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第二部 第三章
火鉢
しおりを挟む日も落ちると地上は重たい暗闇に覆われてしまった。それと同時に地を這うように寒気が忍び寄ってくる。
暖炉から溢れる小さな音の中に、アデルの驚きの声が混じった。
「ふ、風呂を作るのか?」
「そうよ、お風呂を作るの。アデルも嬉しいでしょ」
リディアが明るい声でそう言った。アデルは手で黒いパンを手で小さく分けてから口に運んだ。
少しばかりもぐもぐ咀嚼してからパンを飲み込む。
「風呂くらい作らずとも買えばよいのではないか」
「いいの、これもね、練習よ。お風呂づくりを通じてあたしとシシィの腕を磨くのよ」
「そこまで言うのであれば反対はせんが、しかし難しいかもしれんでのう」
「大丈夫よ、失敗しても最悪薪にはなるわ」
「まぁ確かにそうではあるが、風呂は難しい気がするのう」
アデルはそう言って再びパンをちぎった。アデルが難しいと言うくらいだから、きっと自分たちのような素人三人娘には荷が重いに違いない。
しかしリディアは完全に楽観的で、失敗してもそれもまた糧になるとしか考えていないようだった。
「お風呂ができたら運がいいし、失敗してもあったかいし、大丈夫」
「ふむ、ではわしも手伝うとしようか」
「でもアデル忙しいんじゃないの?」
「それは、うむ、まぁ」
秋から冬にかけて、農民はそれなりに忙しくなることが多い。冬を越すための準備がある。一方で、冬になると暇が増える。
アデルも今は村で様々な仕事を頼まれているようだし、今度は泊まりでの仕事もあるという。アデルのような力自慢の若者は頼りにされているはずだ。
リディアは、家の事情でその邪魔をするのはよくないと思っているのかもしれない。
「心配しないでアデル、あたしたち三人娘ができるところまでやってみるから」
「ふむ……、そうか。悪い気もするのう」
「気にしないで、お風呂欲しがってるのはあたしたちなんだし」
そのあたしたちに自分は含まれているのだろうか。それほど強く風呂作りを望んだ覚えはない。
アデルのような心配性にとってはまだ懸念が残るらしく、やや渋い表情だった。
「風呂はたしかに良いが、うーむ……、薪がのう」
「そこは心配いらないわ。我が家には二人も凄い魔法使いがいるんだから、燃料代はかなり節約できるわ」
「ふむ」
そう言ってからアデルがシシィを見る。シシィはこうなる展開を予想していたのか、アデルの視線を受けるのとほぼ同時に言った。
「わたしは前々からお風呂があればいいと思っていた。だから、精一杯協力したい」
「そ、そうじゃったのか」
「だから、がんばってお風呂を作りたい」
そこまで言われてはアデルはもう反対はできないようだった。
「ソフィはどうなんじゃ?」
「む?」
今度はこちらに疑問を投げかけてきた。
「妾は別に問題ないのじゃ。この家のために妾が魔法を使うも妾は構わぬ」
「そうか……、では頼むとするかのう」
アデルはそう言って頷いた。きっと、お風呂で薪を使うとなれば暖房用の薪が足りなくなる恐れがあったのだろう。
確かにそちらが足りなくなれば大問題だ。冬の寒さに凍えてしまう。
お風呂というのはなんとも贅沢なものだ。リディアとシシィの二人は騎士団で良い生活をしていたから、そのあたりには考えが及ばないのだろう。
夕食の後になって、蔵のほうへと拉致された。夕食が終わったのだから少しはのんびりしたいと思ったのだが、リディアがそれを許してくれなかったのだ。
「まったく、もう少しゆっくりしてからでもよいのじゃ」
「まぁいいじゃないの」
リディアが調子よくそう言ったが、素直に受け取れない。
蔵は真っ暗な夜に囲まれていた。魔法のランタンの明かりが無ければ何も見ることができないだろう。この蔵の中に押し込められていた空気は冷たく鋭く、まるで肌に突き刺さってくるかのようだった。
きっとこのままではこの小さな体は冷たい刃に切り刻まれてしまう。ちゃんと杖を持ってきてよかった。
早速蔵を熱風で暖めにかかろうとした瞬間、シシィに声をかけられた。
「ソフィ、待って。まずは火鉢でどれくらい蔵が暖まるか試してみたい」
「ぬ? いやシシィよ、そんな火鉢ごときで暖まるわけがないのじゃ。ここは魔法でさっさとやるのがよい」
「それでもまずは試してみたい。それに、多くの炭を燃やして灰を作りたいから」
「灰ならば別に余った木でも燃やせばよいではないか。わざわざ我慢せずとも」
「炭から作った灰が欲しい。まずは木灰を集め、その後で藁灰も集めたい」
「な、なんじゃ……」
灰に一体何の違いがあるのかはわからない。
シシィには色々と考えがあるようだ。しかしいずれにしても寒さを我慢し続けるのは勘弁願いたい。
「シシィの言うことはわからんでもないが、まずはある程度魔法で蔵を暖めてじゃな」
「はいソフィ、そんなにわがまま言わないの。寒いなら体を動かせばいいのよ」
「む……」
リディアまでシシィの味方をしている。こうなると分が悪い。
「うぬぬ、仕方がないのじゃ。こうなったら妾だけぬくぬくするよりほかあるまい」
「どうするのよ」
「家に戻るのぐえっ」
回れ右して蔵から出ようとした瞬間、リディアに襟を掴まれた。そのせいで首が締まり、変な声が出た。
「ごほっ! おのれリディア! 妾の襟を掴むでない!」
「まぁ待ちなさいソフィ。あたしたち三人は姉妹、苦労も分かち合うのよ」
「無駄に分かち合う必要などないのじゃ。苦しみは減らしたほうがよい」
「このくらいの寒さ、どうってことないわよ」
そうこう言っているうちに、シシィは魔法で早速火をつけていた。桶の中にはシシィが焼いた炭が置かれていて、それに着火している格好だ。
炭に火をつけるのに時間がかかるものだが、そこはさすがのシシィだった。あっと言う間に炭は赤く煌々と照り始めた。
しかし火鉢が小さいため燃やせる炭の量には限りがある。はっきり言って、蔵はまったく暖まってはいない。
「うむ、これでは間に合わんのじゃ」
もう諦めて、自分だけはスカートの中に熱風を送って寒さに耐えることにした。スカートの裾が膨らみ、肌の表面を熱が覆っていく。
「んまーソフィったら一人だけぬくぬくしちゃって」
「妾は二人と違って体が小さいのじゃ。そうなれば自然と外の気温に影響されやすいのじゃ」
「なんかもっともらしいこと言ってるけど、子どもは普通大人より体温があるし、寒さにも強いでしょ。そんなこと言っていいのはヨボヨボの老人くらいよ」
「体温があるのは妾よりもずっと小さな子なのじゃ。それに妾は体の厚みもないし、棒と板で出来たような体なのじゃ。すぐに体が冷えてしまう」
「まぁ口の減らないこと」
それはそうだ。意味もなく寒さに耐えるのは遠慮願いたい。
最後にもうひとつだけ言っておこう。
「それにアデルが言っておったのじゃ。女は体を冷やしてはならんと。アデルの言葉は守らねばならん」
そう言うと、さすがにリディアももう反論してくる気はなくなったようだ。
去年の冬はアデルに厚着させられて随分モコモコしたし、暑い思いもした。どうやらアデルは体が冷えると病気になると信じているらしい。
「はー、まったくソフィったら。まぁいいわ。それよりシシィ、どんな感じ?」
「やはり蔵を暖めるには足りないかもしれない。ただ、寝ている間に炭を燃やしておくのは有効だと思う」
「でも結構煙が出るわね」
「炭を作るのがあまり上手くないから」
炭の入った火鉢からは、そこそこ大きな煙が立ち上っている。もちろん薪を燃やした時ほどではないが、このままでは蔵の中に煙が充満するのではないかと思えた。
どうやら炭焼きをしたもの、やや生焼けだったようだ。さすがのシシィもこのあたりの作業には多くの失敗が伴うのだろう。
「まぁいいわ、炭は沢山あるんだからガンガン燃やせばいいのよ。それにちょっとした明かりにもなるわ」
蔵の中で魔法のランタンの明かりを落とせば、この蔵の中は真の闇に覆われて自分の手のひらすらもよく見えなくなってしまう。
確かにあの炭程度の明かりでも、あればあったで便利かもしれない。しかし、あんな炭の量では夜の間ずっと燃えることはできないだろう。
シシィは少しばかり目を伏せた。
「もっと多くの炭を燃やすには、火鉢のほうをなんとかする必要がある。もっと長い火鉢を作ったほうがいいかもしれない」
「なるほど、じゃあそれを作りましょ。別にガワは木でもいいんでしょ?」
「漆喰を塗りさえすれば燃える心配はいらない」
「つまり、あれでしょ。リーゼがお花とか植えてる、なんていうの、横長の……、植木鉢みたいなのの大きいやつ作ればいいんでしょ」
確かにリーゼの家の庭には、横長の植木鉢がある。あれは丸い植木鉢と一体どういう違いがあってあれを選んでいるのかはよくわからない。
ともかく、今のリディアの説明が正しいと思ったのか、シシィが大きく頷いた。
「あれの大きなものを作る。作り自体はそれほど難しくはないと思う」
「ならやってみましょ。ちょうどソフィのおかげで木材も運べたし」
リディアは早速腕まくりをしている。この腰の軽さはリディアの美点のひとつかもしれない。自分などは腰が重くて億劫に思えてしまう。
自分はそれほど手伝う必要など無いはずだったのだが、木くずを掃除したり、板を運んだりとちょくちょく仕事が回ってきた。リディアが一本の丸太を板にする速度は凄まじく早い。
ノコギリを使うのだが、リディアがノコギリを持つと何故か知らないがその鋼が赤く光るのだ。そうなるともはや普通のノコギリとは違って、硬い木材でも簡単にギコギコと割っていくことができる。
相当大きなノコギリにも関わらず、リディアは難なく扱っていた。ノコギリなど使ったことが無かったはずだが、ここ最近使っているうちに使い方を覚えたらしい。
それと並行して、今度はシシィの手伝いをすることになった。シシィと外に出て、それから土を集めることになったのだが、ただの土では問題があるらしい。
そこでシシィは魔法で鷲の王を出した。
「おお、なんと巨大な」
鷲の王はシシィが得意としている魔法だった。鷲の王は全身が炎でできているため、夜の闇の中にぽっかりと光の穴が空いてしまったかのようだった。
その魔法で生み出された炎の鷲の全長は、アデルの身長よりも長いかもしれない。そんな鷲が火の粉を撒き散らしながらバッサバッサと空中に浮かんでいる。
「鷲の王の炎は特別で、切り裂きながら高温で焼くことができる。今回はそれを応用して土を焼く」
「土を焼くじゃと? 土など焼いてどうするのじゃ」
「表面の土には生命由来のものが多く含まれていて、それらが混じっていると炉床に使うには不都合がある。また、水分があるのもよくない。小さな爆発が起こる可能性がある」
「ふむ、たしかに爆発など起こっては困るのじゃ」
あんな蔵の中でちょっと火の粉が飛んだら、どこかに引火してそのまま火事になりかねない。
「今回は少し出力を下げて土を焼き、その土を蔵にどんどん運ぶことになる。近いとはいえ何度も運ぶのは面倒だから、今回もソフィのあの魔法を使いたい」
「あの魔法というと、荷物を仕舞うあの魔法のことか」
「そう。名前が無いと不便……、今後は異空間接続魔法と呼ぶ」
「そっちのほうが長いではないか」
あの魔法と呼ぶほうが短かった。他にあの魔法と呼ぶような魔法があるわけでもないので、そのままでもよい気がしたが、シシィは納得できなかったようだ。
「とにかく、土を焼いていく」
出力を下げるとか言っていたが、鷲の王が口から吐き出した炎はとても近くで見ていられないほど強烈な灼熱だった。鋭く細く吐き出された炎が土の表面を焼いていく。同時に土の匂いが辺りに充満した。
鷲の王が焼いた後の土を、シシィはシャベルですくいあげる。
「あとはソフィの魔法で」
「う、うむ」
自分も杖を出して魔法を発動させた。シシィが言うところの異空間接続魔法だ。シシィが黒い輪の中にドンドン土を放り込んでいく。
土ならばもし消え去っても惜しいものではない。そんなわけでシシィがシャベルで土を入れていくのだが、さすがのシシィも段々と疲れてしまったようだ。
目に見えてその速度は遅くなっていった。
しかし手伝おうにも自分は異空間接続魔法を維持しなければいけない。
シシィのほうは凄まじいことに、あんな魔法を使いながら体力を使う仕事をこなしている。鷲の王が浮かんでいるおかげで、周囲はまったく暗くない。シシィの可憐な顔立ちもしっかりと見ることができた。
金髪は今は炎の色に照らされていて、黄色が強く発色しているかのように見えた。白すぎるその肌は、運動のためかやや赤くなっている。
「しかしシシィよ、よくも魔法を見ずに使えるものじゃと妾は不思議に思わずにはいられん」
「訓練したから」
魔法は大抵の場合、自分の視界に収まっていなければ上手く扱えない。上から落ちてくる木の実を、目で見ながら正面で受け止めるのは簡単だ。しかしこれを目で追えない背中側で受け止めようとすれば、正面で受け止める時より数段も難しくなる。
魔法も同様に、自分の目の及ばない場所で制御するのは数段難しかった。
それにも関わらず、シシィは鷲の王のほうをほとんど見ることなく操っているし、魔法で土を焼かせている。
シシィはことあるごとに、魔力の総量に関してはこちらのほうが沢山あると言ってくる。確かに、自分は魔王であり、底なしの魔力を誇る。しかし、魔法を扱うということに関してはシシィにまったく及ばない。 このあたりも、訓練すればすぐに上達するとシシィは軽々しく言うが、今の自分はシシィに追いつける気がしなかった。
やがて程よい量の土が集められたのか、シシィは短く息を吐いて袖で額を拭った。どうやら汗をかいてしまったらしい。
蔵に戻ると、リディアはすでに必要な分の板を切り出し終えていた。後は板を組み合わせるための凹凸をノミとトンカチで彫っていく。このあたりはシシィの指示で進んだ。
それほど複雑なものではなく、長い棺を作るようなものだったので組み立て自体はそれほど時間がかからなかった。最後に念のため釘を打って終わった。
「ソフィ、さっきの土を出していくから、この上にさっきの魔法を出して」
「うむ、妾の異空間接続魔法が火を吹くのじゃ」
「あらやだソフィ、こんなところで火なんか出したら危ないわよ」
リディアがそう言ったが、別に本物の火を出すわけではない。ただ、大活躍するという意味で言っただけだ。
その後も作業は順調に進み、寝るまでの間に作ろうとしていた縦長火鉢は完成してしまった。しかし、今はまだ灰が足りないので、この長さをすべて活かしきることはできないのだという。
自分もリディアも早速使うものだと思っていたから、これには拍子抜けした。
シシィは少し疲れた溜まったのか、いつもより低い声で言った。
「明日多めに炭と灰を作ってどうにかしようと思っている」
「なるほど、じゃあソフィには明日も来てもらわないと困るわね」
リディアがそう言ったが、正直なところ明日もあの場所まで歩いていくのかと思うと気が滅入る。
「いやリディアよ、灰くらいであればリディアが運べるのじゃ。妾の魔法を使わずとも問題ないのじゃ」
「何よソフィ、明日やることがあるの?」
「いやそういうわけではないが」
正直に答えてから少し後悔した。ここは嘘をついておけばよかったかもしれない。村の中央にいけば何かしらやることは見つかったかもしれないのだ。
「ならいいじゃないの、ソフィも暮らしがよくなるほうがいいでしょ」
「それはそうではあるが」
「だったらいいじゃない、ソフィの力は必要だもの。ソフィがいてくれないと困るわ」
「うーむ、そこまで言われては仕方がないのじゃ」
リディアに頼られるというのは悪くない。自分は今まで大して貢献できていなかったから、ここでもう少し踏ん張るのもやぶさかではない。
今はお世辞ではなく、リディアが心からこちらの力を欲しているのだ。リディアのような凄腕の剣士でも、シシィのような優れた魔法使いでも、自分のように魔物を出したり異空間接続魔法を使うことはできない。
この力があればああいう仕事はどんどん進む。二人に頼られるのは悪くなかった。自分が少し成長したような気がしてしまう。
思わず胸を張ってのけぞってしまう。
「うむ、では妾も手伝うのじゃ。大船に乗ったつもりで妾を頼るがよい」
「まぁソフィ、頼りになるわ! その調子よ、みんなでがんばってウハウハな未来を目指すのよ!」
リディアはグッと拳を握ってそう言った。
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