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ねこうさぎしゃ

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アデライデ

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 そんなアデライデの姿を、遠く離れた木の陰から一心に見つめている者があった。森の生き物からも人間からもほど遠い異形の姿をしたそれは、ラングリンドからはるか北にある荒れ果てた土地に潜む魔物だった。ラングリンドの守護者たる女王の不在に気づき、何かに引き寄せられるようにやって来たその魔物は、この森の中でアデライデを見つけた。見つけた瞬間、魔物はアデライデの虜になった。
 しかしこれは誰にも予測できない出来事だった。アデライデはもちろん、光の妖精の女王にも、そしておそらくはこの魔物自身でさえ、そんなことが起ころうとは夢にも考えていなかっただろう。寂しい荒野で孤独に生きていた魔物が、人間の娘──ましてや光の国であるラングリンドの娘に心惹かれるなど、想像だにできなかったはずだ。
 この魔物というのは、魔物としてはほんとうに弱く、力のない魔物だった。けれど見かけだけはずいぶんと立派なもので、いかにも凶悪で残忍に見えた。隆々と筋肉のついた黒い巨躯には鋼のような固い毛がびっしりと生え、額からは牡牛を思わす二本の角がつきだし、両目は真っ赤に燃える炎のよう。耳近くまで裂けた分厚い唇を開くと、ギザギザした歯が並んでいた。太い指先には黒々とした長くて鋭い鉤爪がついていたし、逞しい背中にはコウモリのそれにそっくりな、大きくて不気味な翼が生えていた。つまり魔物と聞いた人間が、そろって頭の中に思い描くような、典型的な魔物らしい姿をしていたというわけだ。
 だがその醜い姿よりも厄介なのは、この魔物の全身から漂うひどい臭いだった。まるで百個の卵がいっぺんに腐ったみたいな臭いで、この悪臭を嗅ごうものなら目や鼻がチカチカ刺されるみたいになるのだ。百戦錬磨の英雄であっても裸足で逃げ出しかねない激臭なのである。
 しかしそうした外見的な特徴というのは、魔物たちからすれば誇るべきものだった。たとえ生まれつき魔力が弱くても、その姿だけで仲間内から一目置かれ、あとは口八丁手八丁で、出世街道をひた走る使い魔上がりの魔物など、いくらだっている。だがこの魔物は大岩のように聳える肉体を持つ自分を誇るどころか、恥じてさえいた。自分を恥じるのは生まれついての性格のためもあったが、何より名前がないということが、この魔物をひどく卑屈にしていたのだ。
 そう、この魔物には名前がなかったのだ。


 何故名前がないかと言うと、それはこの魔物が生まれたときに、誰も気に掛けるものがいなかったためだ。魔物と言っても、生まれてきたばかりのときには、誰かほかの魔物に世話をしてもらわなければならない。もちろん人間とは違うから、食事をさせてもらったり、あやしてもらったりする必要などはないのだが、魔物としての生き方や流儀、魔術のかけ方なんかを教えてもらい、名前を与えてもらうのだ。すると名前をくれた魔物とは、人間でいうところの家族のような関係になり、その後も何かといえば助けられたり助けたりして暮らしていくことになる。この魔物には、そうやって面倒を見てくれる魔物が出てこなかったのだ。そのためにこの魔物は、自分という存在は誰にも愛されず、気にもかけられないつまらない魔物なのだと思うに至った。
 幼い頃は孤独に耐えかね、仲間に入れてもらうために格上の魔物に心にもないお世辞を言ったり、魔物らしさを見せるために残虐で傍若無人な振舞をしようと努力したこともあったが、すべて空振りに終わり、かえって魔物たちから蔑まれ、疎まれる結果になった。
 魔物の仲間に入ることをあきらめて、人間と近づきになろうと試みた時期もあったが、人間たちはこの魔物を一目見るなり悲鳴を上げて逃げ出すか、失神してしまうのだった。たまにえらく心臓の強い者がいたとしても、魔物の臭いを嗅いだらもうだめだった。
 それでは動植物なら心を慰めてくれるのではないかと思ったが、草花は魔物の臭気にあてられて次々としおれ、動物たちは魔物の気配を察知しただけで姿を隠してしまった。
 深く傷ついた魔物は、結局自ら世界に背を向けるより他なかった。魔物はちょうど人間の世界と魔物の世界の中間にある、いつも冷たい風の吹きすさぶ寂しい荒野にたったひとり、二百年という月日を過ごしていた。魔物にとっての二百年は、人間で言うなら二十年とちょっとと言ったくらいの感覚だったが、それでもそれだけの間、たったひとりで過ごさなければならない孤独は計り知れなかった。孤独と言うものは神経を麻痺させることはあっても、慣れることはないものだ。魔物は自ら建てた館に引きこもり、ひたすら自分の運命を呪った。


 そんな魔物にも気晴らしはあった。荒野の一角にある沼を魔術で鏡にして、世界のあちこちを覗くことだった。この魔術は魔物が行えるいくつかの簡単な魔術の中のひとつであったし、そうしている間は孤独を忘れることができたから、しょっちゅうこの沼鏡で覗き見をして虚しい日々の憂いを慰めていた。
 この日、魔物はいつものように館を出て、疾風逆巻く荒野の外れにある沼鏡の縁に背中を丸めて座り、人間の世界をあちらこちらと覗いていた。すると普段はまぶしい光が乱反射して、絶対に覗くことができないラングリンドが映し出された。魔物は不思議に思うと同時に、強く惹きつけられるようにラングリンドの様子を窺った。
 どうやらラングリンドの守護者にして統治者である光の妖精の女王が留守のようだと知った魔物は、どうにもラングリンドに行ってみたくて仕方がなくなった。いったいどうしてこんなに気持ちが騒ぐのかはわからなかったが、居ても立ってもいられないほどになった。荒野を吹き荒れる冷たい狂風に押されるように、魔物はそろそろと立ち上がった。黒く大きな翼をためらいがちにはためかせると、魔物の足はすぐに浮き上がった。まるで巨大な磁石に引っ張られるように、魔物はラングリンドに向かって飛んだ。飛びながら、魔物は自分の行動が信じられない気持ちでもいた。普段、積極的に行動することのない自分が、人間の世界、それも魔物にとっては天敵ともいえる、対極の存在たる光の妖精の女王の領域に足を踏み入れようとしているのだ。だが一方で、光があふれるラングリンドがどういう国なのかを知りたいという思いが、魔物の中で強く主張しているのも事実だった。


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