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第二部 第三章
シシィの旅立ち
しおりを挟む朝の冷たい空気に薄靄が漂っていた。太陽はまだ起き立てで、気力に乏しい光を山間からこぼしている。庭に立つアデルは寒さに身震いし、自分の肘を抱くように体を竦ませた。
天気はよくなりそうだが、朝のうちはどうも寒い。
体に染み込むような冷気の中で、アデルはシシィを見た。庭の一角で、旅支度を終えたシシィが二頭の馬に荷物を取り付けている。
馬は久しぶりの遠出を察したのか、随分と鼻息が荒い。大きな鼻から出た息は白く、緩い風の中に消えてゆく。
シシィはこれからシャルロッテという知人の屋敷を訪れることになっている。どれほど遠いのかはよくわからなかったが、シシィが言うには一週間ほどで帰ってこれるとのことだ。
ただ、女の一人旅になるわけで、身の安全を願わずにはいられなかった。
もちろん、シシィは旅慣れているし、そこらの男がどれだけ束になってかかっても傷つけられないほどに強い。
それでも心配になってしまう。
準備を終えたシシィに話しかける。
「シシィ、体の調子は大丈夫か?」
そう尋ねるとシシィがゆっくりとこちらへ視線を向けた。随分と着込んでいるようで、体の線が丸くなっている。
シシィはいつもと変わらない様子で言う。
「問題ない」
「……そうか」
シシィのことだから、体調に不安があれば出発を見送っただろう。旅に出ようとしている時点で、シシィには何の不安もないのだ。
それくらいのことは理解できているのに、何故か尋ねてしまった。
別にシシィに不安を持っていて欲しいわけではないが、万全な様子を見ていると心配になってしまう。
たった一週間ほどの別れに過ぎないが、妙に寂しく感じられた。
「シシィ、お腹は空いておらんか?」
「大丈夫、もう食べたから」
「そうじゃな、今日のお昼の分も持ったな?」
そう尋ねるとシシィがこくりと頷いた。
シシィの朝食と昼食を用意したのは自分だった。我ながら馬鹿なことを尋ねていると思ったが、なかなか止められない。
きっと、今の自分はシシィの不安を取り除こうとしているのではなく、自分自身の不安を取り除こうとしているのだろう。
そんな女々しい行為にこれ以上付き合わせるわけにはいかない。
アデルは軽く胸を張り、笑みを見せた。
「よし、では準備万端というわけじゃな」
「万全」
シシィは特に表情を変えずにそう言った。ちょうどその時だった、家のほうからリディアとソフィが出てきた。
ソフィはやや眠そうに目元を擦っていたが、リディアは溌剌とした様子でこちらに近づいてくる。
「悪いわねシシィ、面倒なことになっちゃって」
「別にリディアのためだけではない」
「そうかもしれないけど、迷惑かけちゃってるのはあたしだし、一応ね」
リディアがそう言うと、その後ろから現れたソフィがシシィに言う。
「シシィよ、寂しいのであれば妾がついてゆくのじゃ」
「……その気持ちは嬉しいけれど、出来るだけ早く終わらせたいから、一人のほうがいい。それにソフィは馬に乗れない」
「うむ、わかっておる。言ってみただけなのじゃ。妾もいつか都会というものを見てみたいとは思う、しかし今は雌伏の時なのじゃ」
ソフィが都会に興味を持っているとは知らなかった。やはり好奇心旺盛な年頃ともなれば、都会に興味を抱くのが普通なのだろうか。
朝焼けの中で、ソフィの黒髪はしっとりとした輝きを放っていた。その髪に向かって、二頭の馬がのそりと歩み寄る。
「のわっ、なんじゃ、なんなのじゃ!」
二頭の馬はソフィが気に入ったのか、逃げ出したソフィを追いかけ始めた。体がまだ温まっていないのかそれとも寒さのせいか、ソフィの動きはぎこちなかった。
「やめんか! こりゃ!」
馬の鼻で突かれそうになってソフィが声を張り上げる。何故あそこまで馬に好かれるのか不思議でならない。ソフィの体からリンゴの匂いでもするのだろうか。
助けに入るべきかと思い、アデルは一歩踏み出そうとした。
しかし、リディアがよく通る声で馬に制止の声をかけた。
「こらっ! エクゥ、アト、やめなさい。ソフィが困ってるでしょ」
馬にそんなことを言っても聞くわけがないと思ったのだが、二頭の馬はぴたりと動きを止めた。長い首を曲げてリディアのほうへ視線を向けると、なんだか恨めしげに鼻から白い息を吐いた。
リディアがその二頭の馬に近寄って、馬の首筋を撫でる。
「まったくもう、なんでそんなにソフィが好きなのよ」
どうやらその理由はリディアにもよくわからないらしい。リディアは馬の手綱を握り、軽く引っ張った。
それだけで馬はゆっくりと歩き始める。
「さて、と。じゃあシシィ、気をつけてね」
「わかった」
なんとも短いやりとりだ。どうやらリディアは何の心配もしていないらしい。ソフィもそうで、シシィなら問題ないだろうと思っているらしい。
自分だけが何故か妙に寂しくて、つい色々と余計なことを言ってしまった。
リディアがこちらに視線を向け、明るい声で言った。
「ほらアデル、アデルはちょっと先までシシィを送ってきて」
「ん? わしがか」
「そうよ、町の辺りまで」
「いやそれは構わんが」
「じゃあ決まりね、行ってらっしゃい」
いい笑顔でそんなことを言われて、アデルは少々戸惑った。だが、ここはリディアの言う通りにしたほうがいいだろう。
アデルは頷き、それからシシィと一緒に歩き出した。
朝靄が陽光の中で薄らいでゆく。太陽はまだほんの少し黄色がかっていて、地上は薄暗い。
町へ通じる道を、アデルはシシィと一緒にゆっくりと歩いた。広がる光景は見慣れたものだったが、草や地がうっすらと濡れているため今はキラキラと輝いている。
染み入るような寒さだったが、歩いているうちにいくらか体も暖まってきた。
隣をシシィが歩いていて、後ろからは二頭の馬がのんびりと付いてきている。端綱を曳かなくてもちゃんと付いてくるのだから、大した馬だと思わざるを得ない。
アデルは小柄なシシィに視線を向けた。
防寒のためか、シシィはいくらか着込んでいるようだ。胸が大きいせいで、どこかこんもりとして見えてしまう。
ローブを羽織り、手にはいつもの大きな杖を持っている。
そうやって歩いていると、シシィがじりじりとこちらに寄ってきた。それからその手をこちらの腕へと伸ばしてくる。
その手が、アデルの腕とわき腹の間にするりと入り込んだ。
シシィがきゅっと体を寄せてきたので、腕に分厚いローブの感触が伝わってくる。シシィのほうへ視線を向けると、少しだけ恥ずかしそうにしている姿が目に入った。
こうやって腕を組んでくれることが嬉しくて、アデルはつい笑みをこぼしてしまう。
「シシィとしばらく会えないというのは、寂しいものじゃな」
「わたしも、あなたと会えないのは寂しい」
「はは、シシィが困るというのに、そう言ってもらえることを嬉しく思ってしまう」
寂しくも何ともないと言われたら、こっちが余計に寂しい思いをしてしまう。自分のような寂しがり屋にはいささか辛い。
アデルは歩く速度をほんの少し落として、町への道をのんびりと歩いた。こうやって別れを遅らせたところで意味など無いのだろうけれど、それでももう少しシシィの暖かさを感じていたい。
アデルはシシィの金髪を眺めながら、シシィの変化について思いを馳せた。
「覚えておるかシシィ? いつだったか、わしがシシィに尋ねたであろう。寂しいとは思わんのか、とな。その時シシィは言っておったな、今まであまり寂しい思いをしたことが無いと。しかし今、シシィはしばしの別れを寂しいと言ってくれた。それがわしには嬉しい」
いつだったか、すぐ近くの林で会話したことを思い出す。あの時、シシィはいつか寂しい思いをするかもしれないと言っていた。
今がそうなのだろう。この村で暮らすようになってから色々と心境の変化があったに違いない。
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