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アデライデ
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そのとき、アデライデは何か、蜘蛛の巣のようなものが絡みついたときのような感覚を覚えて我に返った。だが髪にも指にも足首にも、蜘蛛の巣が絡んだ様子はない。突然、胸のあたりにざわざわと嫌な影が立ち込めて、アデライデは驚いた。今までに味わったことのない奇妙な感覚に、アデライデの白い肌は粟立った。誰かにじっと見られているような気がした。その視線に、アデライデは自分が身を守る術を持たない無防備な小動物になったように感じた。アデライデは我知らず恐れを感じ、思わず数歩下がった。
そのときすぐ近くの木から、何か大きな鳥が羽ばたく音が聞こえ、アデライデはびくりと体を震わせた。急いで周囲を見渡すが、どこにも鳥の姿は見当たらなかった。胸に去来する不安の影が俄かに大きくなり、戦慄がアデライデの体に走った。
と、雨上がりに立ち込める霧のようなものがきらきらと光りながら木々の間から現れて、滑るようにアデライデの元に集まって来た。その光の粒子を思わす靄が、忍び寄る外敵から身を護る盾のようにアデライデのまわりを取り囲むと、アデライデに絡みついていた視線は、未練がましい余韻を残して消失した。
視線の気配が去ると、アデライデの胸には深い安堵が広がった。と同時に、アデライデを取り囲んでいた光の靄も、朝の清々しい森の空気の中に溶け込んで、見えなくなった。何事かはわからないまでも自分が危険から救われた事を覚ったアデライデは、森の妖精たちに感謝した。
「なんだかとても怖かったわ……。今夜の夕食のテーブルに飾る花はもうこれくらいでいいでしょう。早くキイチゴを摘んでしまって、お父さんのところに帰ろう……」
アデライデは呟き、キイチゴを摘みはじめたが、心はやはり今の恐ろしい出来事のために半ば上の空だった。だが森の美しく穏やかな息吹に包まれているうちに、気分はだんだんと良くなって、嫌な記憶は薄れていった。
落ち着きを取り戻すと、今度は父と交わした今朝の会話が思い返された。そして考える。自分でもどうして結婚の話が出るたびに、こんなに暗く沈んだ気持ちになるのかがわからなかった。
町や町の人たちが嫌いというわけではない。幼い頃には女王が設立した町の修養院にも通っていた。そこには身分や貧富や男女の差なしにたくさんの子どもたちが集まっていたため、アデライデも年齢に関係なく多くの子どもたちと一緒に時間を過ごした。やさしく美しく頭の良いアデライデはこどもたちから慕われ、アデライデも彼らを大切にしたが、ほんとうに心を通わせることのできる友人ができたかと言うと、そうでもなかった。アデライデは学ぶことは好きだったが、それよりも森で過ごす方が楽しく、心穏やかでいられた。
結局、母が死んでからは修養院をやめ、父とふたり森の中で暮らし、町には木材などを売りに行く父と共に、ほんの時折出て行く程度になった。アデライデにはそれくらいの距離がちょうどよかった。
町の人たちは皆いい人ばかりだし、若者の中には親切で父の助けになってくれそうな青年もいたが、アデライデはどんなにハンサムな青年と話しても胸をときめかすことはなかったし、お金持ちの紳士にどんなにやさしく扱われても心惹かれることもなかった。たとえどこの誰と、どんなに楽しい会話を交わしたとしても、その相手に特別な何かを感じるということがなかったのだ。アデライデには、愛する父や森での生活以上に大切に想える相手も、暮らしも、なかったのだ。
けれどアデライデだって、結婚自体を嫌っているわけではない。ただ、結婚してもいいと思えるほどの相手に巡り逢っていないだけだと思っていた。しかしそう思う端から、ほんとうにそんな相手がいるのかしら、と不安にも思う。アデライデはそう言う意味では孤独な娘だったのだ。
アデライデはため息を吐くと、気持ちを切り替えるために澄んだ眼差しを辺りに向けた。木々は色濃く清い空気で森を満たし、生き物たちは驚嘆すべき命の営みに没頭し、その美しい姿でアデライデを感動させた。耳をすませば吹き渡る心地良い風に乗って、小鳥たちがアデライデにも歌うように誘いかけている。
そしてこの森に棲む妖精たち──。先ほどアデライデを守ったこの神秘の美しい存在を、アデライデはことのほか愛していた。町の妖精たちに比べると、この森に棲む妖精たちはより原始の姿に近く、敏感で繊細なため、森で暮らしているアデライデであっても、滅多に彼らの姿を見ることはない。けれど、アデライデはいつも妖精たちの存在を間近に感じていたし、さっきのようにアデライデに何か危険が迫ったときには、必ず助けてくれるのだった。
森の妖精たちの方でもアデライデを深く愛し、姿を見せないまでも、この美しい森の娘をいつも見守っていた。アデライデの誕生を光の妖精の女王に知らせたのも、この原始の妖精たちだった。
アデライデはだんだんと快活にはずむようになり、小鳥の声に合わせて歌い始めた。アデライデの高く細い清らかな声は、森の息吹のように辺りに響き渡って行った。
そのときすぐ近くの木から、何か大きな鳥が羽ばたく音が聞こえ、アデライデはびくりと体を震わせた。急いで周囲を見渡すが、どこにも鳥の姿は見当たらなかった。胸に去来する不安の影が俄かに大きくなり、戦慄がアデライデの体に走った。
と、雨上がりに立ち込める霧のようなものがきらきらと光りながら木々の間から現れて、滑るようにアデライデの元に集まって来た。その光の粒子を思わす靄が、忍び寄る外敵から身を護る盾のようにアデライデのまわりを取り囲むと、アデライデに絡みついていた視線は、未練がましい余韻を残して消失した。
視線の気配が去ると、アデライデの胸には深い安堵が広がった。と同時に、アデライデを取り囲んでいた光の靄も、朝の清々しい森の空気の中に溶け込んで、見えなくなった。何事かはわからないまでも自分が危険から救われた事を覚ったアデライデは、森の妖精たちに感謝した。
「なんだかとても怖かったわ……。今夜の夕食のテーブルに飾る花はもうこれくらいでいいでしょう。早くキイチゴを摘んでしまって、お父さんのところに帰ろう……」
アデライデは呟き、キイチゴを摘みはじめたが、心はやはり今の恐ろしい出来事のために半ば上の空だった。だが森の美しく穏やかな息吹に包まれているうちに、気分はだんだんと良くなって、嫌な記憶は薄れていった。
落ち着きを取り戻すと、今度は父と交わした今朝の会話が思い返された。そして考える。自分でもどうして結婚の話が出るたびに、こんなに暗く沈んだ気持ちになるのかがわからなかった。
町や町の人たちが嫌いというわけではない。幼い頃には女王が設立した町の修養院にも通っていた。そこには身分や貧富や男女の差なしにたくさんの子どもたちが集まっていたため、アデライデも年齢に関係なく多くの子どもたちと一緒に時間を過ごした。やさしく美しく頭の良いアデライデはこどもたちから慕われ、アデライデも彼らを大切にしたが、ほんとうに心を通わせることのできる友人ができたかと言うと、そうでもなかった。アデライデは学ぶことは好きだったが、それよりも森で過ごす方が楽しく、心穏やかでいられた。
結局、母が死んでからは修養院をやめ、父とふたり森の中で暮らし、町には木材などを売りに行く父と共に、ほんの時折出て行く程度になった。アデライデにはそれくらいの距離がちょうどよかった。
町の人たちは皆いい人ばかりだし、若者の中には親切で父の助けになってくれそうな青年もいたが、アデライデはどんなにハンサムな青年と話しても胸をときめかすことはなかったし、お金持ちの紳士にどんなにやさしく扱われても心惹かれることもなかった。たとえどこの誰と、どんなに楽しい会話を交わしたとしても、その相手に特別な何かを感じるということがなかったのだ。アデライデには、愛する父や森での生活以上に大切に想える相手も、暮らしも、なかったのだ。
けれどアデライデだって、結婚自体を嫌っているわけではない。ただ、結婚してもいいと思えるほどの相手に巡り逢っていないだけだと思っていた。しかしそう思う端から、ほんとうにそんな相手がいるのかしら、と不安にも思う。アデライデはそう言う意味では孤独な娘だったのだ。
アデライデはため息を吐くと、気持ちを切り替えるために澄んだ眼差しを辺りに向けた。木々は色濃く清い空気で森を満たし、生き物たちは驚嘆すべき命の営みに没頭し、その美しい姿でアデライデを感動させた。耳をすませば吹き渡る心地良い風に乗って、小鳥たちがアデライデにも歌うように誘いかけている。
そしてこの森に棲む妖精たち──。先ほどアデライデを守ったこの神秘の美しい存在を、アデライデはことのほか愛していた。町の妖精たちに比べると、この森に棲む妖精たちはより原始の姿に近く、敏感で繊細なため、森で暮らしているアデライデであっても、滅多に彼らの姿を見ることはない。けれど、アデライデはいつも妖精たちの存在を間近に感じていたし、さっきのようにアデライデに何か危険が迫ったときには、必ず助けてくれるのだった。
森の妖精たちの方でもアデライデを深く愛し、姿を見せないまでも、この美しい森の娘をいつも見守っていた。アデライデの誕生を光の妖精の女王に知らせたのも、この原始の妖精たちだった。
アデライデはだんだんと快活にはずむようになり、小鳥の声に合わせて歌い始めた。アデライデの高く細い清らかな声は、森の息吹のように辺りに響き渡って行った。
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