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第二部 第二章
魔王と緑色の魔物
しおりを挟む勇者がまんまと落とし穴に引っかかった。まさかと思ったが、あの勇者はどうやら頭のほうはあまり良くないらしい。あんな見え透いた誘導に引っかかるとは思わなかった。
緑色の魔物が叫ぶ。
「逃げるぞ!」
アデルは勇者が落ちた穴の横を通り、出てきた森とは反対方向へと向かった。横をついてくるソフィが、穴に向かって杖を構える。
「これでも食らえなのじゃ!」
杖の先に燃える赤い炎の球が現れた。ソフィの言葉に従って、その火球が放物線を描いて穴の中に落ちてゆく。しばらくしてから爆発音が聞こえた。
どおん、という重たい音が落とし穴から立ち上り、次いで煙が輪状に高く舞い上がる。
穴から離れながらアデルが言う。
「崩れてはくれんものじゃな」
「いや、魔物たちでさえ抑え切れなかった。生き埋めにするのは難しいだろう」
緑色の魔物が冷静にそう言った。
「しかし逃げるといっても、一体どうすればいいんじゃ」
痛む体で、アデルは足を前に進めた。あの森から平原を突っ切って進もうと思えば、相当な時間がかかるはずだ。
緑色の魔物は腿に受けた矢傷のせいで走ることができないようだった。アデルはなんとか緑色の魔物の体を持ち上げる。アデルの体にまとわりついた血の跡がぐっしょりと緑色の魔物を濡らした。
目を細めて、緑色の魔物が言った。
「すまん、助かる。まず、魔王を逃がすための魔物を向かわせてる。鳥の魔物に掴まれるのはかなり痛いだろうが、我慢してもらうしかない」
「馬は?」
「地上を行くとあの勇者に追いつかれる可能性がある。まずは人間では踏破できない経路を行くべきだ。俺たちは馬でとにかく距離を作る」
「なるほど、聞いたかソフィ?」
「また妾にだけ逃げろというのか!」
ソフィが小走りで走りながら文句を言った。
「わしも後で行く。とにかく敵の狙いがソフィである以上、それを遠ざけてしまえばいい」
「しかし」
「ソフィ、今、わしらが生きておるというだけで奇跡よ、これ以上偶然を望むのは難しい」
緑色の魔物を左肩に担いたまま走ろうと試みたが、体中に走る痛みがアデルの意思を蔑ろにする。ソフィが走るよりも遅い。体中から失われた血液が同時に活力を奪い去ってしまったようだった。
この調子ではあの魔法使いにも追いつかれてしまうのではないのか。
アデルはそう思って後ろを振り返った。あの魔法使いは未だに包囲網を崩しきれていないように見えるが、さきほどよりも包囲する魔物の数は減っていた。あの女の魔力はもう尽きかけているはずだ。それは間違いない。
そんな状況でも冷静に使うべき魔法を選択し、無駄に魔法を使わないようにしているのだろう。
もしあの勇者があの魔法使いほど冷静であったなら、今自分は生きてはいなかっただろう。
偶然にもこの緑色の魔物が現れたことで状況は一変した。
あの森の中で、ソフィは魔物を呼び出すことに成功した。戦力になるものが現れればいいという浅はかな望みに賭けただけだったが望外の結果を見た。魔物を指揮できる能力を持つこの緑色の魔物によって、千近い魔物の陣であの二人を迎えることが出来た。
それが無ければあの魔法使いはここまで魔力を使うことがなかっただろう。モグラの魔物に落とし穴を掘らせるという作戦も良かった。二本足で立っている以上、突然地面を奪われれば戦うことなど出来ない。
緑色の魔物がしゃがれ声をさらに枯らして言う。
「……未だ幼き魔王よ、あれを持っているか?」
「あれ? あれとはなんじゃ」
ソフィが小走りで走りながら尋ねる。
「母から受け継いだあの宝石だ」
「なっ、何故おぬしがそのことを知っておるのじゃ?!」
驚きにソフィが眉をあげる。緑色の魔物は疑問を無視して続けた。
「持っているのか持っていないのか?」
「……無論、持っておるが」
「だろうな、肌身離さず持っておかないと、この男が間違って見てしまうかもしれん」
「妾はアデルに裸は見せたが、着替えは見せておらん」
「はは、そうか……。だが魔王よ、この男ならば大丈夫かもしれんぞ。この男は、俺との約束を守った。お前のことを大事に思っている。俺の賭けは成功した。この男があの神殿に来なければ、あの勇者が来ていただろう。そうなっていれば、殺されていたに違いない」
「……あの手紙を紛れ込ませておったのは、おぬしか」
「ああ、あっさり無視して勇者を待ち構えるとは思わなかったがな」
「何故喋らんかったのじゃ。妾は、ずっと一人ぼっちで……」
「そういう約束だった」
アデルには二人が何について話しているのかはわからなかった。
ソフィが母親から形見になるものを受け継いでいるのは知っている。ソフィが以前暮していた家には、ソフィの母親の私物と思われるものが沢山あった。嵩張るので持って行けないと告げた時、ソフィはすでに母から貰ったものがあるから必要ないと提案を拒んだ。
母の形見が何なのかアデルは知らなかったが、話の流れからするとどうやら宝石だったらしい。
アデルは会話を続ける二人の間に割って入った。
「わしも色々気になることはあるが、それはすべてが終わってからでよかろう。今は」
「いや、もう終わりだ。俺の終わりだ」
緑色の魔物が声を滲ませる。
「何が終わりなんじゃ、まだ終わってはおらん」
アデルは苦痛と共に足を前に出した。体が重たいだけでなく、痛みも走る。
緑色の魔物が苦々しく言う。
「俺を担いだままでは、お前が走れないだろう」
「何を言う、今は辛いが、一旦安全な場所に逃げてからソフィの魔法で」
「いや、いい。もういい、俺に考えがある。俺が、この機にあの魔法使いを始末する」
「おぬしが?」
「ああそうだ、あの魔法使いは今弱りきっている。だが、数日もすればまた魔力が戻り、再び手がつけられない存在になる。ここで始末するべきだ。あの勇者はあまり頭がよくないようだ、魔法使いの協力がなければ、お前たちが逃げた先に辿り着くのは至難だろう」
言われてみれば、あの魔法使いがあそこまで追い込まれるような事態が今後起こる可能性は低いように思えた。いつかまたあの魔法使いと戦うようなことになった時は、こんなに上手く物事が運ぶ可能性は無いだろう。
あの二人もこちらの戦い方や限界をすでに知ってしまっている。
千を超える魔物もあの二人の魔力や体力を削っただけで、倒すまでは至っていない。
「しかし、どうやってあの魔法使いを始末するんじゃ? 魔物たちは残り少ない、おぬし」
「俺が直接奴と戦う」
「強いのか?」
「この姿では弱い……、だが、魔王によって施された封印が無くなり元の姿に戻れば、あの魔法使いを始末するくらいは出来るはずだ」
「おぬしは一体何者なんじゃ?」
「俺は、魔獣だった。無論、竜ほど強いわけではないからあの勇者には勝てんだろうが、弱りきった魔法使いを屠るくらいは訳ない。その後であの勇者の足止め、出来ることならば負傷させる」
緑色の魔物が何を言いたいのかはよくわかったが、その上で理解できないことがあった。
「なぜ最初からそれをしなかった? 何か不都合があるのではないのか?」
「……元の姿に戻れる時間には限りがある。そして、その時間が過ぎれば俺は消える」
「消えるというのは、どういう意味でじゃ? 死ぬということか」
「もういいだろう、問答をしている暇はない」
「はぐらかすのか」
「俺の命を惜しむような愚を犯すな。消えるといっても死ぬわけではない。俺はもういい、もう長く生きた、十分すぎるほど生きた。魔王にはお前がいる、お前が守ってやってくれ。俺との約束を守ってくれたお前に、後はすべて託す、お前ならば、俺のようにはならない」
本当に死なないのか、アデルには判断がつかなかった。自分が罪悪感を覚えないように嘘を吐いている可能性もあった。
どちらにしても、元の姿とやらに戻った後はもう会話することも出来なくなるのだろう。
アデルは逃亡のために足を前に進めながら、歯を食い縛った。確かに、あの魔法使いをここで始末できれば、あの勇者から逃げ続けることは可能かもしれない。あの二人がどうやってソフィの居場所を突き止めたのかはわからないが、あの魔法使いの力によるところが大きいはずだ。
あの勇者だけではきっとここまで来れなかっただろう。
アデルはちらりと後ろを振り返った。背骨から熱が奪われるような恐怖がアデルの表情を恐れに染める。
「バカな」
穴に落ちたはずの勇者が、すでに穴から抜け出してこちらに向かって走っていた。馬よりも速いのではないかと思うほどの速度だった。右手に握った剣を提げ、空気をも切り裂くような速さで迫ってくる。
「いかん!」
アデルの言葉で、ソフィも緑色の魔物も後ろから勇者が迫っていることに気づいた。
もう落とし穴などないし、策もない。平原であの勇者と対峙すれば、瞬きのひとつやふたつの間に三つの命が失われるだろう。
緑色の魔物が焦りの中で叫ぶ。
「魔王よ! あれを俺に見せろ!」
「わ、わかったのじゃ」
「男よ、お前は目を閉じていろ!」
緑色の魔物はそう言ってから体を捻り、アデルの肩から地面に降りた。
「離れていろ、俺の元の姿は少しばかりでかい」
ソフィが自分の胸元からペンダントのようなものを引っ張り出す。
「目を閉じていろと言っただろう、今は見るべきじゃない」
「う、うむ」
そう言われても、勇者が迫るこの状況で目を閉じるような豪胆さは持ち合わせていない。アデルは二人に背を向けて、勇者のほうへ視線を向けた。暗くて顔はよく見えないが、怒りが頂点に達したがゆえの無表情のように見える。あの勇者はもう一言も喋ることはないだろう。
アデルの後ろで、二人が何かを喋っている。小声だったのでアデルには聞こえなかったが、ソフィが何か主張しているようだった。
勇者が迫ってくる。
「クソッ」
アデルが腰を落とす。
背後で雷が落ちたかのような光が起こった。
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