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27.甘過ぎる婚約者
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ローゼリアにハロルドが想いを伝えてから、二週間後――――。
マイスハント邸内の自慢の薔薇園にて婚約者となったローゼリアに茶のもてなしを受けていたハロルドが、テーブルの上で組んだ両手の上に額を押し付けながら項垂れていた。
「まさか両親と兄だけでなく、クライツ殿とルシアン殿までも……」
その様子を目にしたローゼリアが、吹き出しそうになりながら苦笑する。
自身の気持ちをローゼリアに伝えたハロルドは、その日の内に父である国王にローゼリアとの婚約を打診し、早々に許可を得た。その後、ローゼリアの父であるマイスハント伯爵に手紙で婚約の申し入れをし、本日は婚約契約書へのサインを求めに邸へ訪れた。
弟のフィオルドの件で、すぐには受け入れては貰えないとある程度覚悟を決めて臨んだハロルドだが……。要らぬ心配だったようで、ローゼリアの父であるマイスハント伯爵にあっさりと受け入れられ、現在に致る。
その際、同席していたローゼリアの兄クライツから事の真相を聞かされ、自分達がかなり周囲の人間をヤキモキさせていた事を知り、その羞恥心と己の情けなさに落胆しているのが、今の現状だ。
そんなハロルドを慰めるようにローゼリアは、自身が淹れたお茶を勧める。
「ハロルド殿下、そのように気に病まれなくても……」
「病みたくもなる……。家族だけでなく、クライツ殿やルシアン殿にもお膳立てに協力頂いていたとは……。特にルシアン殿にはかなり失礼な態度を取っていた自覚があるので、本当に頭が上がらない……」
「ルシアン様に? そのような振る舞いはなさっていなかったかと……」
二人が会話していた時の様子を思い出しながら、ローゼリアがそう告げると、何故かハロルドは静かに首を振った。
「いや。ルシアン殿があなたに積極的に声を掛けていた際、私は無自覚で彼に対して牽制をかけていた……」
「そう、なのですか?」
「非常に情けない事なので、あまり口にしたくはないのだが……。あの時の私は、ルシアン殿が本気であなたを落しに掛かっかていると思い込み、自覚がなかったとはいえ、嫉妬心をかなり剥きだしにしていたように思う」
「そ、それは……」
ハロルドのその告白にローゼリアの頬が薄っすらと色づく。
その微かな変化に気付いたハロルドが、思わず苦笑した。
「私にとっては自身の情けない話の一つなのだが、今の様な表情をあなたにさせられるのであれば、あながち悪くもないな」
「で、殿下!!」
「もう婚約者なのだから『殿下』ではなく、名前で呼んで欲しいと願ってしまう事は欲を出し過ぎだろうか」
「ぜ、善処致します……」
「是非、頼む」
父である国王から婚約の許可を得た直後から、ローゼリアに対するハロルドの口調は、やや砕けたものへと変化している。だがローゼリアの方は、すぐに切り替えが出来ず、どうしても王族に対するかしこまった接し方が抜けきれない。
少しずつ婚約者としての親密な距離感に慣れて欲しいと、ハロルドから要望があれど、長年癖付いた事をすぐに直す事は難しい……。
それでも婚約前に比べたら、お互いに堅苦しさは薄れつつある。
その変化の一つにローゼリアの心音を騒がしくするハロルドの行動があった。
「ローゼ」
ふいに愛称で呼ばれたローゼリアは、頭の芯に甘い痺れのような感覚を覚える。元婚約者でもあるフィオルドからも呼ばれていたこの愛称だが、ハロルドに口にされると、何故か声に濃厚な甘さが入り混じっているようにローゼリアには聞こえるのだ。
少し前にその事でハロルドに故意ではないかと確認してみたが「気のせいだ」と一言で片づけられてしまい、未だにその真相は分からない。
だが、気のせいではない事は明らかだ……。
その証拠に愛称呼びをする時のハロルドは、甘くとろけるような優しい笑みを浮かべいる。
その度にローゼリアの胸はキュッと締め付けられ、耳が幸福で侵されるような感覚に陥ってしまう。しかもその事をハロルドに気付かれているようで、ここ最近は必要以上に何度も甘い声で愛称呼びをされていた。
「ハロルド様……。その、必要以上に甘い声で愛称呼びをされてしまうと、わたくしの心臓が持たないのですが……」
再び抗議も含めて懇願すると、ハロルドが眉を下げながら苦笑する。
「すまない。以前、フィオが何度注意してもあなたの事を当たり前のように愛称で呼んでいた事が羨ましかった為、自身にその権利が与えられた今、悪戯に何度も呼びたくなってしまうようだ」
苦笑しながら謝罪してきたハロルドだが、何かを企む光を宿している瞳からは全く反省の色が見えない。もはや必要以上にローゼリアを愛称呼びをしてその反応を楽しむ事が、ここ最近は癖になっているようだ。
しかし気持ちを確認し合う前のハロルドは、ここまであからさまな甘い接し方をしてくるなど全く予想出来ない程、真面目でお堅い印象だったのだが……現在はそのイメージなど、どこかに置き忘れたかのような状態だ。
その急激なハロルドの変化について、兄クライツに相談してみたのだが……。
翌日たまたま新しい交易品の申請が通ったルシアンが、登城の為にマイスハント家にやって来ていた為、何故か兄だけでなくルシアンにも相談するような状況になってしまったのが、つい三日前の出来事だ。
すると二人は、ハロルドと接する際の注意点を滾々と助言して来た。
「ハロルド殿下は真面目なお方ではあるが、恐らくその反動で本命に対して確実に手が早くなるタイプだ」
「ローゼリア嬢。くれぐれも隙を見せぬよう注意された方がよろしいかと思いますよ。そうでないと婚姻前に早々に食べられてしまう可能性が……」
何故か力強い口調で二人から忠告を受けたローゼリアだが……。
その時は、二人の忠告は要らぬ心配だとしか思えなかった。そもそもあの紳士的なハロルドのどこにそんな懸念をする必要があるのだろうかと。
だが、今目の前のハロルドからは、兄達の助言の的確さを認めざるを得ない。
そんな忠告を兄と一緒になってしてくれたルシアンだが……。
実は彼には、隣国に公けにしていない婚約者がいた。
だが今回ハロルドからローゼリアの婚約者候補の一人として声を掛けられた際、友人でもあるクライツから「妹と第二王子の仲を取り持つ為、一芝居打って欲しい」と頼まれたそうだ。
友人クライツからの頼みに応える為、社交的で女性の扱いにも慣れているルシアンは、敢えてローゼリアに好意を抱いているような振る舞いを過剰に行った。そして全くローゼリアに惹かれている事に気付けないハロルドに対して、敢えて煽る行動を繰り返していたらしい。しかし、その度に無自覚ながらも挑発に乗せられるハロルドは、面白いくらいにルシアンを牽制してくるで、途中からその反応を見る事に楽しみを見出してしまったそうだ。
だがもしこれでローゼリアが、ルシアンに好意を抱いてしまうかもしれないという懸念は考えなかったのだろうか……。
そんな疑問を抱いたローゼリアが二人にその事を問いただすと、何故か二人から同時に吹き出されてしまった。
「お前はあの婚約破棄未遂騒動の際、すでにハロルド殿下に一瞬で心を奪われていただろう。兄の私から見ると一目瞭然だったぞ?」
「クライツから話は聞いていたのですが、まさかここまでお二人が自身のお気持ちを自覚されていなかったとは思わなかったので……。その為、ローゼリア嬢には、敢えて過剰に自己アピールをしてみたのですが、驚くほど反応が薄かったので、その懸念は一切ございませんでした。逆にハロルド殿下は無自覚のまま、嫉妬心を剥き出しにされるので、つい悪戯心が疼き、やり過ぎてしまいました……」
兄達二人の言い分にその時のローゼリアが、赤面した事は言うまでもない。
その話をつい先程ハロルドにもしたところ、羞恥心を抱きながら項垂れていたはずなのだが……。今はローゼリアの反応を楽しむ事に気持ちを切り替えたようで、何故か甘い触れ合いを過度に求めてくる。
父親から婚約の許可を貰った後のハロルドは、まるで人が変わったように溺愛行動をしてくるようになったのだが、その部分は何となく弟フィオルドと通ずるものがある……。
同時に生真面目過ぎるハロルドの性格が、更に溺愛行動を助長させているようにも思えた。恐らく婚約者に誠実に接しようとすればする程、ハロルドの溺愛行為は加速していくのだろう。
実際に今のハロルドは、何かにつけてすぐローゼリアの顔周辺に触れたがる。特にローゼリアの青銀色の絹糸のようなサラサラな髪は、頻繁にその標的となっており、ここ最近のハロルドは隙あらばローゼリアの髪を優しく指で絡め取り、愛おしげに手の中で弄ぶ事を楽しんでいる。
「あなたの髪は、本当に見事な美しさの青銀髪だな」
「お褒め頂き、ありがとうございます。この髪は兄共々、母より譲り受けたものになりますね」
「黒髪の私からすると羨ましい限りだな……」
「殿……ハロルド様の艶やかでサラリとした漆黒の御髪もわたくしにとっては、とても魅力的な髪色と感じますが」
「だが、触り心地はあなたの美しい青銀髪の方が素晴らしい。どうしたらもっと堪能出来るか、最近よく考えてしまう……」
囁くようにそう零したハロルドは、少しだけ腰を浮かしてテーブルに手を尽き、やや前のめりになる。そして指に絡め取っていたローゼリアの髪を捻じり上げながら指を伝わせ、頬に向って指を滑らせた。すると、いつの間にかローゼリアの頬にハロルドの指先が到達する。
その瞬間、甘い危機感を抱いたローゼリアが慌てて身を引こうとしたが、ハロルドの深い青の瞳に囚われてしまい、動けなくなる。
すると、確信犯のハロルドがふわりと微笑んだ。
「ローゼ……」
瞳だけでローゼリアの動きを封じたハロルドは、その頬に手を添えたまま今日一番の甘い声でローゼリアの愛称を囁く。
その瞬間、ローゼリアの思考と時間が完全に停止した。
それを合図にハロルドがローゼリアを覗き込む様に顔を近づけてくる。
逃れたいのに逃れたくない……。。
一瞬、葛藤したローゼリアが、すぐにを受け入れようと決意した瞬間―――。
絶妙のタイミングで掛けられた空気を読まない一声で、その甘い時間は見事にぶち壊された。
「兄上? 何故、マイスハント家に?」
その声の主にハロルドが、呆れながらも鋭い視線をぶつける。
同時にローゼリアも我に返り、勢いよくハロルドから視線を逸らした。
二人の甘い時間をぶち壊した犯人は、第三王子のフィオルドだった。
「フィオ……。お前の空気の読めなさは、最早天賦の才だな……」
「どういう意味でしょうか? 私は、ただシャーリーの事でローゼに相談したい事があり、こちらを案内されただけなのですが……」
「ローゼ?」
「お待ちください、兄上!」
おもむろにフィオルドの顔面目掛けて片手を広げてきた兄ハロルドに対し、それを遮るようにフィオルドの方もピシっと片手を上げて兄の動きを制した。
「兄上がローゼの婚約者候補である今、ローゼは将来的に私の義姉になる女性です! 義弟となる可能性が高い私が彼女を愛称呼びする事は、ごく普通の事かと思います!」
「元婚約者を早々に姉扱い出来るお前は、ごく普通とはほど遠いと思うのだが? そもそも私は彼女の婚約者候補ではなく、本日付けで正式に婚約者となった」
ハロルドのその宣言にフィオルドが驚く様に目を大きく見開く。
「まさか……早々にマイスハント伯より婚約誓約書にサインを頂けたのですか!? 流石、兄上!」
「お前はどの口で、そのような言葉を吐けるのだ……。大体、私と彼女の婚約が危ぶまれる事態を招いた張本人はお前だろ!! 何故、頻繁に私の婚約者の邸に足を運んでいる!!」
「ですから、シャーリーの事でローゼに相談を……」
「三か月前、公の場で婚約破棄を言い渡そうして彼女の名誉を傷付けかけたお前が、何故平然と自身の恋愛相談をしようとしているのだ?」
そう言って完全に目を据わらせたハロルドがゆっくりと腰を上げ、弟の顔面に狙いを定めながら右手を大きく広げた。その兄の行動から逃げるようにフィオルドは、座っているローゼリアの後ろに身を隠す。
「女性を盾にするとは……お前は恥ずかしくないのか!?」
「女性である前にローゼは私の義姉です! 私は義弟として彼女に守られる恩恵があるかと!」
「彼女は、まだお前の義姉ではない!!」
どうやら毎回ハロルドは、フィオルドの顔面を鷲掴みにして制裁を加える際、容赦ない力加減で行っていたらしい……。その痛みの恐怖から、フィオルドは早々に兄が婚約者に弱い事を察し、ローゼリアを盾にする。
フィオルドにとって婚約者だった頃のローゼリアは、その優秀さ故に常に劣等感を与えてくる存在だったのだろう。だが近い将来、義理の姉弟という関係なる状況はフィオルドにとって、非常にしっくりくるものらしい。
末っ子気質の所為か、早くも姉に甘える弟という立場に無自覚で甘んじようとしている。その図太い神経の愚弟に再びハロルドの怒りが爆発する。
「お前はローゼをどこまで愚弄する気だ!! 公の場で彼女の名誉に傷を付けようとした立場でありながら、比べられる関係でなくなった途端、婚約者時代の惰性で彼女に縋ろうとするとは……。自身が色々な意味で最低で男としては情けない振る舞いをしている事に自覚がないのか!?」
「ですが、ローゼからは特に不満や苦情を言われておりません!」
「長年、手の掛かかる弟のようなお前の面倒を押し付けられ過ぎた所為で、その感覚が鈍ってしまっただけだ!! お前はもう少し自身が人を頼り過ぎてしまう欠点を自覚しろ!!」
「ですが……そんな私に対してローゼだけでなく、兄上も最終的には手を差し伸べて助けてくださるではありませんか……」
「お前……。自覚があっての振る舞いだったのかっ!?」
弟の無自覚に近いあざとさを再認識したハロルドは、眩暈を訴えるかのように片手で両目を覆いながら、盛大に項垂れた。
幼少期から周りに甘やかされる環境が当たり前だったフィオルドは、周囲の人間を呆れさせながらも思わず手助けしたくなるように仕向ける天才だ。
それは長年末っ子だったという環境だけでなく、留学前のハロルドがあまりにも手助けし過ぎた事も原因である……。
弟の性格だけでなく自分の甘やかしも原因だと認識しているハロルドは、思わず己を責めるように唸り始めた。その状況に苦笑しながら、ローゼリアが話題を変えて、その場を取りなそうとする。
「ところでフィオルド殿下は、わたくしにどのようなご相談を?」
するとフィオルドがパッと顔を輝やかせる。
「実は三日程前、久しぶりにシャーリーに手紙を出した際、返事があって! 内容的にはまだ少し警戒されている感があったが……。それでも私との友人関係を維持する事に関しては、前向きに検討してくれるとの返答が……」
「それを世間では社交辞令と言うのだが、お前は分かっているのか?」
「兄上、今私はローゼに相談しております! そもそも以前三日おきに出していた手紙には、一度も返信がなかったのに今回やっと返事を貰えたのですよ!? これは改善対策の効果が表れたという事になりませんか!?」
興奮気味に語るフィオルドの言い分にハロルドが白い目を向け、ボソリと呟く。
「エマルジョン男爵令嬢が手紙の返信をしなかったのは、母上が止めていたからだ」
「は……い?」
「お前のしつこいアプローチで彼女が疲弊しないように母上が、彼女にそう助言していた。現状お前が彼女との交流を図ろうとする度に陰でその調整をなさっていたのは母上だ!」
「なっ……!!」
「さて、フィオ。この状況であれば、お前が縋るべき相手は誰だか、もう分かるな? ローゼを頼っても意味はない。さっさと母上の元に行け!」
今までシャーリーとの関係醸成の相談役に王妃である母親が濃厚に関与している事をフィオルドには隠していたのだが……。
このままではローゼリアと自分の時間を邪魔される可能性が高いと判断したハロルドは、早々に母親に愚弟を押し付ける事を決断したらしい。
対して兄から発せられた衝撃の事実に一瞬唖然としたフィオルドだが、すぐに口元を引き締めた。
「ローゼ。急用を思い出した為、相談はまた別の機会にお願いしたい。そして兄上……素晴らしい情報を頂き、ありがとうございます!」
声高らかに兄に礼を述べたフィオルドは、勢いよく踵を返し足早にその場を去ってく。そんなフィオルドの後ろ姿をローゼリアが茫然とした様子で眺めていた。その為、ハロルドが座っていた椅子をローゼリアの隣にピタリと移動させてきた事に気付けなかった。
「これで邪魔者は消えたな……」
急に耳元近くで囁かれた低くよく通る声にローゼリアが驚き、その方向へと視線を向ける。するとハロルドがテーブルに頬杖を付きながらローゼリアの顔を覗き込んで来る。目を細め、甘やかな笑みを浮かべているハロルドだが、その瞳の奥には何故か獲物に狙いを定めた狩人のような光を宿している。
「ハロルド……様?」
「これでしばらくの間、フィオの対応は母上がしてくださるはずだ。さて、その間、我々はこの三カ月近く無駄な気遣いで遠回りをしてしまった時間を早急に取り戻すべきだと、私は感じているのだが……」
そう言って、またしてもハロルドがローゼリアの青銀髪を一房手に取り、そのまま髪を伝いながらローゼリアの頬に到達すると、優しく顎を持ち上げる。
「あなたはどう思う?」
質問をしておきながら、その答えをローゼリアから貰う気はないらしいハロルドは、ローゼリアの顎を軽く持ち上げ、自身の顔を近づけてくる。
その間、ローゼリアはまたしてもハロルドの深い青の瞳に囚われ、されるがままの状態になってしまった。その好機をハロルドは、けして逃さない。
「ローゼ……」
甘く愛称を囁かれたローゼリアは、まるで操られるかのようにゆっくりと瞳を閉じる。同時にハロルドの気配が近づく事に期待が膨らんだ。
だが次の瞬間、その甘やかな空気はある人物の一言で、またしても壊される。
「殿下、失礼致します。先程ルシアン様がお見えになり、是非今後の東国への果実酒販売に関して深いお話をされたいそうです」
涼しげな声で二人の甘い雰囲気を壊した人物は、ハロルドの側近であるイースだった。その瞬間、ローゼリアはハロルドの手から逃れるように身体を椅子の背もたれの方へ引き、ハロルドの方は獲物を逃がす原因となった側近を鋭く睨みつけた。
「イース……。お前、敢えてこのタイミングで声を掛けてきたな?」
「このタイミングとは、どのタイミングでしょうか? ただ私は将来的に交易関係でお付き合いが必須となるルシアン様をお待たせしまう事はよろしくないと思い、早々に殿下にお知らせしただけですが?」
どう考えても先程の甘い雰囲気に水を差す事を目的とした側近の言い分にハロルドが、ピクリと片眉を不快そうに上げた。だが、すぐに諦めた様に深く息を吐く。
「分かった。ローゼとの関係を深める事は、もう少しゆっくりと進める」
ハロルドのその言葉にローゼリアが、ビクリと肩を震わせる。
だがイースの方は、意地の悪い笑みをハロルドに向けた。
「それが賢明なご判断かと思います」
側近に釘を刺されたハロルドは、苦笑しながら名残惜しそうにローゼリアに別れを告げ、ルシアンが待つマイスハント邸の客間に向かう。
しかしその後のハロルドは、ゆっくりどころか早急にローゼリアとの挙式を早めるような動きをし始める。その手始めに臣籍降下したハロルドは、半年足らずでマイスハント家が考えていた果実酒貿易の態勢を整えてしまう。
そして僅か一年未満の婚約期間で早々に挙式日を確定させてしまった……。
マイスハント邸内の自慢の薔薇園にて婚約者となったローゼリアに茶のもてなしを受けていたハロルドが、テーブルの上で組んだ両手の上に額を押し付けながら項垂れていた。
「まさか両親と兄だけでなく、クライツ殿とルシアン殿までも……」
その様子を目にしたローゼリアが、吹き出しそうになりながら苦笑する。
自身の気持ちをローゼリアに伝えたハロルドは、その日の内に父である国王にローゼリアとの婚約を打診し、早々に許可を得た。その後、ローゼリアの父であるマイスハント伯爵に手紙で婚約の申し入れをし、本日は婚約契約書へのサインを求めに邸へ訪れた。
弟のフィオルドの件で、すぐには受け入れては貰えないとある程度覚悟を決めて臨んだハロルドだが……。要らぬ心配だったようで、ローゼリアの父であるマイスハント伯爵にあっさりと受け入れられ、現在に致る。
その際、同席していたローゼリアの兄クライツから事の真相を聞かされ、自分達がかなり周囲の人間をヤキモキさせていた事を知り、その羞恥心と己の情けなさに落胆しているのが、今の現状だ。
そんなハロルドを慰めるようにローゼリアは、自身が淹れたお茶を勧める。
「ハロルド殿下、そのように気に病まれなくても……」
「病みたくもなる……。家族だけでなく、クライツ殿やルシアン殿にもお膳立てに協力頂いていたとは……。特にルシアン殿にはかなり失礼な態度を取っていた自覚があるので、本当に頭が上がらない……」
「ルシアン様に? そのような振る舞いはなさっていなかったかと……」
二人が会話していた時の様子を思い出しながら、ローゼリアがそう告げると、何故かハロルドは静かに首を振った。
「いや。ルシアン殿があなたに積極的に声を掛けていた際、私は無自覚で彼に対して牽制をかけていた……」
「そう、なのですか?」
「非常に情けない事なので、あまり口にしたくはないのだが……。あの時の私は、ルシアン殿が本気であなたを落しに掛かっかていると思い込み、自覚がなかったとはいえ、嫉妬心をかなり剥きだしにしていたように思う」
「そ、それは……」
ハロルドのその告白にローゼリアの頬が薄っすらと色づく。
その微かな変化に気付いたハロルドが、思わず苦笑した。
「私にとっては自身の情けない話の一つなのだが、今の様な表情をあなたにさせられるのであれば、あながち悪くもないな」
「で、殿下!!」
「もう婚約者なのだから『殿下』ではなく、名前で呼んで欲しいと願ってしまう事は欲を出し過ぎだろうか」
「ぜ、善処致します……」
「是非、頼む」
父である国王から婚約の許可を得た直後から、ローゼリアに対するハロルドの口調は、やや砕けたものへと変化している。だがローゼリアの方は、すぐに切り替えが出来ず、どうしても王族に対するかしこまった接し方が抜けきれない。
少しずつ婚約者としての親密な距離感に慣れて欲しいと、ハロルドから要望があれど、長年癖付いた事をすぐに直す事は難しい……。
それでも婚約前に比べたら、お互いに堅苦しさは薄れつつある。
その変化の一つにローゼリアの心音を騒がしくするハロルドの行動があった。
「ローゼ」
ふいに愛称で呼ばれたローゼリアは、頭の芯に甘い痺れのような感覚を覚える。元婚約者でもあるフィオルドからも呼ばれていたこの愛称だが、ハロルドに口にされると、何故か声に濃厚な甘さが入り混じっているようにローゼリアには聞こえるのだ。
少し前にその事でハロルドに故意ではないかと確認してみたが「気のせいだ」と一言で片づけられてしまい、未だにその真相は分からない。
だが、気のせいではない事は明らかだ……。
その証拠に愛称呼びをする時のハロルドは、甘くとろけるような優しい笑みを浮かべいる。
その度にローゼリアの胸はキュッと締め付けられ、耳が幸福で侵されるような感覚に陥ってしまう。しかもその事をハロルドに気付かれているようで、ここ最近は必要以上に何度も甘い声で愛称呼びをされていた。
「ハロルド様……。その、必要以上に甘い声で愛称呼びをされてしまうと、わたくしの心臓が持たないのですが……」
再び抗議も含めて懇願すると、ハロルドが眉を下げながら苦笑する。
「すまない。以前、フィオが何度注意してもあなたの事を当たり前のように愛称で呼んでいた事が羨ましかった為、自身にその権利が与えられた今、悪戯に何度も呼びたくなってしまうようだ」
苦笑しながら謝罪してきたハロルドだが、何かを企む光を宿している瞳からは全く反省の色が見えない。もはや必要以上にローゼリアを愛称呼びをしてその反応を楽しむ事が、ここ最近は癖になっているようだ。
しかし気持ちを確認し合う前のハロルドは、ここまであからさまな甘い接し方をしてくるなど全く予想出来ない程、真面目でお堅い印象だったのだが……現在はそのイメージなど、どこかに置き忘れたかのような状態だ。
その急激なハロルドの変化について、兄クライツに相談してみたのだが……。
翌日たまたま新しい交易品の申請が通ったルシアンが、登城の為にマイスハント家にやって来ていた為、何故か兄だけでなくルシアンにも相談するような状況になってしまったのが、つい三日前の出来事だ。
すると二人は、ハロルドと接する際の注意点を滾々と助言して来た。
「ハロルド殿下は真面目なお方ではあるが、恐らくその反動で本命に対して確実に手が早くなるタイプだ」
「ローゼリア嬢。くれぐれも隙を見せぬよう注意された方がよろしいかと思いますよ。そうでないと婚姻前に早々に食べられてしまう可能性が……」
何故か力強い口調で二人から忠告を受けたローゼリアだが……。
その時は、二人の忠告は要らぬ心配だとしか思えなかった。そもそもあの紳士的なハロルドのどこにそんな懸念をする必要があるのだろうかと。
だが、今目の前のハロルドからは、兄達の助言の的確さを認めざるを得ない。
そんな忠告を兄と一緒になってしてくれたルシアンだが……。
実は彼には、隣国に公けにしていない婚約者がいた。
だが今回ハロルドからローゼリアの婚約者候補の一人として声を掛けられた際、友人でもあるクライツから「妹と第二王子の仲を取り持つ為、一芝居打って欲しい」と頼まれたそうだ。
友人クライツからの頼みに応える為、社交的で女性の扱いにも慣れているルシアンは、敢えてローゼリアに好意を抱いているような振る舞いを過剰に行った。そして全くローゼリアに惹かれている事に気付けないハロルドに対して、敢えて煽る行動を繰り返していたらしい。しかし、その度に無自覚ながらも挑発に乗せられるハロルドは、面白いくらいにルシアンを牽制してくるで、途中からその反応を見る事に楽しみを見出してしまったそうだ。
だがもしこれでローゼリアが、ルシアンに好意を抱いてしまうかもしれないという懸念は考えなかったのだろうか……。
そんな疑問を抱いたローゼリアが二人にその事を問いただすと、何故か二人から同時に吹き出されてしまった。
「お前はあの婚約破棄未遂騒動の際、すでにハロルド殿下に一瞬で心を奪われていただろう。兄の私から見ると一目瞭然だったぞ?」
「クライツから話は聞いていたのですが、まさかここまでお二人が自身のお気持ちを自覚されていなかったとは思わなかったので……。その為、ローゼリア嬢には、敢えて過剰に自己アピールをしてみたのですが、驚くほど反応が薄かったので、その懸念は一切ございませんでした。逆にハロルド殿下は無自覚のまま、嫉妬心を剥き出しにされるので、つい悪戯心が疼き、やり過ぎてしまいました……」
兄達二人の言い分にその時のローゼリアが、赤面した事は言うまでもない。
その話をつい先程ハロルドにもしたところ、羞恥心を抱きながら項垂れていたはずなのだが……。今はローゼリアの反応を楽しむ事に気持ちを切り替えたようで、何故か甘い触れ合いを過度に求めてくる。
父親から婚約の許可を貰った後のハロルドは、まるで人が変わったように溺愛行動をしてくるようになったのだが、その部分は何となく弟フィオルドと通ずるものがある……。
同時に生真面目過ぎるハロルドの性格が、更に溺愛行動を助長させているようにも思えた。恐らく婚約者に誠実に接しようとすればする程、ハロルドの溺愛行為は加速していくのだろう。
実際に今のハロルドは、何かにつけてすぐローゼリアの顔周辺に触れたがる。特にローゼリアの青銀色の絹糸のようなサラサラな髪は、頻繁にその標的となっており、ここ最近のハロルドは隙あらばローゼリアの髪を優しく指で絡め取り、愛おしげに手の中で弄ぶ事を楽しんでいる。
「あなたの髪は、本当に見事な美しさの青銀髪だな」
「お褒め頂き、ありがとうございます。この髪は兄共々、母より譲り受けたものになりますね」
「黒髪の私からすると羨ましい限りだな……」
「殿……ハロルド様の艶やかでサラリとした漆黒の御髪もわたくしにとっては、とても魅力的な髪色と感じますが」
「だが、触り心地はあなたの美しい青銀髪の方が素晴らしい。どうしたらもっと堪能出来るか、最近よく考えてしまう……」
囁くようにそう零したハロルドは、少しだけ腰を浮かしてテーブルに手を尽き、やや前のめりになる。そして指に絡め取っていたローゼリアの髪を捻じり上げながら指を伝わせ、頬に向って指を滑らせた。すると、いつの間にかローゼリアの頬にハロルドの指先が到達する。
その瞬間、甘い危機感を抱いたローゼリアが慌てて身を引こうとしたが、ハロルドの深い青の瞳に囚われてしまい、動けなくなる。
すると、確信犯のハロルドがふわりと微笑んだ。
「ローゼ……」
瞳だけでローゼリアの動きを封じたハロルドは、その頬に手を添えたまま今日一番の甘い声でローゼリアの愛称を囁く。
その瞬間、ローゼリアの思考と時間が完全に停止した。
それを合図にハロルドがローゼリアを覗き込む様に顔を近づけてくる。
逃れたいのに逃れたくない……。。
一瞬、葛藤したローゼリアが、すぐにを受け入れようと決意した瞬間―――。
絶妙のタイミングで掛けられた空気を読まない一声で、その甘い時間は見事にぶち壊された。
「兄上? 何故、マイスハント家に?」
その声の主にハロルドが、呆れながらも鋭い視線をぶつける。
同時にローゼリアも我に返り、勢いよくハロルドから視線を逸らした。
二人の甘い時間をぶち壊した犯人は、第三王子のフィオルドだった。
「フィオ……。お前の空気の読めなさは、最早天賦の才だな……」
「どういう意味でしょうか? 私は、ただシャーリーの事でローゼに相談したい事があり、こちらを案内されただけなのですが……」
「ローゼ?」
「お待ちください、兄上!」
おもむろにフィオルドの顔面目掛けて片手を広げてきた兄ハロルドに対し、それを遮るようにフィオルドの方もピシっと片手を上げて兄の動きを制した。
「兄上がローゼの婚約者候補である今、ローゼは将来的に私の義姉になる女性です! 義弟となる可能性が高い私が彼女を愛称呼びする事は、ごく普通の事かと思います!」
「元婚約者を早々に姉扱い出来るお前は、ごく普通とはほど遠いと思うのだが? そもそも私は彼女の婚約者候補ではなく、本日付けで正式に婚約者となった」
ハロルドのその宣言にフィオルドが驚く様に目を大きく見開く。
「まさか……早々にマイスハント伯より婚約誓約書にサインを頂けたのですか!? 流石、兄上!」
「お前はどの口で、そのような言葉を吐けるのだ……。大体、私と彼女の婚約が危ぶまれる事態を招いた張本人はお前だろ!! 何故、頻繁に私の婚約者の邸に足を運んでいる!!」
「ですから、シャーリーの事でローゼに相談を……」
「三か月前、公の場で婚約破棄を言い渡そうして彼女の名誉を傷付けかけたお前が、何故平然と自身の恋愛相談をしようとしているのだ?」
そう言って完全に目を据わらせたハロルドがゆっくりと腰を上げ、弟の顔面に狙いを定めながら右手を大きく広げた。その兄の行動から逃げるようにフィオルドは、座っているローゼリアの後ろに身を隠す。
「女性を盾にするとは……お前は恥ずかしくないのか!?」
「女性である前にローゼは私の義姉です! 私は義弟として彼女に守られる恩恵があるかと!」
「彼女は、まだお前の義姉ではない!!」
どうやら毎回ハロルドは、フィオルドの顔面を鷲掴みにして制裁を加える際、容赦ない力加減で行っていたらしい……。その痛みの恐怖から、フィオルドは早々に兄が婚約者に弱い事を察し、ローゼリアを盾にする。
フィオルドにとって婚約者だった頃のローゼリアは、その優秀さ故に常に劣等感を与えてくる存在だったのだろう。だが近い将来、義理の姉弟という関係なる状況はフィオルドにとって、非常にしっくりくるものらしい。
末っ子気質の所為か、早くも姉に甘える弟という立場に無自覚で甘んじようとしている。その図太い神経の愚弟に再びハロルドの怒りが爆発する。
「お前はローゼをどこまで愚弄する気だ!! 公の場で彼女の名誉に傷を付けようとした立場でありながら、比べられる関係でなくなった途端、婚約者時代の惰性で彼女に縋ろうとするとは……。自身が色々な意味で最低で男としては情けない振る舞いをしている事に自覚がないのか!?」
「ですが、ローゼからは特に不満や苦情を言われておりません!」
「長年、手の掛かかる弟のようなお前の面倒を押し付けられ過ぎた所為で、その感覚が鈍ってしまっただけだ!! お前はもう少し自身が人を頼り過ぎてしまう欠点を自覚しろ!!」
「ですが……そんな私に対してローゼだけでなく、兄上も最終的には手を差し伸べて助けてくださるではありませんか……」
「お前……。自覚があっての振る舞いだったのかっ!?」
弟の無自覚に近いあざとさを再認識したハロルドは、眩暈を訴えるかのように片手で両目を覆いながら、盛大に項垂れた。
幼少期から周りに甘やかされる環境が当たり前だったフィオルドは、周囲の人間を呆れさせながらも思わず手助けしたくなるように仕向ける天才だ。
それは長年末っ子だったという環境だけでなく、留学前のハロルドがあまりにも手助けし過ぎた事も原因である……。
弟の性格だけでなく自分の甘やかしも原因だと認識しているハロルドは、思わず己を責めるように唸り始めた。その状況に苦笑しながら、ローゼリアが話題を変えて、その場を取りなそうとする。
「ところでフィオルド殿下は、わたくしにどのようなご相談を?」
するとフィオルドがパッと顔を輝やかせる。
「実は三日程前、久しぶりにシャーリーに手紙を出した際、返事があって! 内容的にはまだ少し警戒されている感があったが……。それでも私との友人関係を維持する事に関しては、前向きに検討してくれるとの返答が……」
「それを世間では社交辞令と言うのだが、お前は分かっているのか?」
「兄上、今私はローゼに相談しております! そもそも以前三日おきに出していた手紙には、一度も返信がなかったのに今回やっと返事を貰えたのですよ!? これは改善対策の効果が表れたという事になりませんか!?」
興奮気味に語るフィオルドの言い分にハロルドが白い目を向け、ボソリと呟く。
「エマルジョン男爵令嬢が手紙の返信をしなかったのは、母上が止めていたからだ」
「は……い?」
「お前のしつこいアプローチで彼女が疲弊しないように母上が、彼女にそう助言していた。現状お前が彼女との交流を図ろうとする度に陰でその調整をなさっていたのは母上だ!」
「なっ……!!」
「さて、フィオ。この状況であれば、お前が縋るべき相手は誰だか、もう分かるな? ローゼを頼っても意味はない。さっさと母上の元に行け!」
今までシャーリーとの関係醸成の相談役に王妃である母親が濃厚に関与している事をフィオルドには隠していたのだが……。
このままではローゼリアと自分の時間を邪魔される可能性が高いと判断したハロルドは、早々に母親に愚弟を押し付ける事を決断したらしい。
対して兄から発せられた衝撃の事実に一瞬唖然としたフィオルドだが、すぐに口元を引き締めた。
「ローゼ。急用を思い出した為、相談はまた別の機会にお願いしたい。そして兄上……素晴らしい情報を頂き、ありがとうございます!」
声高らかに兄に礼を述べたフィオルドは、勢いよく踵を返し足早にその場を去ってく。そんなフィオルドの後ろ姿をローゼリアが茫然とした様子で眺めていた。その為、ハロルドが座っていた椅子をローゼリアの隣にピタリと移動させてきた事に気付けなかった。
「これで邪魔者は消えたな……」
急に耳元近くで囁かれた低くよく通る声にローゼリアが驚き、その方向へと視線を向ける。するとハロルドがテーブルに頬杖を付きながらローゼリアの顔を覗き込んで来る。目を細め、甘やかな笑みを浮かべているハロルドだが、その瞳の奥には何故か獲物に狙いを定めた狩人のような光を宿している。
「ハロルド……様?」
「これでしばらくの間、フィオの対応は母上がしてくださるはずだ。さて、その間、我々はこの三カ月近く無駄な気遣いで遠回りをしてしまった時間を早急に取り戻すべきだと、私は感じているのだが……」
そう言って、またしてもハロルドがローゼリアの青銀髪を一房手に取り、そのまま髪を伝いながらローゼリアの頬に到達すると、優しく顎を持ち上げる。
「あなたはどう思う?」
質問をしておきながら、その答えをローゼリアから貰う気はないらしいハロルドは、ローゼリアの顎を軽く持ち上げ、自身の顔を近づけてくる。
その間、ローゼリアはまたしてもハロルドの深い青の瞳に囚われ、されるがままの状態になってしまった。その好機をハロルドは、けして逃さない。
「ローゼ……」
甘く愛称を囁かれたローゼリアは、まるで操られるかのようにゆっくりと瞳を閉じる。同時にハロルドの気配が近づく事に期待が膨らんだ。
だが次の瞬間、その甘やかな空気はある人物の一言で、またしても壊される。
「殿下、失礼致します。先程ルシアン様がお見えになり、是非今後の東国への果実酒販売に関して深いお話をされたいそうです」
涼しげな声で二人の甘い雰囲気を壊した人物は、ハロルドの側近であるイースだった。その瞬間、ローゼリアはハロルドの手から逃れるように身体を椅子の背もたれの方へ引き、ハロルドの方は獲物を逃がす原因となった側近を鋭く睨みつけた。
「イース……。お前、敢えてこのタイミングで声を掛けてきたな?」
「このタイミングとは、どのタイミングでしょうか? ただ私は将来的に交易関係でお付き合いが必須となるルシアン様をお待たせしまう事はよろしくないと思い、早々に殿下にお知らせしただけですが?」
どう考えても先程の甘い雰囲気に水を差す事を目的とした側近の言い分にハロルドが、ピクリと片眉を不快そうに上げた。だが、すぐに諦めた様に深く息を吐く。
「分かった。ローゼとの関係を深める事は、もう少しゆっくりと進める」
ハロルドのその言葉にローゼリアが、ビクリと肩を震わせる。
だがイースの方は、意地の悪い笑みをハロルドに向けた。
「それが賢明なご判断かと思います」
側近に釘を刺されたハロルドは、苦笑しながら名残惜しそうにローゼリアに別れを告げ、ルシアンが待つマイスハント邸の客間に向かう。
しかしその後のハロルドは、ゆっくりどころか早急にローゼリアとの挙式を早めるような動きをし始める。その手始めに臣籍降下したハロルドは、半年足らずでマイスハント家が考えていた果実酒貿易の態勢を整えてしまう。
そして僅か一年未満の婚約期間で早々に挙式日を確定させてしまった……。
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