデライデの隣に立って、その様子を物珍しそうに見ていた。アデライデは、今ならば素直に聞くことができそうだと思い、穏やかな声で魔物に話しかけた。
「あなたはまだわたしに名前を教えてくださる気になりませんか?」
 魔物はそれを聞くといきなり冷たい水を浴びせかけられた心持になって、さっと顔色を変えると思わず唸るような声で言った。
「なぜそんなに俺の名を聞きたがる?」
 怒気をにじませた魔物の声に、アデライデははっと身を震わせて、手にした花を落とした。
 魔物は、体を震わせているアデライデの青ざめた顔を見て我に返った。思いがけず自分の弱みを突かれ、つい動揺してしまった。
 アデライデは魔物の怒りに、やはり聞いてはいけないことだったのだと思い、すぐに謝罪の言葉を口にした。
「……ごめんなさい、聞いてはいけないことだったとは知らなかったのです……。ただ、名前を教えてくださらないのは、わたしに何か問題があるせいでは、と思ったのです……」
 魔物は、見開かれた瞳に涙をにじませて必死に言葉を探しながら話すアデライデを見つめ、心はいよいよ罪の意識でいっぱいになった。
「……すまなかった、アデライデ……」
 魔物はうつむき、シンクに散った花の一本に目を落とし、それをゆっくりと拾い上げた。
「……聞いてはいけないということではない。それに、教えたくないという訳でもない。──教えられないのだ」
「……その理由を聞いても……?」
 アデライデはためらいがちに、小さな声で魔物に訊ねた。
 魔物はしばらく黙ったまま、花の房についた水の雫を鋭い爪の先でそっとつついていたが、小さなため息を吐くと、
「……俺には名がないのだ」
「名前がない? ……でも、どういうことなのですか?」
 アデライデは戸惑って魔物に尋ねた。
「……生まれたときに、俺に名を与えてくれようという魔物がいなかったのだ。俺たちの世界では名前を与えたり与えられたりと言うのは重要な意味を持つ。それは俺たちにとっては一種の契約にあたる行為なのだ。その後の長きに亘る生涯において、名の元に集まった魔物は同族として連帯を結ぶ。強い魔物が生まれればみな自分の閥に入れたがり、進んで名を与えるが、弱く価値のない魔物は誰からも相手にされない。俺は……その……見かけほど強くはないのだ。だから誰にも名を与えられなかった……。つまり、おまえに名を教えられないと言ったのは、そういう訳だ……」
 魔物にとって、自分に名がない理由を告白することは勇気のいる行為だった。その弱さゆえに他の魔物の誰からも必要とされず、顧みられることもなく生きてきたという事実を知ったアデライデが、自分をどう思うかも不安だった。


 そんな魔物の不安とは真逆にアデライデは魔物の告白を聞きながら、その胸をひどく痛めていた。初めて魔物の目を見たときに感じた深い孤独と悲しみは、その後も折に触れて影のように魔物の周囲を漂っていたが、今その理由がはっきりとわかり、魔物の苦しみがアデライデの心をも引き裂くようだった。
 名前はこの世に誕生したとき、その誕生を心から喜ぶ人たちによって与えられる、いわば一番初めに贈られる愛の祝福──とアデライデは信じていた。そんな尊い名前という贈り物を得ることなく、たったひとり生きてきた魔物のことを思うと、どんなにか傷つき、どれだけの孤独に耐えてきたのだろうかと、自分のことのように嘆き悲しむ心持ちになった。アデライデの頬はあふれ出る涙で濡れた。
 魔物はアデライデの涙を見ると、驚いて言った。
「どうした、なぜ泣いているのだ、アデライデ?」
 魔物の自分を気遣う声に、アデライデの胸は余計に締め付けられた。
「どこか苦しいのか? ……それとも、俺の話が気に障ったか……?」
「いいえ、いいえ、そうではありません。ただ、あなたのお話を聞いて、寂しくなってしまったのです……。これまで、あなたがどんなにか孤独に苦しんで来られたことだろうと思うと、悲しくて、苦しくて、切なくて……」
 そう言ううちにも、アデライデには心を凍らせるような悲しみがひたひたと広がっていくようで、とうとう顔を覆って泣き出した。
 魔物はアデライデの言葉に、にわかに燃えるような感動が沸き起こるのを感じ、熱い想いが込み上げるままに言った。
「アデライデ……、おまえは名を持たぬ俺のために、涙を流してくれるのだな……。その涙で、俺の孤独はもう癒えた」
 魔物が言ったことはほんとうだった。アデライデが自分を憐れんで泣いてくれたと知った瞬間、この二百年というあいだ、魔物の心に巣食い続けた黒く苦いかたまりは、春の陽ざしにあたためられた根雪のように跡形もなくとけて昇華されたのだった。
「アデライデよ、感謝する……」
 魔物のやさしい静かな声に、アデライデは泣き濡れた顔を上げた。魔物の赤い瞳は、これまでとは違う光をたたえて輝いているように見えた。アデライデはようやく泣き止むと、穏やかな空気をまとった魔物にゆっくりと微笑みかけた。


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