名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

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第二部 第三章

浴場

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「な、なんじゃこれは?!」

 愕然とした。目を見開いて、目の前にあるものを上から下まで眺める。
 決して起こり得ないことが起こっているという驚きが、脊髄を細かに震わせた。空気は氷からなるヤスリのように肌を擦って痛みをもたらすが、今はそれすらも心地よいと感じる。
 ねばっこい汗が滲むのを感じた。

 昨日、谷間の村に出かけてそこで豚の屠殺をした。そして今日、日が暮れる前に家に戻ってきた。
 その間、ほぼ丸一日だ。家を空ける心配はあったが、リディアとシシィの二人がいてくれるならなんの問題も無いはずだ。そう思っていた。

 立ち尽くす。井戸の近くに立って、目の前にあるものを未だ信じられない心地で見る。
 そうしていると、ふと声をかけられた。


「む、アデルではないか。なんじゃ、もう帰ってきおったのか」

 女の子のかわいらしい声に振り向くと、ソフィの姿が目に入った。ソフィは長い黒髪を二つのお団子にしていた。
 右上と左上に拳より大きな髪の団子がある。なぜか左側の団子だけ髪の毛が大量に跳ねていて、しかも綺麗な球形になっていない。
 その団子には棒のようなものが差し込まれている。あれが一体何なのかは気になるところだが、それよりもっと気になることがあった。


「お、おおソフィ……。かわいらしい髪型じゃのう」
「かわいいのは髪型だけではないのじゃ。妾もかわいいのじゃ」

 少し冷笑的にソフィが口角をほんの少し上げた。ソフィの言っていることは間違っていないが、それより尋ねなければいけないことがある。

「ソフィよ、これは一体、なんなんじゃ?」
「うむ、これは風呂なのじゃ」


 ソフィから視線を外して、もう一度正体不明の建物に目を向ける。
 そう、昨日家を出て今日戻ってきたら、建物がひとつ増えていた。大きさは今の家とほぼ変わりない。
 礎石が大人の腿の高さほどにまで組まれていて、その上に木造の建築物が載っている。
 切妻屋根のその建物からは、長い煙突が空へ向かって突き上げられていた。

「ふ、ふろじゃと……?」
「うむ、風呂なのじゃ。立派なものであろう。妾の力が無ければこんなものは出来なかったのじゃ」
「いやいや……、ええ? ちょっと待ってくれソフィ、たった一日じゃぞ。わしが出かけておったのはたった一日じゃ。こんなもの出来るわけがなかろう」

 この規模の建築物を建てるとなれば一週間以上はかかって当然だろう。それが一日で出来上がるというのは信じがたい。

 未だに信じがたくて、その建物をじろじろ見てしまう。
 


 そうやって風呂を眺めていると、後ろのほうから軽快な足音が聞こえた。

「アデル、帰ってきたのね!」

 振り向いた瞬間、目を光で焼かれるかと思った。それはただの錯覚なのだが、そう思うのも無理はない。
 リディアがこちらへ駆け寄ってくる。まるでその背に光でも背負っているかのように眩しい。それはリディアの美しさのせいだろう。
 たった一日離れていただけで、リディアの美しさに今更ながら驚いてしまう。軽い驚愕にぽかんと口を開いていると、リディアがすぐ前に駆け寄ってきて止まった。

「お帰りなさいアデル。ふふーん、すごいでしょ。ビックリしたでしょ」
「あ、ああ……、うむ、ただいま」
「まぁ、なんだか気が抜けてるわ。もしかして疲れてるの? それだったらちょうどいいわ、お風呂があるもの」
「いや、うむ、その、なんじゃ。えっと、わし、いきなり家にあんな建物があってビックリしておるんじゃが」
「そう? 前にお風呂作るって言ってなかったかしら」
「……聞いたような覚えはあるが、それは浴槽を作るという話ではないのか」

 風呂を作るというから、浴槽を自作するのかとばかり思っていた。それがまさかあんな建築物を建てることを指していたとは夢想もできなかった。
 突如としてこんな建築物が現れて、驚かずにはいられない。他の村人だってこんな建物があることに気づいたら驚くはずだ。その時、どう説明すればいいのかもわからなかった。

「あ、いかん。村人で思い出した」

 カールがさらに泊まりになることを、カールの父に伝えなければいけない。一瞬空を仰ぎ見る。今のうちに行かなければ、日が暮れてしまいかねない。
 風呂のことも気になるが、先にそちらを済ませなければ、カールの両親が何かあったのかと心配してしまうだろう。

「すまぬ、わし、ちょっとカールの親父さんに伝えねばならんことがある」

 簡単に事情を説明して、村のほうへと小走りで駆けた。
 









 村に入ってカールの家へ行くと、カールの父がちょうど庭に出て何か作業をしているのが目に入った。すぐさま声をかけて、手短に用件を伝える。
 カールの父は話を伝え終えると深く頷き、それからカールの仕事がどうだったのかを尋ねてきた。きっと、カールが上手くやれたのかが気になっていたのだろう。
 その気持ちはわからないでもないが、今は時間が無い。カールの父を安心させるために、カールの仕事ぶりは実に良かった、後はカール本人から聞いてくれと言い残し、足早に去った。カールも遠出の結果を自分で報告したいと思っていることだろう。

 太陽はその姿を夕日に変えようとしていた。空の中央は青色を失って深く暗い色へと転じていく。寒いはずだが、さっきから小走りで移動しているからまったく寒さは感じなかった。むしろ汗が流れてくる。
 それでもさすがに耳や鼻は寒さで痛んだ。


 家にたどり着くと、家の前に三人娘が揃っているのに気づいた。どうしてそんなところに立っているのかと思って近づくと、リディアが手を振りながらこちらに大きな声を上げた。

「おかえりなさいアデル! お風呂の用意、できてるわよ!」
「用意?」
「うん! あったかいから、すぐ入れるわよ。ほらほら」

 小走りのままリディアのほうへ近づくと、リディアもこちらに駆け寄ってきて、こちらの手を取った。そのままグイグイと引っ張ってくる。

「ちょ、ちょっと待ってくれリディア」
「まぁどうして? お風呂が冷めちゃうわよ」
「いや、その、風呂についてじゃが、わし全然聞いておらんかったし」
「ふふ、ビックリしたでしょ。みんなで作ったのよ」

 リディアの言葉に、ソフィが大きく何度もうなずいた。

「妾の力が無ければこのようなものはできなかったのじゃ」
「その通りよソフィ、本当に、ソフィのおかげよ」
「ふっふっふ、その通りなのじゃ。アデルよ、妾の力が大であることをしっかりと認識してありがたく湯につかるのじゃ」
「いやいやソフィ、わしはそういうことを聞きたいのではなくてじゃな」

 ソフィに何か言おうとしたところで、今度は袖が引っ張られた。何かと思えば、シシィが細い指でこちらの肘のあたりを掴んで引っ張っている。

「おお、シシィ。うむ、帰りの挨拶がまだであったな。ただいま」
「おかえりなさい」

 そう言ってシシィがはにかむように笑みを浮かべてくれた。その唇のわずかな動きを見ているだけで、心臓の下あたりを柔らかな羽根でくすぐられているかのような心地になる。シシィのふわふわとした金色の髪は、茜に色づく太陽の中でも輝いていた。白い肌は内側に乳が流れているのかと思うほどになめらかで、思わず吸い付いてみたくなる。

「来て、説明したいから」
「ん? あ、ああ」

 シシィがこちらの肘の間に腕を入れてきた。腕を組むような格好になって、引っ張られる。そうしたら、リディアも手を引っ張ってきた。
 これほどの美女二人に引っ張られるというのはなんとも幸せなことのはずだが、今は疑問のほうが大きくて素直に喜べない。

「これで井戸から水を汲み出している」
「な、なんじゃこれは」

 井戸の上に何かおかしな仕掛けがあった。井戸の蓋の上に、手の平を広げた幅で丸太を切り分けたようなものが載っている。
 丸太の輪切りではなく、何かを組み立てて円形にしているらしい。円の中心点のあたりに、何か取っ手のようなものが取り付けてある。

「今ソフィが見せてくれる」
「なんで妾がやらねばならんのじゃ! というか、二人ともくっつくでない! しっし!」

 ソフィがぷりぷり怒りながら、シシィとリディアの二人をこちらから引き剥がしにかかる。ソフィが暴れたところで二人にとってはダンゴムシほどの脅威にもならないだろうが、二人は素直に離れた。
 それから、シシィが井戸の隣に置いてあった桶を取った。

「ここに水を入れて、それからこの取っ手を回すと水を汲むことができる」
「ん? 何を言っておるんじゃ?」
「ソフィでも問題なく水が汲める」

 シシィがそう言った後、ソフィは無言で取っ手を持ってそれをグルグルと回し始めた。どうやら円形をしているあの木の中は空洞になっているらしい。
 その中で何かが回っているのかもしれない。しばらくすると、円形の箱の側面から水が出てきた。

「うおっ?! な、なんじゃこれは?!」

 さっき入れた水が出てきただけでないことは明らかだった。凄まじい量の水が円形の木箱の側面から出てくる。本当に井戸水なのかどうかわからず、水に手で触れてみた。
 ほんの少しの温かさを感じた。

「いやいや、まさか、魔法で水を出しておるのでは?」
「違う。この装置で井戸の水を吸い上げている。これを使えば、ソフィでも安全に井戸の水を汲める。もっとも、ソフィは魔法で水が出せるからこれを使う必要もないけれど」
「……う、うーむ。どういう仕組みなんじゃこれは」
「その説明は……、また後で。次はこっち」

 再びシシィに引っ張られた。それから、突如として現れた建築物の中へといざなわれる。数段の階段を登って、扉を開けると暗く狭い部屋が現れた。どうやらこの建物は、二つに区切られているようだ。
 
「ここが着替えをしたりするところ」
「ほう」
「それで、こっちが浴室」

 そう言いながらシシィは引き戸を横に引いた。こうやって横に滑らせて開く戸らしい。戸の向こうは暗くてはっきりと見えなかった。
 むわっとした熱気が戸の向こうから溢れてくる。木の香りを含んだ蒸気が、鼻腔を満たした。
 期待は膨らんだが、奥は暗くてよく見えない。どうやら火が点いているらしく、その辺りだけはボンヤリと見えるのだが、室内の様子は蒸気のせいでよくわからない。
 今が夕方ということもあるし、窓が無いからというのもあるだろう。しかし、シシィは中に入ってすぐに窓を開けた。その窓も木製らしい。
 光が入ったことで部屋の全貌が明らかになった。

 木製の風呂が部屋の右側に据えられていて、その中にはすでに湯が張ってあった。左側には座れるように広々とした長椅子が置いてある。
 どうやって湯を沸かしているのかと思ったら、木製の浴槽の脇に炉があるのが見えた。

 よくわからないまま室内に入ろうとしたところ、後ろから引っ張られた。

「ここで靴を脱ぐの。中は土足禁止よ」
「お、おお……。それはいかんな、気づかんかった」

 確かに浴室に土足で入るのは悪い。よく見れば、シシィも靴を脱いで入っていた。さっきは全然気づかなかった。シシィは梁に何かを引っ掛けていた。よく見るとそれは魔法のランタンだった。その光のおかげで室内はほぼ完全に見ることができた。
 靴を脱ごうとした瞬間に、足元に何かがいることに気づく。

「脱がせてあげる」
「いやいやいや、自分で脱げる」

 驚いた。いつの間にかリディアがこちらの足元でかがんでいて、こちらの靴を脱がせようとしていた。そんなことまでしてもらうのは気が引ける。靴くらい自分で脱げるし、リディアにこんな汚れた靴を触らせるというのも心苦しい。
 それに、自分は人に靴を脱がせてもらうような立場ではない。リディアは自分の召使いなどではないのだ。

 片足で踵をひっかけてチャチャッと靴を脱ぎ、浴室へと入った。その瞬間、足元が濡れた。靴下に水が染み込んでくる。しまった、どうやら床が濡れていたらしい。
 靴下も脱ぐべきだった。しかし、今から脱いだところでもう遅い。別に濡れて困るわけでもないし、出る時に脱げばいいだろう。


「しかし、なんとまぁ……、すごいのう」
「がんばった」

 シシィが照れたように笑みを浮かべる。どうやらがんばったらしい。それもそうだろう。相当な苦労をしなければこんな建物は出来上がらないのだ。
 三人が協力して作ったというが本当に苦労したはずだ。

「うーむ、本当にすごい。わしはもう驚いてなんと言ってよいのやら」
「脱いで」

 思わずずっこけそうになった。足元が滑りやすいとかそういうことではなく、シシィの脈絡のない言葉に驚いたのだ。

「いやいや、いきなりなんじゃ」
「……脱がないと、お風呂には入れない」
「あ、ああ、まぁそうじゃな。しかしいくらなんでもみんなの前で脱ぐわけにはいかん」

 戸の向こう側にはソフィもいる。ソフィはやはりじとーっとした目でこちらを睨んでいた。
 ここは一旦引き返したほうがいいだろう。そう思ったのだが、シシィがこちらの肘のあたりを掴んで言った。

「問題ない。それに、わたしが、あなたの背中を流したりとか、体を洗ってあげたりとか、そういうことも、するから」

 言って恥ずかしかったのか、最後のほうは視線を逸してしまった。シシィのそんな姿を見て、思わず唾を飲み込んでしまった。
 シシィがそう言ってくれるのは嬉しいのだが、そんなことをさせるわけにはいかない。節度というものがある。
 ちゃんとそう言わなければと思い、咳払いをして喉を整えた瞬間、ソフィの高い声が響いた。

「こりゃシシィ! 何を言っておるのじゃ! アデル、おぬしもシシィにそんなことをさせるでない」
「わかっておる」

 ソフィの教育によろしくない。
 こちらの言葉に満足したのか、ソフィはようやく鋭い目つきを改めてくれた。

「あら、ダメよソフィ。ちゃんとみんなでね、アデルの背中を洗ってあげるくらいのことしなきゃ」
「これリディア、わしはそんなことは望んでおらん。そんなに気を回さんでもよい」
「そう?」
「うむ、まぁ気持ちだけ頂いておく。それより、うむ……、本当に驚いた。こんなものを作り上げてしまうとは」

 一体どうやったのだろう。色々と気になることはあった。しかし何よりも言わなければいけないことがある。
 何の相談もなくこのような建築物を作られたということに対して、いくらか心にしこりが無いわけではない。
 先に自分に相談してくれれば、一緒に作ることもできただろう。それに、建てるべき場所も相談できたはずだ。
 風呂を沸かすとなれば、大量の薪も必要になる。それらの調達についても考えなければいけない。

 色々と思うところはある。しかし、それらより先に伝えなければいけないことがあった。
 三人の顔を順番に見てから言う。
 
「ありがとう。わしは嬉しい。こんなものを作るのには相当な苦労をしたはずじゃ。しかし、我が家のためにこれほどのものを作ってくれた。わしはそれが嬉しい」

 そう伝えると、リディアとシシィの二人は少し照れくさそうに視線を逸して身をよじった。ソフィはというと、うんうんと頷いている。
 
「さて、せっかく温かい湯があるわけじゃし、みんなで順番に入ってはどうじゃ」
「なに言ってるのよ、アデルのために用意したんだから、アデルが先に入らなきゃ」
「その通り」

 リディアとシシィの二人が勧めてくる。これを無下に断るのもあまりよくないかもしれない。ここは快く受け取るほうがいいはずだ。

「そうか、では二人がそう言うのであれば先にいただくとしよう」








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