名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

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第二部 第二章

二人の帰り道

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 好きなところを触っていもいい。

 そう言ったリディアは、自分の豊かな胸を誇るようにわずかに胸を反らした。思わずその胸元に視線を向けてしまう。シシィのように小柄な体に似つかわしくない大きな胸ではなく、女の体としての美しさを追求すればこの大きさになるのではないかと思えるような膨らみだった。
 鎖骨と鎖骨の間がわずかに汗で濡れていて、その骨ばった窪みにちらちらと木漏れ陽が落ちている。

 アデルは一度唾を飲み込み、自分の顔を隠すように右手を広げ、親指と中指でこめかみを揉んだ。
「どこでもいいのか?」
「……うん、あんたが触りたいところ」
「触れてしまえば、離したくなくなるかもしれん」
「ちょ、ちょっとぐらいの間だったら、別に」
「後で文句を言ったりするでないぞ」
「い、言わないわよ」
 リディアが視線を落とし、両手をへその前で組んだ。その細い指先をせわしなく絡ませて遊ばせている。

 アデルが右手を降ろす。
「そうか、お礼というのであれば受け取らせてもらおうと思う」
「うん……」

 アデルは自分の右手をさっと伸ばしてリディアの左手を握った。その手を胸の高さにまで掲げて、半歩リディアに詰め寄る。驚いているのか、目を見開いているリディアに告げた。
「しばらくは離さんぞ」
「えっ?」
「さぁ、家に帰ろう」

 アデルはリディアの手を握り締めてその手を引いた。リディアが動揺しているせいか、手を引かれるままにリディアも歩き出す。
 剣士とは思えないほどに小さな手をぎゅっと握り、アデルは木々の間を抜け出て再び日差しの下へと体を晒した。

 ようやく戸惑いも収まったのか、リディアが隣で声をあげた。
「ちょ、ちょっと、あんた」
「ん? なんじゃ?」
「これって」
「何か間違っておるか? リディアの体で触りたい場所というから、わしはリディアを家に連れて帰るためにその手に触れた。しばらくは離さんと言ったじゃろう」
「それは、そうかもしれないけど」
「後で文句を言わんのではなかったのか?」
「確かに、そう言ったけど……」
「ならばよいではないか。さぁ、帰るぞ」
「……うん」

 リディアが頷き、顔を伏せたままアデルと歩く。アデルはリディアの手を握ったまま、わずかに早足で歩いた。その速さにリディアはついてこようとしない。自然とリディアがアデルの右後ろを歩くような形になる。アデルはちらりと後ろに視線を向けてリディアの顔を見ようとしたが、リディアはその長い髪を自分の顔のほうへ持ってきていたため表情はよく見えなかった。
 ほんのわずかにリディアの顔が見えたが、何を考えているのかはわからない。

 体に触れていいと言われたが、いやらしい意味でその体に触れればリディアは傷つくのではないかと思えた。自分も男だから、このような美女に誘惑めいたことを言われれば心は揺らぐ。リディアの体は今まで見たこともないほどに美しいだろうし、触れたいとは思った。
 それでも、リディアの言葉を額面どおりに受けとって性的に触れてしまうことは憚られた。きっと、リディアも自らの体をそう触られることを望んではいないと思う。


 アデルは手を繋いだままゆっくりと道を歩いた。自分も随分大人にはなったと思うが、この状況は心の中に思春期特有の恥に似たものをもたらす。手を繋いで女と歩くというだけならば緊張はしないが、今こうやって手を繋いでいる相手は誰よりも美しい女で、自分のやっていることも自分の立場も何かおかしなものに思えてしまった。
 平静を装うのにも慣れたつもりだったが、内心の緊張が体に現れるのを防ぐことはできなかった。アデルは繋いでいる手に汗がじんわりと浮かんでいるのを感じた。夏の暑さのせいにしたくなるが、実際には心の動揺が手の平に現れているに過ぎない。
 こんな汗まみれの手で握られてリディアは嫌悪感を覚えているのではないかと考えてしまう。そうやって考えてしまうことがまた手の平に汗をもたらし、抜け出せない悪循環へと入り込んだ。

 リディアも手の平に汗をかいているのかもしれない。握った手はじっとりと熱く、自分の体温よりも少し高いのではないかと思えた。
 二人の体液が掌の間で混じりあってゆく。さらさらと流れるような汗ではなく、粘り気を含んだような汗だった。

 あまり考えすぎると余計にリディアを意識してしまいそうで、アデルは空いた左手で後頭をがりがりと掻いた。
「しかし暑いのう……」
「うん、暑くて、汗が出ちゃう」
 リディアが小さな声で返事をしてくれた。
 こういう時は何を話せばいいのかよくわからない。いつもだったら言葉などすらすら口から出てくるし、冗漫なお喋りなどいくらでも出来るはずなのに、今はどうすればいいのか思いつかなかった。

 アデルは道のずっと先へ視線を移してリディアに言った。
「シシィもリディアのことを憎く思っておるわけではない。ちゃんと話し合えばリディアが不安に思うような何かは」
「今はシシィのこと、話さないで」
 話している最中に遮られて、アデルは口を半端に開いたまま出てこようとする言葉を喉で塞き止めた。
 鋭い声音に話を止めてしまったが、アデルはもう一度喉を奮わせた。

「いや、リディアが怒るのもわからんでもないがな、しかし」
「怒ってない、もうシシィに怒ってないから、シシィの話はやめて」
「な、なんじゃ?」
 アデルは首を右に向けてわずかに後ろを歩くリディアに視線を向けた。リディアは顔を背けるように右に顔を向けていて、その横顔は長い髪のせいであまり伺えない。

「リディア、本当に怒っておらんのか?」
「怒ってないわ」
「う、うむ。それならばよいが」

 内心のところはわからない。リディアは意地っ張りなところがあるし、自分の感情を素直に出すことに抵抗がある場合もあるようだった。見つけて欲しいと思ってわざわざ見つかるような場所にいるのもそれだろう。
 それを指摘しても、リディアは決して認めないだろうと思えた。


 ゆっくりとした歩みだったが、ようやく自分の家が見えてくるところまで来た。こうやって手を繋いでいられるのもあとわずかだろう。太陽は少しずつ傾いていて、空の色も少しだけ薄くなったように見えた。涼しい風に頬を撫でられて、アデルは心地よさを感じた。
 このところ色々とあって疲れが溜まりがちだったが、この穏やかな時間は心の底に溜まった澱を洗い流してくれる。止まっているように見えるこの時間も、星の動きのように緩やかに流れていた。目に付く場所には誰もいなくて、自分とリディアだけがこの世に取り残されてしまったかのようだった。
 今日の労働の疲れと眠気のせいで頭はぼんやりとしていく。ようやく手を繋いでいることに対して心が落ち着くようになったが、手の平に残る汗は消え去ってはくれない。

 自宅の近くまで来て、アデルは一度立ち止まった。
「さぁリディア、家にまで帰ってきたぞ」
「うん」
 アデルはリディアの顔を見るために振り向いた。手を離そうと手から力を抜いて引っ張ったが、リディアが握っているせいで手は離れなかった。葉っぱで作った船を小川に流すかのような緩やかな手つきで、リディアが手を離した。

 アデルは声音をやや明るいものにして言った。
「少し名残惜しいのう。リディアのような美女と手を繋いで歩く機会などもう無いであろうからな」
「なんでそんなこと言うの?」
「ん?」
「また、歩けばいいじゃない」

 リディアは肩にかかった髪を後ろに払いながら、消え入りそうな声でそう言った。軽く俯いてはいるが、その表情は伺える。戸惑いと恥ずかしさを感じているようだった。
 目前の美女がどういう気持ちでいるのかはよくわからないが、こんな田舎者と一緒に歩くことを不快に思っていなかったのなら自分にとっては喜ばしい。

「そうじゃな」
「うん」
「さて、と」

 アデルは庭に視線を向けた。シシィはもうそこにいない。蔵に戻ったのか、それとも何処か別の場所に行ったのかはわからない。ソフィはまだ家にいるのだろうか。
 自宅に向かって坂を下り、アデルは井戸の近くに来た。色々とやろうと思っていたことがあったが、今日はもうさすがに疲れた。

 ちょうど家に入ろうとした時に、ソフィが家から出てきた。エプロンとワンピースが合わさったような格好で出てきたソフィは、アデルの姿に気づいて声をかけてきた。

「うむ? なんじゃ、帰ってきたのか。いきなり何処かへ行ってしまったので、何事かと思ったのじゃ」
「すまんすまん、ちょっと色々あってな。それより、わしもそろそろ夕食の準備をせねばのう」
「ふむ、なんじゃリディアも一緒にどこかに行っておったのか。まったく、リディアよ、妾があのハレンチ娘にちゃんと言っておいたから安心するがよい」

 ソフィはそう言って自分の薄い胸をドンと叩いた。一体何のことを言っているのかわからない。
 どうやらリディアにもわからなかったらしい。

「言ったって、何を?」
「何をって、あれじゃ。あのハレンチ魔法使いの対応が冷たいと言ってさきほど出て行ったではないか。あの後、妾はハレンチ娘に言ったのじゃ。確かに読書の楽しみを邪魔されるのは腹が立つかもしれんが、ほかの人にとっては読書というものを個人的なものであってそれほど重要視しておらん可能性がある。従って目前の相手よりもそれを優先するのは失礼になるかもしれんで、話しかけられたらちゃんと話に付き合ったほうがよいのじゃ、とな」

 可愛らしく胸を張ってソフィがそう言った。
 リディアは感動したかのように口元を覆った後、ソフィの体に抱きついた。

「ソフィ! あんたなんて可愛いことをするのかしら! まったくもう! この子ったら!」
「のわっ?! なんじゃ、やめんか」
 抱きつかれたソフィが手をばたばた振り回すが、それくらいでリディアの動きが止まるはずもない。
 リディアはソフィに頬ずりしながらソフィの背中をバンバン叩いた。
「まったくもー、さすがあたしの弟子! 可愛いことするじゃないの!」
「やめんか! 暑苦しいわ!」
「暴れないの、ほら、抱きつかせなさい」
「暑いわ!」
 ソフィはなおも文句を言うが、リディアがソフィを離そうとしなかった。やがてソフィも抵抗するのを諦めたのか、力を抜いてなすがままになる。
 リディアは今度はソフィの後ろに回ってソフィの小さな首に両手を回した。

「ま、しばらく大人しく抱かれてなさい。ちょうどね、抱きつく相手が欲しかったから」
「なんじゃそれは、妾は犬や猫ではないのじゃ」
「まーまー、いいから」

 ぷんむくれのソフィを後ろから抱きすくめて、リディアは家の中へと入っていった。
 置いていかれたような気がして、アデルが唇を閉ざし頬を指先で掻く。

 よくわからないが、リディアの機嫌も直ったようだし、何かしこりが残っているようでもないし、これでよかったのかもしれない。



 リディアとソフィも仲良くなったようだし、もうリディアがソフィを殺そうとするようなこともないだろう。
 自分とソフィの平穏な生活を守りたい。自分が目指した状況は既に達成されたと思っていいはずだ。

 だから、もう何も問題など起こらないはずだと、アデルはこの時はそう考えていた。
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