名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

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第二部 第二章

動き出した勇者

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 深い落とし穴の底で、勇者の持つ剣が土の中から切っ先を覗かせていた。呼吸が出来るよう、勇者の頭だけは完全に土がかからないようにしてある。あれだけの土が体の上に乗っていれば、普通は動くことなどできないはずだ。
 例え雪のように軽いものであっても、それによって体を包まれてしまうと大の男でさえ動けなくなる。土に埋められたのなら尚更だろう。
 穴の底を覗き込み、アデルがごくりと喉を鳴らした。正午もとうに過ぎ、気温はじりじりとその頂点に達しようとしている。ずっとシャベルで土を掬っていたからか、自分の体から湿った土の匂いがした。

 アデルは息を吸い込み、明るい声質で言った。

「よし! もう覚悟を決めるしかあるまい。さぁやろうではないか! とか言っておるが、わしは何にも出来んわけで色々と心苦しいのう。なんでわしが音頭を取っておるんじゃろう」

 勇者を説得するのは魔法使いだし、あの勇者の動きを止めているのはソフィの魔法だった。

 二人はアデルを挟んで立ち、少し呆れたようにアデルの顔を見ている。アデルは咳払いをしてからソフィに頼んだ。

「ではソフィ、頼むぞ」
「わ、わかったのじゃ」

 ソフィが杖を掲げる。その杖を軽く振った。その効果や必要とする魔力の割には、解除の動きは随分と小さな動きで実にあっけない。
 どうなったのかと、アデルは穴の底に向かって身を乗り出した。勇者の体が動いたのを見て、凍っていた恐怖が再び体を走り抜ける。ソフィも同じだったようで、びくっと体を竦ませた。


「リディア! 落ち着いて、動かないで!」

 魔法使いが両手を口の前に持ってきて、大きな声を出した。勇者の体がびくんと跳ねている。さすがに縄で縛られ、目隠しをされ、土が体に圧し掛かっている状態では動けないようだ。

「リディア! お願いだから落ち着いて、大丈夫だから。わたしの声が聞こえる?」

 大きな声で語りかける。宥めるための言葉が聞こえているのか聞こえていないのかわからなかった。勇者はなおも体を動かしている。
 魔王を斬り殺そうとしていたその瞬間にこうなっているわけだから、混乱するのも無理はない。

「リディア! 動かないで! 落ち着いて、今は安全だから!」

 魔法使いは眉を寄せて、少し焦った様子で勇者に語りかけている。まずい方向へ進んでいるようだった。あの勇者が落ち着かない限り、話をすることも出来ない。
 あの勇者が戦う方向で動き続けるのなら、こちらはあの勇者に対して攻撃をしなければいけない。魔法使いにとっては、あの勇者の命が掛かった説得になる。

「リディア! 動かないで!」

 何度も同じことを言うが、あの勇者はもがいている。まだ戦うつもりでいるのだろう。状況がわかっていないから、混乱しているに違いない。
 だが動けないのであれば、いずれ諦めるはず。そこで魔法使いがさらに説得を続ければ落ち着いて話を聞いてくれるだろう。


 土から突き出ている剣が、突然光を帯びた。同時に勇者は左手を剣から離したようだった。右手だけでくるりと剣の向きを逆に変え、その剣先を自分の体に向ける。まさか自害するつもりかと思ったが、違った。
 剣先が土の中にざくっと突き刺さる。

「リディアやめて!!」

 一際大きな声で魔法使いが叫ぶ。もう余裕がないようだった。


 勇者は自分の体に向かって剣を突き刺す。何をしているのかようやく理解できた。あの勇者は剣で自分の体に巻きついている縄を切っている。だが、ひとつ間違えば自分の体に突き刺さりかねない。自分の状況すら掴めていないはずなのに、何故そんなことが出来るのかわからなかった。


「はああああああああああああっ!!!」

 勇者の大音声に、アデルは腹の底がせりあがってくるような気がした。重たい恐怖がずしんと腹を叩く。まずい、何かするつもりでいるに違いない。
 もうこれ以上あの勇者に何かさせるわけにはいかない。

「ソフィ、魔法を使う準備をしておけ」
 アデルがそう言った瞬間、魔法使いがアデルの上腕を掴んだ。
「待って、まだリディアが動けると決まったわけではない」
 魔法使いは哀願するようにじっとアデルの顔を見上げている。表情を殆ど変えないこの魔法使いがあの勇者のために必死になっていた。自分の時にはみっともない命乞いをしなかったのに、勇者のこととなると違うようだった。
 この魔法使いの気持ちは理解できたが、その願いを聞き入れるわけにはいかない。
「いや、もういかん。動き出す可能性がある」

 ちらりとソフィを見ると、杖を構えたまま震えていた。顔から血の気が引いているのを見て、アデルは自分の目論見がいかに浅はかだったかを思い知った。あの勇者に対して覚えた恐怖は、おそらくソフィの短い人生の中で最も強いものだったに違いない。
 それを思い出してしまっている。生きるために足掻いている時は強い痛みにも耐えられるが、無事が保証された後では針で刺されただけでも辛い。ソフィは自分の命が助かったと一旦思ってしまった。それゆえに心の準備が間に合わず、恐怖に支配されてしまっている。

「落ち着けソフィ」

 勇者の体が跳ね上がる。かぶさっていた土が四散し、勇者はその両足で穴の底に跪く。すぐに立ち上がり、右手に持った剣を数度周囲に向かって振り回した。次に左手で頭に被さっていた袋を外そうとした。結びつけてあったのでそうすぐに取れない。片手では取れないと判断したのか左手で袋を引っ張り、自分の剣を横にさっと引いた。


「リディア! 動かないで! 剣を捨てて!」

 剣を捨てたところで、あの勇者はこの場の誰よりも強い。それくらいはこの魔法使いにもわかっているはずだ。そんなことを言わなければならなくなるほどに焦っている。


 穴の底の勇者が視線をこちらに向けた。服は泥だらけで、その艶やかな赤い髪も土の褐色に染まっている。しかし、紅玉のような瞳だけはただ美しく、そして怒りの色に燃えていた。
 その視線に射抜かれただけで、アデルは腰が抜けそうになった。強く見開かれた瞼はしばし閉じることを忘れてその内側の瞳を晒し続ける。勇者が唇をぎゅっと結んだ。

 同時に勇者が穴の底で壁に向かって駆ける。跳び上がり、壁を蹴った。その勢いでさらに反対側の壁まで跳び、再び壁を蹴る。曲芸じみた動きを、まるでただ歩くかのように容易く行っていた。

「いかん! ソフィ! 魔法を放て!」

 上がりきるまでの間に落とさなければいけない。穴の底に落ちたらさらに魔法を放ち、動けないようにする。それ以外に方法はない。そこから炎を放ち、勇者から空気を奪う。いかに勇者と言えども空気が無ければ死ぬはずだ。
「お、おのれ!」
 ソフィが杖を構えた。その杖の先から炎の球が三つ撃ち出される。空中を飛ぶ勇者が剣を振るう。炎を斬り裂いた。止まらない。ただ壁を蹴って、そして地上より高いところまで跳び上がった。空中で頭を下にして、勇者はふわりと宙を舞い、そして地面の上に降り立った。


「リディア! 落ち着いて話を聞いて」
 魔法使いが勇者に向かって歩き出す。勇者の表情は怒り一色。手負いの猛獣のごとく怒気が膨らんでいる。
 もはや話を聞いてくれるような状況ではない。

 やはり見通しが甘すぎたか。
 ソフィが言った通り、魔法使いとあの勇者を確実に殺すことを考えるべきだったのかもしれない。
 自分の目論見の甘さのせいで、ソフィの命は再び危機に晒されてしまっている。

 この二人に仲間がいたとしても、増援が来たとしても、そして他の誰かが魔王の居所を突き止めたとしても、そいつらはこの二人よりは弱いに違いない。
 村に住み続けることは不可能になるだろうが、ソフィは生きていられる。

 今回はあの緑色の魔物もいない。魔物も呼んでいない。強力な魔法を使えるソフィでも、あの勇者には勝てはしない。
 もう一度あの宝石を使おうとしても、勇者は警戒するだろう。ソフィがもう一度固定化を使えるのかどうかもわからないし、杖の先で勇者の体に触れられるという保証もない。


 もう打つ手は無い。
「……ソフィ、すまぬ」
「何を言うのじゃアデル!」

 ソフィがぐっと杖を握り締める。その細い杖の先が震えていた。
 あの勇者からもたらされた恐怖は相当のものだっただろう。それでもソフィは戦うことを選ぶつもりのようだった。
 どれほど魔力が回復しているのかはわからない。普通の魔法であれば、あの勇者を倒すことなど不可能だろう。


 魔法使いは勇者を落ち着けようと勇者に語りかけているが、勇者は何も言わない。右手で剣を握り締め、怒りの炎を紅い瞳に宿して魔法使いを睨みつけている。
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