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第二部 第三章
雷
しおりを挟むアデルがシシィを連れ戻すために外へ出てから、もう一時間近くが経った気がする。ソフィは家の中で椅子に座り、一方的にリディアに話しかけていた。
日はすでに傾き、窓からは日も差し込まなくなっている。薄暗くなった室内で、リディアは向かい側に座って頬杖をつき、家の壁よりも遠くに視線を置いていた。
ソフィは肉屋ヶ丘でアデルが自分を探し回った話を披露していた。
「でじゃな、アデルは妾を探すために町の中を一日中駆けずり回っておったそうじゃ。それはもう、大変なことであったと思う。妾のためにそこまで一生懸命になっておったのを知って、妾は嬉しかったのじゃ」
リディアからは生返事しかなかったが、ソフィはさらに他の話も続けた。アデルが小銭を落として一日中沈んでいた話だとか、雪の上でごろごろ転がっているうちに溝に落ちたとか、アスパラガスの値段が上がりすぎてると文句を言っていたとか、町で美人に見とれて躓きそうになったとか、色々と話すことがった。
「そういうわけでじゃな、アデルというのはなんとも小さい男なのじゃ。まったく、些細なことで動揺したり、どうでもいいような違いに拘ったり、器の小さいことこの上ない」
そうやってアデルの悪いところを語りながら、ソフィはちらりと視線をリディアの顔へと向けた。リディアの横顔が描く曲線は書家の書いたカリグラフィアのように美しい。
瞳の色はその髪の色を宿したかのような紅で、輝きは宝石のようだった。女の身でありながら、その美しさには見惚れてしまう。最近はこの顔が様々に変わるのを見ていたから意識していなかったが、こうやって動きが止まっているとその造形の美しさだけが浮き上がっているのがわかる。
ソフィは話すことが無くなってしまい、机に目を落とした。そこに放り投げられているのは、リディアが破いた本だった。リディアについてのことが書かれているという。
この本を破り捨て、リディアは言った。勇者ではなく、ただのリディアのほうが好きだと、アデルがそう言ったという。あの男がこの美人に向かってそんなことを言ったというのはまったく知らなかった。
いつのことなのかはわからないが、少なくとも結構な日にちが経っていると思える。
それだけならばともかく、リディアはアデルのその言葉を聞いて嬉しかったのだという。好きだと言われて喜びを感じるというのは、その相手に対して好意を持っているからではないかと思えた。
ソフィの心の内側に焦りが生じる。ちりちりと毛羽立った不安が胸の奥で蠢いていた。
もしかすると、リディアはアデルのことが好きなのではないか。
そうだとすれば、それは自分にとってはあまりにも厄介なことだ。
リディアは自分と違って大人だし、その美しさでもさすがに敵わない。勇者として剣を振るっていたリディアは何よりも恐ろしかったが、最近は明るい性格のお姉さんのようで確かに好ましかった。
自分でも気づかないうちに、自分もリディアに対して好意を抱くようになっていた。運動を教えてくれるし、戦い方も教えてくれる。時にはちゃんと褒めてくれるし、自分のことをしっかり見てくれている。
リディアとそうやって過ごす時間は楽しかったし、自分の成長が実感できて嬉しかった。
そのリディアがアデルのことを好きだというのであれば、自分はどうすればいいのだろう。
自分が激情に駆られて杖を向けたとしてもリディアには到底敵わないだろう。女としての魅力でも、まだ胸も膨らんでいない自分では相手にならない。例え成長して胸が大きくなり、自分が美人になったとしても、それでもなおリディアには及ばないだろうと思えた。
そもそも、この世にリディアほどの美人などいないだろう。その美人が剣の達人であり伝説の勇者さまでもある。
詳しい功績はよく知らないが、こんな本になるほどの人物だ。多くの人に敬愛されているのは間違いないだろう。
このリディアと正面から戦ったのでは、戦いだろうと恋だろうと相手にならない。
リディアがアデルに好意を抱いていると決まったわけではないが、その可能性は十分にあると思えた。アデルのほうは、こんな有名人が農夫を好きになるわけがないと思い込んでいるかもしれない。あの男は魔王にすら好かれているということをすっかり忘れてしまっている。
リディアはきっと、世の中で価値があるとされているものより、自分にとって価値があると思ったものを大事にするのだろう。見た目や社会的な地位などリディアにとっては何の問題にもならないのだ。
考え事をしていると、遠くから雷がごろごろと鳴る音が聞こえた。見えもしないのに、空を見ようとして視線を上へと向けてしまう。もしかしたら雨が降るかもしれない。
雨が降る前に二人が帰ってくればいいのに、ソフィはそう思って視線を再びリディアへと向けた。
この美人がアデルのことが好きなのかどうかが気になってしまう。ソフィは口の中を唾液で湿らせて声を出す用意をした。
「のう、リディアよ」
「ん? なに?」
頬杖をついたまま、リディアがこちらに視線を向けてくる。ソフィはつい視線を逸らしてしまう。
「いや、その……」
「ソフィ、これからしばらくは何処に行くにしても杖を持ってなさい」
「は? な、なんじゃ突然」
「いいから、わかったわね」
「う、うむ……」
理由を問い質そうと思ったが、リディアが強い口調で念を押してきたために気勢が殺がれた。
再び沈黙が流れ、代わりに遠雷の響きが室内を満たした。日の落ちる速度が突然上がったかのように、部屋は暗くなっていく。空腹を感じて、ソフィは腹を擦った。
アデルは今頃どうしているのだろう。シシィを見つけることが出来たのだろうか。どっちでもいいから、早く帰ってきて欲しい。
短く溜息を吐いて、ソフィは動くことのない扉に目を向けた。
リディアがアデルのことを好きなのかどうか尋ねようと思ったが、その言葉を口にするのは勇気のいることだった。もしもリディアがアデルのことを好きだったなら、リディアが自分の恋敵ということになってしまう。こんな強敵を相手にどうやって勝てというのだろう。
それとなくアデルの評判を落とすような話をしてみたが、リディアはあまり真剣に聞いていないようだった。
色々と考えながらソフィが小さな唇の隙間から息を漏らした。そこでソフィはちょうど良い質問を思いついた。
これならば直接的ではないし、リディアにとっても答えやすいだろう。
「のうリディアよ、そういえば、一体いつまでこの村にいるつもりなのじゃ?」
この質問の答えで、リディアがアデルのことをどう思っているのかが解るかもしれない。すぐにこの村を去るというのであれば、アデルのことはどうとも思っていないはず。
どう答えるだろうかとリディアの顔を見つめた。リディアが少し唸ってから答える。
「うーん、そうね。まぁ理想は、一生ずっと」
「な、なんと?」
「なに? 知りたいんじゃなかったの? あたしがアデルのことをどう思ってるか」
「あ、いや、ちょっと待つのじゃ」
ソフィが慌てて立ち上がった。婉曲的な質問のはずだったが、真意はあっさりと看破されていたらしい。動揺の中でソフィは尋ねる。
「それはつまりじゃな……」
「好きよ。あたしはアデルのことが好き。あいつの子ども産んでもいいかなって思えるくらいに好き」
リディアは少し恥ずかしそうに頬を染めている。
雷の音が近くなった。
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